パリの春は、風の匂いが日本とは違っていた。 青い空と真っ白な雲の下、古い石畳を小さな靴音が弾んでいく。けれどその足取りは、決して軽やかとは言えなかった。 ――名字名前、6歳。 あの厳しい祖父に何度もお願いをして、厳しい稽古にも耐え、 ようやく来させてもらった遠い国。亡き父が、生前よく絵を描いていたというフランス。 使用人のハナがこっそりくれた、フランスでの父と母の写真。 この写真を手がかりに、名前は護衛に手を引かれ街を歩いていた。 賑やかなパリとは相反して、名前の表情はどんどん暗くなっていく。 「もうすこしだけ…もうすこしだけ探したいの」 唯一、名前に優してくれるハナはもう足も目も悪いため、フランスには付いてこれなかった。 同行してくれたのは、無機質で機械のような護衛が数名。 腕時計にちらりと目をやった護衛は、小さなため息をついた。 「お嬢様、そろそろホテルに戻らないと…」 「まだなの。お父さんが、どこかで描いていた絵…ちゃんと見たいの」 ――月光に照らされながら父は絵を描いていた。その父のうんと優しい横顔。 その記憶のなかで思い出せるのは、それだけだった。 けれど、たしかに心の奥に焼きついているその表情が、名前はどうしても忘れられなかった。 数ヶ月前、あの白い魔法使いに出会った夜から。 名前はどんなに無理だと思うことでも、諦めないと決めたのだ。 つらく暗いなかでも希望の光はあると知ったから。 たとえどんなに朧げな記憶でも、最後に父が描いていたはずの絵を探すことも、諦めたくなかった。 あのとき、お父さんが何を描いていたのか…ひとめでもいいから… そう言って帰りたがらない名前に呆れ、さらに腕を引こうとする護衛達。 そんな護衛達の背後、名前の視線の先には二人の後ろ姿が映った。 柔らかな栗色の髪、長身の男性。 その隣には、明るいベージュのスカートを揺らす黒髪の女性―― 「…… お父さん…? …お母さん!」 「お、お嬢様!」 名前は反射的に駆け出していた。護衛の制止も聞こえなかった。 走りにくいピカピカの赤い靴で大きな石畳を踏みしめ、細い路地をすり抜けて。 人混みをかきわけ、ようやくその二人に追いついたとき―― 名前に驚いて振り向いた顔は、まったく知らない人たちだった。 「…ちがう」 名前の目から力が抜ける。 聞きなれない言語で声をかけくれる二人に、 小さな声で伝わるはずもない「ごめんなさい…」と呟き、名前は背を向けて小さく駆けた。 ……あれ…… そしてようやく気づく。 護衛の姿が、もう見えない。 ぐるりと周囲を見渡しても、知っている顔はどこにもなかった。 視界の中に広がるのは、知らない言葉、知らない風景。 「……おかあさん……おとうさん……」 ポツリとつぶやいた瞬間、目の奥から熱いものが込み上げた。 肩が震え、涙がひとすじ頬を伝う。 やっぱり、もう母にも父にも抱きしめてもらえないんだ。二度と、会えない。 名前は涙を一生懸命止めようと瞼を擦るも、ちっとも止まってくれなかった。 ついには、ひくひくと喉が震え始めた時ーー 「……オメー、大丈夫か?」 不意に、聞き慣れたイントネーションが耳に届いた。 名前が顔をあげると、そこには同じくらいの年頃の男の子がいた。 黒髪に真っ赤なベスト、やんちゃそうな瞳。 彼は、名前の顔をじっとのぞき込んでいた。 「Ça va(大丈夫)? 日本人か? 迷子?」 名前は瞬きをした。 「うん……」 名前がようやく返した声はかすれていたけれど、男の子はそれを笑わなかった。 「そっか。オレもさっき母ちゃんとはぐれた。ま、すぐ見つけられるけどな!」 胸を張って言うその姿に、名前の中にふとある思いが浮かぶ。 「フランス語…わかるの?」 「んーちょっとはな。オメーが分かるところまで連れてってやろうか?」 この子がいてくれたら…お父さんの絵についていろんな人に聞いてくれるかも… なんとも頼もしい少年に対し、そんな思いが強くなる名前。 すると、遠くから「お嬢様ーっ!」という護衛の声が響いてきた。 名前の心に、焦りが走る。 ダメ…見つかったらもう帰らなきゃいけない… ――名前は反射的に、目の前の男の子の手を掴んでいた。 「お、おい?」 男の子が驚いたように言った。 「あのっ…いっしょに、“お父さんの絵”をさがしてくれないかなっ?」 「え?お父さんの絵って…うわ!ちょっ」 男の子の疑問が終わる前に、名前は走り出していた。 手を引いて、ただひたすらに、護衛の声が届かなくなるまで走って、走って―― 「はあっ……はあっ……」 ようやく足を止めると、男の子が息を切らしながら叫んだ。 「……な、なんなんだよ、いきなり!?」 「……ごめんね。でも…お父さんの絵を探したいの。ひとりじゃ、ぜんぜん見つけられなくて…」 申し訳なさそうに項垂れる名前の姿に、男の子の目から怒りの色が消える。 「…父さんの絵なら、直接オメーの父さんに聞けばいいだろ?」 その言葉に、話したらまた泣き出してしまう気がして、名前は何も言えなかった。 うつむいたその目には、また涙が浮かぶ。 そんな様子に、少年は何かを察したように黙り込んだ。 しばらくの沈黙のあと、男の子は顔をそらしながらぼそりと言った。 「……しょうがねえから、一緒に探してやるよ」 「…え?」 顔をあげた名前は、ほんの一瞬驚いた顔をして――次の瞬間、ぱあっと笑顔を咲かせた。 「ありがとう!」 その笑顔は、春の光みたいで。少年も釣られて微笑んだ。 「でも、日が暮れる前には帰るからなっ!」 名前はコクコクと頷いて、男の子の手をもう一度しっかりと握った。 ――こうして、二人のちいさな旅が始まった。 |