「いけません、お嬢様。ただいま旦那様は執務中でーー」 「退いてください」 澄んだ声が廊下に響いた。 自分でも驚くほど、頭の中は静かだった。 執務室の前に立つ男たちは、みな祖父に仕える屈強な護衛たち。 幼い頃はその威圧感にすくみ上がったものだ。 だが今は違う。怖さよりも、心にあるものを伝えたいという一心だった。 「いくらお嬢様でも、無断で入られるのは……」 「ーー退きなさい。すぐに」 名前の声音には、一切の迷いがなかった。 普段は物静かにしている少女が放った凛とした気迫に、男たちは一瞬、動きを止めた。 その眼差しはまっすぐで、怯えも遠慮も微塵もない。 ひとりが、視線を逸らし静かに道を開けた。 他の者も無言で従うように身を引く。 名前はまっすぐ前を向いたまま、ゆっくりと扉へと歩みを進めた。 薄暗い廊下に、彼女の足音だけが静かに響いた。 --- 「…誰が入れた。お前の入室を許可した覚えはない」 祖父の低い声が、重く広い書斎に響いた。 書類の束に目を落としたまま、こちらに一瞥もよこさない。 変わらぬ威厳と重圧。まるで空気そのものが引き締まるような気配が、部屋中に満ちていた。 木目の深い机。壁一面の書棚。書類に囲まれて座るその姿は、あまりにも遠く、冷たかった。 ーーーあの時と同じだ。 泣いて転んだ幼い自分に、手を差し伸べることのなかった人。 痛いほど、よく分かっている。 「…騒がしくして、申し訳ありません。ひとつだけ、聞いていただきたいことがあります」 名前は静かに言葉を落とした。 わずかに震える声が、凍ったような空気の中に吸い込まれていく。 「…ハナのことか」 「…ご存じだったんですね」 ぺら、と紙を捲る音だけが響く。 やがて、祖父が言った。 「ハナを側にと望んだのはお前だ。そして、留めておけなかったのもお前の不足だ。 お前が昴子より弱く、劣り、誰にも畏れられていないからだ」 その言葉は、まるで裁きのようだった。 体が少しずつ冷えていく感覚がして、足がすくむ。 「これ以上話すことはない。下がれ」 それでも、名前は一歩も引かなかった。 顔を上げて祖父に向かってはっきりと言った。 「わかっています。 自分がそんな立場ではないことも。引き留めても、ハナさんを苦しめるだけだったことも」 「ならば、なぜここにいる。今のお前に差し伸べる手などない」 「ーー構いません」 その瞬間、初めて祖父の視線が動いた。 重い沈黙のなか、名前は胸の奥から言葉を搾り出す。 思い出すのはあの冷たい声―― "手を出すな。自分の力で立ち上がらせろ"と言われた日のこと。 あの日、傍にいてくれたのはハナだけだった。 そっと頭を撫でてくれた、あのあたたかい手はもうない。 「…もう、自分の力で起き上がりますから」 祖父の目が、じっとこちらを見つめた。 「ただ、転ぶ道は自分で選びます。 せめて自分の選んだ先で、転んで、起き上がりたいんです」 しばらくの沈黙のあと、祖父は重々しく印鑑を置いた。 その動きすら、決断の音に聞こえた。 「くどい。何が望みだ」 「…江古田高校への、入学許可を」 一語一語を、噛みしめるように言う。 そして、祖父の瞳をしっかりと見据えた。 ここで目を逸らせば、もう二度と自分に振り向いてくれない。そう感じた。 「……明日から武道の稽古を倍にする。 受けるからには不合格など言語道断。首席で入学しろ」 一拍もおかずに、ぴしゃりと容赦のない条件が突きつけられた。 「呑めない場合は入学許可は出さん。お前の頼みも金輪際聞かん。いいな」 ひとつひとつが名前に突き刺さる。喉がカラカラに乾き、ごくりと唾を飲んだ。 得意な体育以外の科目は、正直、頑張っても上の下。 唯一の救いと感じたことは、美術が受験科目にないことだ。 覚悟はしていたが、名前は現在中学2年生。 ーー残り2年弱で並々ならぬ努力が必要なことだけは分かった。 「…それと、鈴木の家に預けたあのバイクをうちの車庫に入れろ」 「……へ?」 祖父からの不意の指摘に間抜けな声が出て、名前は慌てて口を塞いだ。 …え?なんでバイクの存在がバレてるの? 「お前があの家に勝手をしたことを、私が把握していないとでも思ったか」 名前の考えが顔に出ていたのか、祖父の眉がぴくりと動きはっきりとそう答えた。 「あの男の世話になるのだけは、死んでも我慢ならん。 これは入学の条件ではない。命令だ」 “あの男”ーーきっと、鈴木次郎吉おじ様のことだ。 このふたりは犬猿の仲として有名だった。 「でも、いいのですか…その…」 「お前が何に乗ろうが興味はない。 だが、ただ運ばれるだけの女は、従順ではあっても愚かだ。好かん」 祖父の鋭い視線が、再び書類へと戻る。 「…下がれ」 短く、それでも重いその言葉に、名前ははっとして頭を下げた。 静かに背を向け、書斎の扉へと向かう。 扉を出た途端、名前は一気に力が抜けてしまった。 まだ14歳の名前だが、この時間が今まで生きてきたなかで最も長く感じられた。 バイクのくだりからは何か夢でも見ている気もしたが、 とてつもない達成感と、それと同等、いやそれ以上の焦りを抱え、足早に自室へ戻った。 |