案外、どうってことないなあ、とわたしは思った。そんなに辛くない。思っていたほど、わたしは絶望していない。

 でも、熱はあるみたいだった。頭がぐらぐらするし、手足は痛みを訴える。傷ついていない心の代わりに、ひどく体調が悪かった。
 おかゆでも作ろうかな、とキッチンに向かう。電子レンジでパックのご飯を温めて、お鍋で水を温める。その間に、体温計を脇に挟む。ピピッと音がしたので確認すると、そこそこの高熱だった。やる気を出せば、わたしの体もちゃんと熱を出せるらしい。

「わたしも天国に行きたい」

 もっと別の言葉を言おうとしていた気がする。でも、ずっと前から言いたいと思っていた言葉のような気もする。ベランダに足を向ける。爪先立ちで、腕を空に伸ばす。カリムの影を、お父さんとお母さんの影を、星の光を探す。けれど既に夜は明けようとしていた。そもそも、都会の空に星なんか見えない。わたしのことを見守ってくれる星々は、わたしの頭上には存在しない。
 腕の重さに耐えきれずに下がっていくわたしの手首を、後ろから男の手が掴んだ。

「何やってるんだ!」
「……カリム」
「危ないだろ!」

 カリムは低い声で怒鳴った。わたしはひどく動揺してしまって、何の前触れもなく、目から涙がこぼれた。

「カリム、わたしのお願い聞いてくれる?」

 わたしの泣きながらの懇願に、カリムは難しい表情のままで、まずはベッドだ、と返した。わたしは熱があるのに。わたしは泣いているのに、カリムは厳しい態度を崩さない。それを不満に思うわたしに、もう一人のわたしが軽蔑の言葉を向ける。だからお前は天国に行けない。だからお前には、運命の王子様は現れない!

「わたし、カリムと星が見たい」
「それがお前の願いなのか?」

 カリムは納得のいってなさそうな顔で、わたしの頬に手を当てる。何か別の言葉を、わたしに期待していたようだった。けれども、一度口に出した言葉は戻せない。それに、このお願いの何がダメなのかも、わたしには判断がつかなかった。

「いちばんの願いがそれなのか?」
「天国に行きたいの」
「星なんて、毎晩見れるだろ?」

 わたしの願いは、カリムには理解できないようだった。それこそが、このひとの生きる世界が美しいものであることの証明だった。わたしと違う空の下、星空の下で生まれたことの証。
 わたしの本心を探るように、注意深くこちらを観察していたカリムがため息を吐く。

「お前はオレのことが好きなんだと思ってたんだけどなあ」
「なんでそうじゃないと思ったわけ?」
「えっ、お前、オレのこと好きなのか!?」

 本気で驚いている様子のカリムは、非常に、とてつもなく、失礼だ。こっちは泣きながら、お別れの前の最後のお願いをしているんだぞ。カリムがいなくなったと思い込んで、熱まで出している女の子に、もっと言うべき言葉があるんじゃないのか?

「いや、熱は薬の副作用だと思うぜ」
「カリム、わたしに何飲ませたの?」
「自白剤」

 わたしは思わず自分の口元に手を当てる。自白剤って現実に存在するの? あ、でもカリムは不思議の国の住人(仮)だから持っている、のはおかしいよね? わたしに飲ませるのもおかしいよね? そもそも何が目的なの?

「熱あると辛いだろ、これを飲めば良い」
「なんで今の流れで素直に飲むと思ったの?」
「え?」

 首を傾げるカリムの、ぽかんとした表情に、お互いの文化の断絶を感じざるを得ない。まあ今更か、とわたしはカリムが手に持つ薬を飲み込んだ。

「カリムが来てから、わたし寝てばっかり」
「オレと一緒に眠るのは退屈か?」
「ううん」

 わたしは、自分が選ぼうとしている言葉を意識しながら、口を開く。カリムに言うべきお願いと、そうじゃないお願いを、自分の中で選り分ける。星がみたい、天国に行きたい、しあわせになりたい。魔法の自白剤っていうのは、すごいものだなあと感心してしまう。わたしが口にした、この言葉こそ本物の願いだ。本当のわたしの望み。だからきっと、わたしの頭が考えた、その他の願いは本物じゃない。

「わたし、しあわせになりたい」
「オレも、お前の幸福を願ってる」
「ありがとう、カリム」

 ずっとここにいて欲しい、帰らないで欲しい、置いていかないで欲しい。その願いはきっと嘘なのだ。あのやさしい絨毯を、ハサミで切れなかったことがその証拠。ハサミで自分の命を断ち切れなかったことがその証拠。
 それほど不幸じゃない日々を捨てられないわたしの元には、王子様は来てくれない。

「お前の願いはオレが叶えてやる」

 じゃあ、ここにいてよ。わたしは嘘を飲み込む。魔法の薬もそれを咎めなかった。




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