その週の土曜、小春日和の午後。
名前は珍しくひとりで電車に揺られながら、車窓から流れる景色をぼんやりと眺めていた。


本来はハナと一緒に向かうはずだったが、足の具合が悪いようで屋敷で休んでもらうことにした。
何度も「付き添えます」と言ってくれたハナを安心させるため「園子が来てくれる」と小さな嘘をついた。

罪悪感が胸の奥をちくりと刺すけれど、それでも行かなければならなかった。

次にまた、自由な時間を得られる保証なんて、どこにもなかったから。


名前はふとバッグに手を入れ、古びた鍵を取り出す。
数週間前、誕生日を迎えた夜にハナがそっと手渡してくれたものだった。

昴子様には絶対に知られてはなりませんよーーそう添えて。


鍵は、皺くちゃな包装紙に丁寧に包まれていた。
その紙には、ハナの柔らかな筆跡で一つの住所が記されていた。


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電車を降りたのは、どこか時間が止まったような静かな駅。
人通りもまばらで、都心とは違う、ゆるやかな空気が流れていた。

小さな商店街を抜け、玉川上水沿いを歩く。
やがて見えてきたのは、蔦の絡まる古い一軒家。

ガレージのような大きな扉、その横に木の玄関扉。
門柱には「花岡アトリエ」と、控えめな文字が刻まれていた。


──ここで、お父さんは絵を描いていたんだ。


鍵を差し込み、ぎぃ…と軋む音とともに玄関扉を開ける。

柔らかな光が差し込むアトリエの中には、使いかけのキャンバス、少し散らかった画材。
空気には、ほのかに絵具の匂いが残っていた。

名前はそっと足を踏み入れ、画材棚やキャンバスをひとつずつ丁寧に探っていく。
けれど、記憶にある父の絵は見つからなかった。


そのとき、机の上に置かれた一冊のスケッチブックが目に留まる。

名前は天窓からの光の中、そっとページをめくる。
それは母と結婚する前の父が綴った、日記兼スケッチブックだった。

何気ない日常の言葉とともに並ぶ、やわらかな鉛筆の線。
そこに宿る父の気配を追うように、名前は夢中で読み進めていくが途中で手を止める。



ーー「4月、江古田高校にて新任。教えることに、少しは慣れてきた」



そのページの端には、桜の木と校舎の一角を描いた淡い鉛筆画が添えられていた。


胸の奥がじわりと熱くなる。


次の瞬間には、息苦しくなるほど焦る気持ちが込み上げてきた。
この手が届きそうな過去を、自分がなにひとつ知らなかったことが、悔しくてたまらない。


ページをめくる手が、知らず震えていた。
ふと力が抜けた時、間に挟まっていた一枚の写真がふわりと落ちた。

名前は慌てて拾い上げ、その瞬間、息を呑む。



「えっ……」



写っていたのは、若く無邪気な笑顔の母の姿。
モデルさながら中型バイクにもたれ掛かり、太陽のような笑顔でカメラを見つめていた。



「お母さんって…バイク、好きだったんだ……うわぁ…はは……」



写真を見ながら、思わず笑ってしまう。
知らなかった母の姿に触れられたことが、ただ嬉しかった。


それだけじゃない。胸の奥に、熱いものがこみ上げてくる。
知らなかったことが、また一つ手に入った。その喜びと、寂しさと、戸惑いと──


名前は日記に写真を挟み直し、それらを大切にバッグへしまう。
速くなる鼓動を感じながら、外へ出ようとしたその時、ふと足が止まった。


ーーもしかして。


引き返すようにしてガレージの方向へ。
外から見えていた小さなドアを見つけ、胸を高鳴らせながら開ける。


中には彫刻やオブジェ、そして奥の一角に、布のかけられた大きな物体。
名前がそっとカバーを取るとーー



「…お母さんの、バイク……」



写真で見たとおり、深いグレーとブラックの車体に、ブラウンのレザーシート。
派手さはないが、クラシックで、どこか凛とした佇まい。

車体の細かな傷や、うっすらと積もった埃。
それらすべてが、母が生きていた証のように思えた。



しばらく涙なんて流していなかったのに。自然と、はらはらと頬を伝っていた。
これまで涙を流してきた時の痛みとは違う、何かが解けていくような切ない胸の痛みだった。



「……ありがとう」



埃っぽいガレージに、ぽつりと響いたその声は、
どんなに豪華な贈り物よりも、自分の心に深く染みわたっていくのを、名前は確かに感じていた。







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