「先生…江古田高校って、今年の推薦先に入ってるんでしたっけ?あの、中野にある」 放課後の職員室。 部活動に出向く先生方が多いのか人は少ない。 「……江古田高校?」 不思議そうに反応した担任の顔に、どこか一瞬の緊張が走ったのを名前は見逃さなかった。 「はい、あの、ただ……父がそこで教師をしていたと聞いて。 どんな学校なのかなって思って」 あくまで軽い世間話のように装ったつもりだった。 だけど、先生の目は僅かに泳ぎ、言葉を選ぶように口を開く。 「ええと……そうねえ…あそこは進学にも多少強いし、校風も自由だけれど。 うーんでも……こういうお話って、保護者の方にも確認を取っておいたほうがいいわね」 「ーー!」 瞬間、名前の背筋に冷たいものが走った。 「……あ、いえ!別に進学とかそういう話じゃないんです。 ただ、興味があって……すみません、変なこと聞いちゃって」 あわてて笑ってみせたものの、声はほんの少しだけ震えていた。 先生は「そう? うん、まあ、気になるなら資料とか見せてあげても」と言っていたけれど――。 (しまった……) 名前はその場で頭を抱えたくなった。 “保護者に確認を取る”なんて、あの人の耳に入ったら大ごとになりかねない。 (どうか…どうか、昴子おばさまの耳に入りませんように) 祈るような気持ちで、名前は静かに職員室を後にした。 帰宅中の車はどうにも落ち着かず、使用人から預かると言われても鞄をぎゅっと抱えていた。 --- 名前の予想を反して、数日が過ぎても昴子は何も言ってこなかった。 朝の食卓でも、ふいに顔を合わせる廊下でも―― 昴子はいつも通りの無表情で、こちらの顔すら見ようとしない。 (……もしかして、先生、何も言ってないのかも) 名前はほっとしつつも、どこか不安を拭いきれなかった。 昴子の“何も言わない”は“すべて知っている”とほとんど同義だったからだ。 けれど、何も起きなかった。 だから少しだけ気を抜いていたのかもしれない。 その知らせは、意外なところから届いた。 「ーーーハナさんが、隠居する……?」 廊下で使用人同士が交わしていた会話の一片が耳に入ったのは、ちょうど部屋に戻ろうとしたときだった。 思わず足が止まり、振り返ると、話していたふたりがバツの悪そうな顔をして口を噤んだ。 「…なぜ?」 問いかけは低く抑えたつもりだったけれど、自分でもわかるほど声が震えていた。 「お嬢様……その…昴子様が”足元のおぼつかない人間は、それだけで危険物だ”と……」 言いかけた言葉が苦しくて、そこから先は聞こえなかった。 (危険物――?) 誰よりも優しく、誰よりも自分に寄り添ってくれたハナを“危険物”だと。 そんな言葉をハナに聞かせたと思うだけで、名前は叫び出しそうだった。 ハナが荷物をまとめて玄関へ向かっていると聞き、名前は部屋を飛び出した。 磨かれた床に響く足音も気にせず、階段を駆け下りる。 屋敷の正面玄関、漆黒の門扉の前―― そこに、小さな旅行鞄をひとつ足元に置き、同じく小さな背中を丸めた老女の姿があった。 「ーーハナ!」 呼ぶ声が裏返る。 振り返ったハナの瞳が、少しだけ驚いたように揺れた。 それでも彼女は、すぐにいつものような優しい微笑を浮かべる。 「お嬢様……」 「だめ、行かないで!もう少し、もう少しだけ待って!私がなんとかするから!」 幼い子どもに戻ったような、自分でも驚くほど真っ直ぐな叫びだった。 けれど――ハナは首を横に振った。 「……いけませんお嬢様。ハナのために、お嬢様へご苦労はかけられません」 その言葉に、胸が締めつけられる。 目頭が熱くなり、喉がきゅっとする感覚。 「一緒にっ、一緒にお父さんのアトリエに行くって言ったじゃない… 他にも、まだハナさんと行きたいところがーー」 「お嬢様」 ハナが名前の両手を、あのしわくちゃであたたかな手で優しく包む。 名前はハナの穏やかな顔を見て、ハナの心は変わらないのだと分かってしまった。 「ハナさん…いや、いやだよ…私、ハナさんに何もしてあげられてないのに…」 「いいえ…ハナはお嬢様にたくさんのものをいただきました。 お嬢様のおそばにいられて、幸せのような日々でした…」 「どうか……お母様のような、ご立派な女性になられてくださいね」 そう言って、そっと名前の頭を撫でた。 幼いころ、祖父の前で転んで誰もが名前を放った時、この手だけが頭を撫でてくれた。 その手は昔と同じぬくもりで、以前よりも力は弱く、少し骨ばっていた。 涙が出そうになるのを必死にこらえながら、 自分にはハナを引き留められる力がないと悟った名前は、ただその小さな背中を見送ることしかできなかった。 せめて、これ以上ハナを困らせたくなかった。 |