「ーーーどこほっつき歩いてたのよ、黒羽快斗!!」 ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、鋭い声が炸裂した。天井まで響くような声だった。 快斗はバツが悪そうに肩をすくめながら、全身泥まみれの格好で振り返った。 白いドレス姿の母・千影が、すでに腕を組んで仁王立ちしている。 その背後には、ホテルのスタッフや他の宿泊客たちが、好奇心と心配の入り混じった視線を送っていた。 「ちょ、ちょっと外に出てただけだって……!」 「ちょっとでその有様!見なさいそのズボン、膝破けてるじゃない! なに?靴は?足どうしたの!?しかも泥だらけってアンタ!」 母のヒステリックな声に、快斗は言い返す隙もない。 しゅんと肩を落としていると、ホテルスタッフが気遣わしげに声をかけてきた。 「マダム、お部屋に温かいお風呂を手配いたしましょうか?」 「ええ、お願いします。息子が道に転がり回ったもので。 すぐに洗い流さないと、パリの景観が汚れるわ」 「……転がり回ったって言い方ひどくね……」 「言い返す元気があるなら、風呂場に直行なさい!」 千影に背中をぱしんと叩かれ、快斗はスリッパを片足履かせられるとそのまま部屋へと連行された。 --- その夜。 バスルームから立ちのぼる蒸気の匂いもすっかり引き、快斗はふかふかのベッドの上に寝転んでいた。 怒られて、風呂に入って、服を替えて……お腹も空いたはずなのに、なぜか食欲がなかった。 ただ、ぼんやりと天井を見上げている。 ーーあの子の顔が、頭から離れなかった。 ベンチにぽつんと残して、ジェラートを買いに行った自分。 戻ったときにはもう姿がなくて、焦って、走って、見つけた。 細い体で無我夢中に抵抗していた彼女。 泣きながら、震えながら、それでも俺を助けるために懸命に叫んでいた。 「やめてーっ!!」 そして、飛んできた赤い靴。 あの可愛らしくも硬そうな小さな靴が、見事に誘拐犯の顔面にヒットした瞬間。 そのあと手を引いて、走った。とにかく走った。全速力で。 ――逃げ切った後、彼女は笑っていた。 「すうっごく楽しかったね!」 あんなに怖がっていたのに、泣いていたのに、あんな風に笑えるなんて。 快斗は、ベッドサイドに置いた小さなピンクのバラに目をやる。 手の中から取り出して渡そうとしたのに、受け取られなかった花。 あのとき、言おうとした名前。 名乗ろうとしたのに、教会の鐘の音にかき消されて―― 「…オレ、快…」 「…え?」 間抜けみたいに、口をぽかんと開けた彼女の顔。 あの後、彼女は名前を聞ける間もなく、大人たちに連れられていった。 名前も知らないまま。片方だけ、快斗の靴を履いたままで。 快斗はふと、自分の足元を見下ろした。いつものスニーカーが片っぽなかった。 あの子のために脱いだやつ。 彼女の赤い靴はあの坂の夕暮れに置いてきた。 きっと今頃彼女も、あの大人達の保護のもとだろう。 「……ったく、お姫様気取りかよ」 口ではそう呟いても、胸の奥がきゅうっと苦しくなった。 名前も、年齢も、住んでる場所も何もわからない。 でも、あの笑顔だけは、どうしても忘れられなかった。 「……また、会えるのかな」 独り言のように呟いた声に、誰も答える者はいない。 幼い快斗にとって、そんなパリの夜は静かで、どこか哀しかった。 |