固定された腕をぶら下げながら、時間をかけて携帯を操作する。憂太くんからの連絡は来ていない。時間から考えて、現地への移動が終わって、ちょうど任務中といったところだろうか。携帯に表示される時刻をしばらく眺めて、通話のボタンを押す。電話をかけてから、電波が通じない可能性に思い当たった。自分でも意識せず携帯を握りしめていた指の力が緩んだ瞬間に、コール音が止まった。

「もしもし?」
「ゆ、うたくん」
「はい」

 ジジジ、と機械音が耳元から響くのを聞く。憂太くんが、わたしの言葉を待っているのがわかった。わたしは用意していた台詞を、所々つっかえながら、早口で話す。全部言い終わって、数秒の沈黙の後、憂太くんは静かな声で相槌をうった。

「あの、じゃあ、切ります」
「先輩からの電話、うれしかったです」

 通話が終わってからしばらく、どうすればいいのか分からずに、何をするでもなくベッドの上に寝転がる。腕が邪魔だな、とぼんやり考えているうちに、時間だけがすぎていく。眠れないし、食欲はないし、こんな腕じゃお風呂にも入れない。
 ベッドの上でうとうとしていると、部屋の向こうで水音が響いていることに気づく。いつからお湯を出していたかはもう覚えていないけれど、覚えていないということは絶対に湯船から溢れている。ベッドから立ち上がるという労働と、加算されていく水道代を天秤にかけている間に、唐突に水音が止まった。

「……憂太くんがいる」
「あっ先輩、おはようございます」

 お風呂場からいつもの白い制服姿で出てきた憂太くんが、わたしの顔をみてゆるく笑う。いま何時だっけ、と呟くと、憂太くんから答えがかえってくる。どことなく夢うつつのまま、憂太くんの顔を見上げる。

「眠そうですね」
「うん」
「かわいい」

 やっぱり夢なのかもしれない。それとも、やりきったと思っていた、あの電話の方が夢だったのだろうか。憂太くんが口にする、先輩、という呼び声がいつもより数段甘く聞こえた。腰に憂太くんの手がまわされて、お互いの視線が重なる。

「ちゅーするの?」
「だめですか」

 わからない、と素直な言葉が口からもれた。キスを特別に大事にするような年齢はもう過ぎている。腕力では勝てない相手に、無意味な抵抗をしてまで守りたい自尊心はない。キスひとつで全部が丸く収まるのなら、女の子に生まれたことを感謝するのだけれど。わたしにとって、キスなんてそんなものだ。じゃあ、憂太くんにとってはどういう意味があるのか。それが、よくわからない。キスをするべきなのか、しないでいるべきなのか、判断がつかない。

「キスするかしないかは、先輩が決めていいことだと思いますよ」
「誰かに相談しちゃだめ?」
「僕たちふたりで相談するのはどうですか」
「うーん」

 憂太くんの胸に頭を乗せながら、ゆったりとしたテンポで会話をする。電気の消えた部屋で、お互いの心臓の音だけが耳に残る。自分の脳の働きがどんどん鈍っていくのを感じながら、どうすることもできずに、何もしないでいる。

「やっぱ、よくわかんない」
「わかんないかあ」

 困ったように、でもちょっと楽しそうに笑う憂太くんが、手遊びをするようにわたしの髪を指で梳く。憂太くんの手のひらの大きさに、首筋がぞわぞわした。

「じゃあ、僕を言い訳にしてください」
「……うん」

 一瞬お互いの唇が触れて、すぐに離れた。長い時間、ぐだぐだと話をしていたのはなんだったんだろうなあ、と思うと少しおかしくて笑ってしまう。まだわたしの背中を支えたままの、憂太くんの顔を見上げ、その瞳が揺らめく様子に心臓が跳ねた。

「憂太くん、泣いてる」
「ぎりぎり泣いてないです」
「なんで泣いてるの?」
「先輩のことが、好きなので」

 目の前の少年が、ひどく可哀想に思えた。何かをしてあげなければいけないと、義務感のようなものすら湧いてきた。何かを言ってあげなければいけない。違う女の子を好きになるべきだよ、というお別れの言葉か、もしくは、彼からの愛情を受け入れる言葉か。

「わたしも、好きだよ、憂太くんのこと」

 憂太くんは小さくうなずいて、わたしの肩に額を押し付ける。しばらくの間、憂太くんのまるまった背中を撫で続ける。顔を上げた憂太くんは、恥ずかしそうな表情で小さく感謝の言葉をつぶやく。
 もう夜も遅いから、と帰り支度をする憂太くんを玄関まで見送る。おやすみなさい、と挨拶をして、扉を閉める寸前に思い出したように憂太くんがわたしに言葉をかけた。

「いつでもまた、電話ください」

 憂太くんが帰ってから、ベッドの横に落ちていた、自分の携帯の通話履歴を確認する。数時間前に、憂太くんと通話をした記録が残っている。わたしはあのとき、何を憂太くんに伝えたのか。別れの言葉、拒絶の言葉を伝えるために、電話をかけたのは間違いない。なのに、そうした言葉の痕跡は、この世のどこにも残っていないのだった。
 愛情の徴だけが、消えることなく在り続けている。どうやったらかき消せるのか、わたしにはもう分からなかった。
05


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