正しさでいっぱいの君へ


 『わたしが記憶喪失になったらどうする?』

 そういう実益のない話を、わたしもいつかした覚えはある。学生というのは基本的にみんな時間を持て余していて、みんな難しい話が好きじゃないから。偏見かな。偏見だったらごめんね。もしそうなら、こんなくだらない遊びをわたしに仕掛けてきているのは、何の理由があるんだろう。
 嵐山准の目の光が、わたしをそこに縛りつけていた。彼はわたしに質問する。

「君は俺の、何?」

 いろいろなひとが、いろいろなことを口にする。騒つく室内でも、彼の視線はぶれることはない。不安じゃない? 怖くないの? 情けなく震えるわたしの声に、彼は手のひらをわたしの肩に当てることで応えた。

「ありがとう、俺は大丈夫」
「うん」
「ごめんね、混乱させるようなことを聞いてしまった」

 やさしい声を出しながら、彼の視線はわたし以外のものを探していた。
 見つけたそのひとに小さな声で謝罪をして、最後にわたしに穏やかに笑いかけて去っていく、その後ろ姿を見送る。

「諏訪さん」
「あー?」
「部屋とめて」
「痴情の縺れで死にたくねえから却下」
「准くんがいいって」

 諏訪さんは心の底から面倒だという顔で、わたしの頭を雑に撫でて煙草を一本だけくれた。これ一本でいくらくらいするの? と聞いたら想像よりも安かった。小さいチョコより少しだけ安いか、同じくらい。
 みんな高い高いって言うから、騙されてた。嘘じゃんね。大げさだよ。

「諏訪さん」
「そうだな」
「まだ何も言ってない」

 准くん、わたしのこと忘れちゃったって。わたしのことなんて覚えてないし、知らないし、たぶんきっと、もう好きでもない。わたしを安心させるために、どこかに行ってしまうくらいに。

「でもお前、嵐山が離れたときホッとしたろ」

 気づいてると思うぜ、あの男は。ニヤニヤと笑う諏訪さんの意地悪っぷりに、わたしは抗議する。しょうがなかった、動揺していた、それに、准くんはそんなことでわたしを怒ったりしない。

「内心じゃあ腹立ててるかもしんないけどな」

 謝らなきゃいけないことなんか、わたしはしてない。わたしは恋人からの裏切りにショックを受けている、感受性の高い年頃の女の子なのに。かわいそうなのは、准くんじゃなくてわたしの方なのに。
 一般論的、客観的、主観的にいえば、わたしは恋人に捨てられた女だよ。

「で、どうすんだ?」
「……わかんない」

 恋人が記憶喪失になったときの正解って、あんまり世間は教えてくれない。しかも准くんの場合、特別困ってなさそうだし。困っているのはわたしの方だ。頼りきりだったひとには、もう頼れない。
 嵐山准のほかに、誰を信じるべきか。それはまだ教えてもらっていない。
 諏訪さんはわたしの話なんか聞くそぶりすら見せず、勝手に車を走らせて、さっさと帰れとばかりにわたしを家へと連行し、インターホンまで勝手に鳴らす。当然のように扉を開けて出てきたのは准くんで、わたしの顔を一瞬見つめ、諏訪さんに挨拶をして、体を横にしてわたしに道をつくってくれる。

「入って。気まずいなら、俺は佐鳥の部屋でも借りられるから」
「ううん、大丈夫」

 たぶんこれが正解だ。記憶喪失になったひとの正しい対応。記憶がなくなったひとはもちろん、つらいのは周囲も同じです。フォローしてあげましょう。
 准くんは間違ったことなんかしないって、ずっと前から知っている。わかっていたけど、やっぱり気持ちは落ち着かなかった。
 正しさだけで出来てるみたいなひとの前に立っていることを、わたしが苦しいと思っていたこと、このひとは知っていたのだろうか。


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