逃走しない理由
神さまは天秤のかたちをしている。いつかの父の教えを思い出す。天秤は自分で動いたりはしない。それを動かすのは、それを使うのは人間の役割だ。オレたちは、天秤を愛するべきだ。公平であること、揺るがないこと、倫理を守るということ。忘れてはいけないのは、神さまは融通の効かない、機械のような存在ではないということ。オレたちは神さまを愛するべきだ。ルールに愛されれば、全てに手が届くようになる。天秤それ自体にも!
「理由? そんなのが聞きたいのか?」
「ホントはあんまり聞きたくない」
妹は、素直に自分の中の躊躇いを認める。本当にしたい質問、オレに求めるものは別にあることを、その情けない表情でオレに訴えかける。
「お前はオレに何を言ってほしいんだ?」
「本当のことと、本当じゃないことを、同時に言ってほしいの」
謎謎のようなその要求に、ピタリとハマる言葉を、偶然にもオレは持っていた。妹がオレにそれをお願いしたという事実に、喜びが溢れる。
「お前のせいで、オレは苦しんでるんだ」
「いつまで? どうしたら苦しくなくなる?」
「ずっとだよ。オレとお前の両方が死んじゃうまでずっと。何をしても変わったりなんかしない」
「死ぬときのことなんて、わたし、考えたくない」
「じゃあ、そのときが来るまで、考えないでいればいいさ」
妹の頭が、オレの胸に重ねられる。妹の重みを、全身で感じながら、オレは妹に教えてやる。オレたちの胸の内、オレたちの秘密、オレたちの苦しみ、オレたちの望みについて。
憎しみと愛情は、二者択一ってわけじゃない。けれど、どちらかひとつを選んで、どちらかひとつを選ばなくても、それはそれでいい。
飢えることと、満たされることも、二者択一じゃない。そして、どちらかひとつだけってこともありえない。オレたちは満たされた瞬間に飢えを感じるし、飢えを感じているときは、満たされてるっていうことだ。同時に発生する。相手のせいで苦しむことと、相手を愛することも、それと同じ。
「おにいちゃんもそうなの?」
「オレとお前は、全部同じなんだぜ。オレのことが知りたいなら、お前のことを考えればいい」
「わたしのせいで苦しんでる?」
「もちろん」
妹はオレの腕の中で、窓の向こう側をみつめながら、瞬きをする。星占いを確認するように、自分の心の示すサインに、敬虔であろうとしている。
「じゃあ、うん、いいかな」
「安心したか?」
「おにいちゃんは?」
「…… してないな!」
確かに妹の言う通り! オレも妹のことを、信じてやれてるわけじゃあないらしい。この賢い妹は、信頼するにはいささか賢すぎる。したたかなのは悪いことじゃあないが、愛を捧げる相手としては、難がある。
お前の言葉に安心する日は、きっとこないだろう。けれども、お前の言葉を諦める日も、きっとこない。お前がオレを裏切っても、お前が恥知らずにも、神さまを裏切っても、いつかは全て、なるべき姿になるだろうから。
「人生の結末はハッピーエンドって相場が決まってるんだぜ」
「物語じゃなくて?」
「なに言ってるんだ、人生も物語もおんなじだろ?」
人生は物語! 重要なのは、一つ一つのエピソードじゃない。表紙でも、死人の数でも、作者の名前でもない。
「絵本はハッピーエンドだけど、退屈じゃん」
「お前は絵本が大好きだったじゃないか」
「もう好きじゃない」
「そうさ、大事なのは、自分がその本が好きかどうかってことなんだ」
ハッピーエンドは決まっている。なら、あとは、そこに至るまでの道筋を楽しもう。愛を理由に傷つけあって、苦しみを理由にお互いを愛そう。
ひとりしかいない、オレを苦しめる、オレの唯一の妹。お前がオレのせいで苦しんでいることが、オレは何よりも嬉しいよ。