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 海は征服できない。これは人類が共有するひとつの事実だ。
 海は詩や歌の中で、数々の称揚の対象になる。陸に生きる人間ですら、海に対して愛情を感じるといってはばからない。だが、海が人間に対し友好的であったことは、断言してもいいが、一度たりともありはしない。
 大地には人間への思いやりがあるが、海は違う。どの民族にも誠実ではなく、人間の勇気、労苦、自己犠牲から何ら感銘を受けず、支配を受け付けず、人間の主義主張を受け入れることはない。戦いの末に定住し、ゆりかごを揺らし、墓石を建てた陸地と、海は明らかに異なっている。

「でも龍水、海のこと好きなんだよ?」
「愛しているとも、そして憎んでもいる」

 海は測り知れないほどに無情だ。あわれみ、信義、掟、思い出を持たない海の魅力に自らの存在を委ねるためには、常に警戒が必要となる。不撓不屈、不眠不休の、油断なく武装した警戒をもちつづけるというその決意には、憎しみが伴う。

「俺には難しい! なぜそんなものが好きなんだ?」

 大樹の疑問に、龍水はわらって海を指差した。見ればわかるだろう、と周囲全てに問いかける。

「魅力的だろう、海というやつは」
「まあ石神村の人間は皆、水に親しみはあるな」
「貴様らは信じられないほどの阿呆だな」
「さっきから言ってることがめちゃくちゃだぞお前!」
「海への愛情は複雑であるはずだ」

 その愛情には、自尊心が多く混じり、必要性も少なからず入り込んでいるはずだ。その愛情の、もっとも深いところ、核心部分にあるのは、本当のところ、船に対する愛情なのだ。

「いやそれはお前だけだろ」

 龍水は、周囲の言葉など聞こえていないといわんばかりに、愛情についての講義をつづける。
 海には寛大さというものがまったくない。船乗りがどんな資質を備えていたとしても、その勇気、大胆さ、忍耐強さ、誠実さにすら、海は心を動かさない。その不動の海原に、船と人間とがともに刃向かうことを選択し、船出を選んだその瞬間から、海は船乗りと船の共通の敵なのだ。

「つまり……海のこと、嫌いなんだよ?」
「はっはー! もちろん、愛しているとも!」
「わかんないんだよ〜!?」
「心の底から愛していないというだけだ」

 龍水の言葉は、人を煙に巻いているようで、けれども真実味があった。その場にいる全員が理解できるほどに、龍水の言葉は真摯でひたむきだった。
 海はいつでも怒り狂っている訳ではない。ある瞬間の平穏は陸地のどこよりも静かで、魅力的な深みがある。その穏やかな雰囲気は、残酷さを覆い隠す欺瞞にすぎないのだ。船乗りが海を褒め称えるとき、言葉の裏に憎しみを隠しているのと同じく。

「海には幻想がつきまとう。それを捨てるときに、人間は船乗りになる」

 海の魅力には微笑をかえし、その猛々しさには悪意をこめて睨みつけてやる。海の残忍さ、その魅力に、鏡写しで応えられるようになる瞬間が来る。そうすると、同時に気づくのだ。彼方に浮かぶ、帆船の優雅な美しさと誠実さに。
 船乗りは海を心の底から愛することはない。海は善悪に無頓着で、もっとも卑しい貪欲であろうと、もっとも気高い英雄的な行為であろうと、情け容赦なく裏切ることは、人類全員が知っている。それと同じように、海は船に乗る若者の高潔な情熱も裏切るのだ。海は度量が広く、偉大であり、船乗りを愛しているという幻想は消え失せるときがくる。

 海は人間を殺し、船を殺す。誰にも胸襟を開きながら、何ものにも誠実でない海は、最良のものですら破壊する。海の上に存在する、最も誠実で美しい生き物を、簡単に裏切る。海は征服できない。海は懐柔できない。けれど、海の上で生きることに勝る喜びは、他にないのだ。

「あの女も、俺と同じように海を愛していた」

 あれは素晴らしい女だった。ともに生きることに、何の不安も、何の不幸もなかった。少し早くに疲れを見せた、それだけのことだ。あれは俺の横で、来る日も来る日もがんばってくれた。だが、永久にがんばることはできなかった。もう十分にやってくれた。終わってよかった。あれほどの女はいない。あんなに美しい日に沈むことができる幸せは、他にない。
 彼女は生きた。俺は彼女を愛していた。だが、彼女は苦しんだ。だから、俺は彼女がやすらかになってうれしいとおもう。

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