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 七海龍水は、今日まで船長以外の役職についたことはない。いちばん最初に船にのったときから、ずっと船長をやってきていた。船乗りには多くの役職が存在する。たくさんの人間が、それぞれの技術をそれぞれのやり方で発揮し、力を合わせて船を動かす中で、船長の仕事は、実のところひとつしかないことを、龍水はしっていた。
 船をあずかること。誰にもその船を明け渡さないこと。船の全てを自らのものとすること。船を占有し、誰にも心を許さず、孤独でいること。船長がひとりしかいないのはそういう訳だ。ひとつの船には、常にひとりの船長がいる。

「その命を自ら捨てたいと願うほど、惨めな瞬間が船乗りにはある」

 龍水は静かな海面を指差しながら、その平らで謙虚な表情の海を睨みつける。この下で、大人しく座っている礁は、船を掴み上げるのに十分な力があるぞ、とわらった。

 座礁というのは、まさしく沈没の逆だ。「乗り上げ」という表現が、天候の穏やかな状況で座礁した船にあてはまる専門的な言い方だが、それは甲板にいる全ての人間の心の安定を、瞬時に打ち砕く。船乗りの仕事というのは、つまるところ船を浮かせておくこと、その一点につきる。それは船乗りに託された責務であり、少年が抱くすべての漠然とした衝動、夢、幻想の根底に横たわる信条でもある。少年はこのような感情に突き動かされて、船乗りになろうと決意するものなのだから。

 座礁は多少とも言い訳の立つ過ちであることも多い。それは全ての船乗りにとっての敗北だが、予期せぬ災難でもある。霧や海図にない海域や、危険な浅瀬、油断のならない潮流など、正当な理由の立つ座礁もある。船乗りの自責の念や失敗の重圧から生まれる不屈の精神は、ときに彼自身の救いになることもある。だが、船の船長にその救いは存在しない。
 船は助かる見込みのない場合もあれば、そうとも言えない場合もある。滑車装置の摩耗や時間の損失だけで、それ以上の困ったことが何も起こらない座礁もある。しかし、船が救われようが救われまいが、船長にはまぎれもない敗北感が残り続ける。どのような人生にも、常に本物の危険が潜んでいることを知る。それはある意味で知恵の習得であり、それゆえにいっそう、彼は信頼のおける人物になるのかもしれない。だが、もはや彼は同じ人間ではないのだ。

「責任の違いというやつだな」
「そうだ。船長には責任と権利がある」

 その船が、真実自分だけのものであると、そう言い切る権利は船長にしかない。七海龍水は、常に船の船長だった。自分の足元に浮かぶ、全ての船の唯一の独裁者だった。

「だが、全ての責が自分にあるという考えは、いささか傲慢ではないのか?」
「全てじゃない。それぞれに別の役割がある。だが、傲慢であることは認めてやろう」

 座礁した船の乗組員が全力で自身の責任をはたし、万事順調に上手くいくとする。一等航海士は、船長に希望をもって報告をするだろう。『船長、われわれは真夜中までには船を引き離します!』 その報告は一から十まで、正しい表現だ。

「船長が船を陸に乗り上げると、すぐに乗組員は船を引き離すために動き出す」

 何時間も一生懸命に、全員が船のために働く。重い錨、錨鎖、ボートなどを滞りなくさばき、バウアー、ストリーム、ケッジをいちばん効果的と思える場所に正確に配置する。意気盛んでなければ、そうした作業は行えない。座礁の敗北は、労働の汗で流されるだろう。口の奥に苦さは残るだろうが、船を引き離すという責任は、船乗りを慰める。
 そのとき、船長は孤独にいる。座礁し、竜骨の下に水がまったくないという不自然な窮地にある船の感じている惨めさを、ひとりで飲み込む。

「船を陸に乗り上げるのは船長、船を引き離すのは『われわれ』だ」

 俺は船長以外になるつもりはない。七海龍水は、微笑みをその顔に浮かべながら、大きな声で宣言をした。

「俺の乗る船は、全て俺のものだ。俺は船長なのだから!」

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