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 実際のところ、七海龍水は変わらなかった。ひとつの事実を、自分のなかで完璧に整理してしまっていた。過去を引きずることなく、完全な今を生きていた。それに異を唱えることは、フランソワには難しかった。主人の選択を否定できるほどの正当性が、自分の感傷の中にあるとは思えなかった。

「龍水、クロムのこと嫌いになっちゃったんだよ……?」
「嫌いとか嫌いじゃないってのと、船を動かすのは別だ」

 錨を下ろす作業は、神聖なものと考える船乗りは多い。重要で責任の大きな作業だからだ。船長が指示を出し、一等航海士が号令を出す。先ほどクロムが失敗したのは、まさにその錨泊だ。龍水の個人的な拘りを抜きにしても、船長として叱責が必要な場面だった。その口調にいつも以上の刺があったとして、龍水の好き嫌いが理由ではないはずだった。

「でも龍水、すごく落ち込んでるんだよ」
「俺がか?」
「錨がなくなっちゃったから」

 スイカの言葉は、誰もが予想していなかった波紋を呼んだ。スイカの言葉を聞いたクロムが謝り、特に関係のない大樹も謝り、ゲンがそれをフォローし、千空が嫌味を飛ばし、コハクがその茶化しを諫め、フランソワが龍水の変化に気づいた。

「錨は重い。船上で扱うものの中で、いちばん重いものが錨だ」

 龍水は、船尾を撫でながら静かに目を細める。スイカを手招き、水面に伸びる鎖を指し示す。落ち着いた声で、講義をするように錨について語る龍水は、教鞭を執る教師のように見えた。子どもを気遣う大人としての、ある種の余裕のようなものがみえた。稀に見るほどの穏やかさがあった。

「龍水、大丈夫かお前」
「ひどく不機嫌なだけだ」

 さっぱりとした答えは、龍水らしいと言える。龍水は千空の問いに、誤魔化すことなく答えを返す。その真っ直ぐさは、他人からの追求を明らかに拒絶していた。けれども石神千空という男は、当然のようにその拒絶を無視して問いを重ねる。

「ちょちょ、千空ちゃ〜ん? 誰にも触れて欲しくないことってあるとおもうよ?」
「メンタリストから見て放置してもいい案件なら触れねえよ」
「ふ・れ・か・た!」

 龍水は黙って千空とゲンのやりとりを聞いていた。自分の頬に手をあて、そうだな、とひとりごちる。次の瞬間、大きな声でわらった七海龍水は、両腕を広げ、海を指し示した。

「自叙伝はまだ執筆中だ、帆船についてなら語ってやろう」
「……ちなみに、どういう風の吹き回しで?」

 胡乱な微笑みを浮かべたゲンの言葉に、龍水は指を鳴らして答えた。自分自身に言い聞かせるよりも、貴様らに伝えたほうが、俺自身も納得するだろう、とわらう。満面の笑みで七海龍水は過去に置いてきた自分への殺意を、白日の元に晒した。死んだままでいるべきだ、と言い切った。

「一度失われた錨は、その後、船に何が起ころうとも、失われたままだ」
「引っ張り上げれんだろ、科学があればよ」
「陸に引き上げて、どうするんだ」

 錨が希望の象徴として扱われるのは、それが唯一の測りだからだ。陸から陸へ、また陸を離れ、陸に向かう船乗りにとっては、人生を区切り、切り分け、意味をもたせてくれるものは錨以外にありえない。

「一度失った錨に役割はない」
「でも龍水ちゃんはその『錨』を忘れられないってことね」

 七海龍水はわずかに目を見開き、気まずそうに、けれども素直に同意を示した。

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