「やっと機嫌直してくれたのか!」
「よかったねカリム」

 絨毯が部屋の中央で、優雅に一回転する。カリムは一直線に、家のベランダに向かった。柵に足をかける。こちらを振り向きもしないカリムの背中に、わたしがかけるべき言葉は、きっと感謝とお別れだ。でも言葉は出てこなかった。魔法の絨毯が、わたしの正面、顔の前に舞い上がるのを視界の端で確認しながら、わたしはその場で倒れ込んだ。

「おい、おい目開けろ」

 目を開けると、怖い顔をしたカリムが、わたしを見下ろしていた。

「いつからだ?」

 違和感はいつからあったかわからない。カリムと初めて目が合ったあの夜からずっと、わたしはおかしくないところがない。いいや、もっと前からだ。この広い家に、ひとりで置いて行かれたときからずっと、わたしはまっすぐに立てていない。

「熱はないな、吐き気は?」
「そんなのないよ、仮病なんだから」

 目を閉じただけの、不格好に床に倒れた大根役者にこんなに必死になるなんて、ダメじゃないか。騙されたらダメじゃないか。カリムみたいな良いやつが、わたしみたいな女に足を引っ張られて、こんな場所で時間を浪費するなんて、ダメじゃないか。

「でも、苦しいんだろ」

 カリムがわたしの口元に、何か薬のようなものを差し出す。わたしは拒否するが、カリムは怒ることもなく、黙ってわたしの瞳を見つめ続ける。これを飲んだら、わたしの病気は治るのだろうか。わたしの不幸ぶった、やさぐれた毎日は終わってしまうのだろうか? ひとりきりでも、立って前を見て生きられるようになるのだろうか?

「わたし、病気でいたいの」
「なんでだよ」
「カリムみたいなひとが、来てくれるかと思ったから」

 わたしは控えめにいっても大金持ちで、健康で、自由を許された若い女だ。昼に寝て夜に起きるような生活をしていても、学校なんてやめてしまっても、働かずに遊んでくらしても、嘘泣きと仮病で、不幸みたいな顔をしていても、誰も何も言わない。お父さんもお母さんも、何も言わない。言っていても、わたしにはわからない。天国からの言葉なんて、わたしの耳には聞こえない。

「じゃあもう、必要ないだろ」

 カリムがわたしの顎を強く掴む。白い錠剤が、わたしの口の中に滑り込んでくる。カリムの言葉が、わたしの脳内まで染み込んでいく。

「オレが来ただろ」

 王子様が来てくれた。助けにきてくれた。魔法の力でわたしの元気を取り戻して、全部をハッピーエンドにしてくれようとしている。その幸運を喜ぶべきだ。自分が特別な女の子であった瞬間を大事にしながら、これからの現実を生きていくべきだ。わたしの特別な物語は、もう終わりの時間が来た!

「……苦い」
「薬は甘くない」
「なんの薬?」
「お前がオレを好きになる薬」

 予想外の言葉にちょっと咽せるわたしを、カリムの腕が押さえつけてくる。わたしがカリムにその真意を聞くより先に、強烈な眠気が体に絡みつく。腕が、足が、目蓋が、落ちていく。
 夢は見なかった。目を開けると、カリムは部屋のどこにもいなかった。




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