「ーーー名前お嬢様、こちらへ」 ホテルのロビーに入るなり、冷たい風のような声が響いた。 モノトーンの制服に身を包んだ使用人たちが、機械のような足取りで寄ってくる。 大理石の床。黄金色のシャンデリア。 さっきまでいた、あの夕日の丘とはまるで別の世界。 「靴が……左右異なりますね。お着替えの準備を――」 「お洋服も泥まみれで……どういうことです?」 誰かがささやき、誰かが呆れたようにため息をついた。 けれど名前はもう、何も言わなかった。言えなかった。 …また、戻ってきちゃったんだ 首筋に感じるのは、優しさではなく規律の空気。 ホテルの奥へ連れられながら、名前は少しだけ足を止め、 ふと、さっきの少年――あの子のことを思い出した。 鳩が飛び出す帽子。トランプ。花吹雪。 あの子の腕に引っ張られて、必死で路地裏を走った。 怖くて、痛くて、でも楽しくて、ちょっと泣いた。 すうっごく楽しかったね!って言ったとき、 少年は少し驚いた顔をして、それから照れたように笑って―― 小さなピンク色のバラを出してくれた。 …名前、聞けなかったな 彼のスニーカーを片方もらった足先を見つめる。 泥がついてボロボロだけど、あたたかかった。 幼い名前には重厚すぎる椅子に座らされ、メイドが無言で髪をほどいていく。 無機質な部屋に、誰も笑ってくれる人はいない。 明日にはまた日本に戻る。 きっと、名前の目付け役であるおば様にとびきり冷たい叱責を喰らうだろう。 でも……あの子が、守ってくれた 思い出すたびに胸がじんわりしてくる。 ジェラートをこぼさないように一緒に歩いた坂道、夕日に照らされたあの丘。 そして、頬を赤らめながら差し出された、花―― そっとベッドにもぐり込むと、名前は枕に顔をうずめてそっと笑った。 ありがとう。ねえ、あのとき……名前、なんて言おうとしたの? 答えのない問いを胸のなかで繰り返しながら、 名前はその夜、少しだけ夢を見た。 小さい手の中に咲いたピンクのバラが、風に乗って空へ舞い上がる夢を―― |