「……見つからないねぇ」 名前はしゃがみこみ、低く茂ったあじさいの葉をそっとかき分けながら呟いた。 猫の鳴き声を探すように耳を澄ませてみるけれど、聞こえてくるのは、風に揺れる木の葉の音だけ。 舗装された道から外れたこの路地は、校門から少し離れた、駅へ向かう裏道のひとつ。 民家と古い植え込みが続く、ひっそりとした抜け道だ。 通学時間と違って人通りもなく、夕方の湿った空気が辺りを静かに包み込んでいた。 名前の隣には、小さな男の子がぽつんと立っている。 まだ小学校に上がったばかりくらいの年齢だろうか。制服でもないシャツの袖で、彼は何度も目元をこすっていた。 泣きはらした目は真っ赤で、声をかけた時も最初は怯えていたけれど、 「お姉さんと一緒に探そっか」と言うと黙ってうなずいてついてきた。 だけど、あれからもうどれくらい探しただろう。猫の姿はどこにも見当たらない。 「もしかしたら、駅の方まで行っちゃったのかな……」 ふうっと息を吐いて立ち上がった名前が、制服のスカートの土を軽くはたいたそのときだった。 ーーぽつ 鼻先に、何かが落ちてきた。 見上げると、空はうっすらと霞んでいる。霧のような細かな雨が、いつの間にか舞い始めていた。 「あちゃ……確かに、朝“降るかも”って予報出てたもんなあ……」 小さく額に手をやりながら、名前は空を見上げる。 そういえば、今日はすこしだけ落ち込むことが続いたなあ。 どこかぼんやりとした空の色を見ていると、不意に思い出されてくる。 名前が男の子と猫を探すことになる、ほんの少し前のことーー --- その日は朝から、ぼんやりとした色の空だった。 すでに5月も中旬に入り、昼下がりの教室には少し蒸し暑い空気が漂っていた。 窓の外に揺れる木々の緑だけがやけに鮮やかで、妙に印象に残っている。 相変わらず、名前はクラスの中で一歩引かれた存在だった。 「おはよう」と声をかけると「お、おはようございます!」と返ってくる挨拶は、まだどこか緊張をはらんでいる。 “話しかけていいのかな”という戸惑いが混じるその声に、 私はちょっと怖い先輩かな…と名前は苦笑しながら自分の席に着いた。 背後では、挨拶を交わしたクラスメイトたちが小声ではしゃいでいるのが聞こえる。 決して悪意があるわけじゃない。むしろ、どこか憧れの混じったような声音だ。 まあいっか……嫌われてないならいっか……そう心の中で呟いて、気持ちを切り替えた。 そして、その日最後のホームルーム。 黒板に書かれた「体育祭の種目決め」の文字に、名前の目が少しだけ輝いた。 (こ、これだー!) これを機にクラスのみんなともっと自然に話せたらいいな… そんな淡い期待が、彼女の胸の奥でふつふつと膨らんでいた。 その熱は”大縄跳び”の参加者を募る声に、名前が迷いなく挙げた手に込められていた。 みんなと協力し合って、少しずつ距離が縮められる競技ーーすなわち大縄跳び! 若干クラスがざわついた気がするけど、 そのまま無事にメンバーが決まり、名前は頬が綻ぶのを止められなかった。 けれど、浮き立つ気持ちも束の間、 ふと自分の席の前に座る女の子ーー狭山さんが、項垂れるように机に伏しているのが目に入った。 そう。例の消しゴム事件の子だった。 黒板を見れば、彼女の名前は”クラス対抗リレー・女子アンカー”に記されている。 (……大丈夫かな) 体力測定で一緒に走った時、狭山さんは確か4人中3位だった。 確か彼女はテニス部で、放課後は同じクラスの子と笑いながらラケットを持って教室を出る様子が記憶に新しい。 名前は走ること自体嫌いじゃない。 寧ろ颯爽と走り抜けることに高揚さえ感じるが、 いまこの場面で一番大切なのは、自分だけが目立たないことだった。 仮にアンカーで、万が一にも活躍してしまったら、 “名字名前”という存在が、またひとつ遠ざかってしまうかもしれない。 「名字名前様と親しくした者は全員処刑」と冗談めかして言われる未来すら、 おこがましいのでは?と思いながらも、この現状からなんとなく想像できてしまう。 ーーそれでも… 「…あ、あの狭山さん!もしよかったら、大縄跳びのメンバー……替わらない?」 声をかけられずには、いられなかった。 頭の中の名前は「私のばかー!」と叫び床を転げ回っていたが、 狭山さんの顔にみるみる血色が戻り、戸惑いながらも笑顔を浮かべるのを見たら、頭の中の名前はすぐに吹き飛んだ。 「えっ…で、でも…いいんですか?」 「うん!実は、大縄跳びの練習にあんまり時間が取れないかもで……皆に迷惑かけちゃいそうなんだ。 アンカーはちょっと緊張するけど……狭山さんの分も頑張るよ!」 あははと笑ってそう告げると、 狭山さんは深く頭を下げて「本当にありがとうございます!」と何度も繰り返した。 (ございます、はいいんだけどね……)と名前は心の中で苦笑しながら、体育委員にメンバーの変更を伝えに行く。 クラス内が再びざわついたが、もう気にしないことにした。 ーーせっかく選んだ道だ。 どうせやるなら、狭山さんが「替わってもらえてよかった」と心から思ってくれるように、全力で走り切ってやろう。 それが、今の私にできる最大限のゴールなのかも。 |