上窓から忍び込んだ美術準備室は、しんと静まり返っていた。 棚には絵の具や画材がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、少し甘くて、どこか懐かしい匂いが漂っている。 「……侵入、大成功だね。なんか、悪いことしてるみたいでドキドキする……」 「“みたい”じゃねーと思うけど」 快斗がぼそりと返すと、名前は「まあ確かに」と苦笑を浮かべた。 「じゃあ、私は探し物するね。黒羽くんはその…ここを出た後にまた窓の鍵しめてくれると嬉しいんだけど…」 「へいへい。バレたら俺も困るしなー」 「あはは。黒羽くん共犯にしてよかった」 そう言って笑った名前は、そっと快斗のもとを離れて奥へと進んだ。 準備室自体はそれほど広くないが、思った以上に物が多く、雑然としている。 足元を注意しながら進むと、棚の上段に数枚のキャンバスが積まれているのが見えた。 ――埃、けっこうかぶってる。……もしかして。 名前は近くに置かれていた、同じく埃まみれの踏み台を引き寄せた。 慎重にそれに登り、キャンバスを取ろうと手を伸ばす。だが―― 「……んっ…引っかかってる?」 角度を変えながら、少し強めに引いてみた。 その瞬間――バキッ、と小さく嫌な音が鳴り、足元がぐらりと傾ぐ。 「う、わっ――!」 体が後ろへと傾き、キャンバスを抱えたまま倒れていく。 背中にぶつかる痛みを覚悟して目をつぶった、そのとき。 ふわりと、誰かの腕に支えられる感触。 そして、ほんのりとした体温が背中に触れた。 「黒羽くん……」 「ったく、あぶねーな。さっきの猿みたいな動きはどこいったんだよ」 倒れかけた名前を後ろから支えていたのは快斗だった。 キャンバスごと抱えるようにして、しっかりと彼女を受け止めている。 「……ありがとう。でも、猿は余計」 少しむくれて言い返すと、快斗はひょいっとキャンバスを奪い取るように持ち上げた。 一瞬だけ思案するような顔をしたあと、口を開く。 「……絵、探してんのか?」 「……うん」 「ふーん……。あっちに運んでやるよ」 そう言って、快斗は準備室の中でも窓からの光がよく当たる場所へと、キャンバスを運んでいった。 その背中を見つめているうちに、名前の胸の奥にぽっと暖かいものが灯る。 さっきの、背中を支えてくれた感触と一緒に。 (……やっぱりこの人、ぶっきらぼうだけど優しいな) 名前は快斗の後を追って歩きながら、今度は素直にお礼を言葉を口にした。 「……ありがとう。すごく助かったよ」 快斗は「別に」とでも言いそうなそぶりで肩をすくめながら、数枚のキャンバスを壁に立てかけた。 名前はその前にしゃがみ込み、じっとそれらを見つめる。 どの絵も、真昼の校舎を描いた風景や、生徒の自画像のようだった。 どこにも、あの夜――月明かりの中で父が描いていた、あの絵の気配はない。 少しずつ、肩を落とす名前の様子を快斗は横目で見ていた。 「……違うか?」 「うん……。まだ奥にあるかもしれないから、もう少し探してもいい?」 「俺は別にいいけど」 「ごめん付き合わせちゃって…」 「今更だろ」 「あはは、それもそっか」 名前は立ち上がると、小さく息を吐いて準備室の奥へと歩き出した。 その背中を見送っていた快斗が、ゆっくり口を開く。 「……なあ」 「ん?」 「ただ待ってるのも暇だし、俺も探してやるよ。………オメーが嫌じゃなければ」 名前はぴたりと足を止め、驚いたように目を見開いた。 次の瞬間、胸の奥にまたじんわりと優しさが広がっていくのを感じた。 (……黒羽くんって、ほんとに……) 自然と笑みがこぼれる。 「……ううん。全然嫌じゃない。ありがとう」 「おう」 照れくさそうに、でも安心したように微笑み返す快斗。 そのあと二人は、大きなキャンバスがありそうな場所を探しながら、棚や引き出しを丁寧に開けていった。 静かな部屋に、二人の気配だけが優しく重なっていく。 |