▼10▼
冷蔵庫に入れられていたかのように、冷たくひやされた水が、喉を通ってお腹におちる。ごくごく飲んで、ちっちゃく飲んで、たまにペッと、口から吐き出して、また飲んでを繰り返していると、めちゃくちゃに嫌そうな顔をしているジャミルと目があった。
「なに」
「汚い」
お前には衛生観念ってもんがないのか? と悪口を言ってくるジャミルに向かって、口から水を飛ばしてやると、わりとガチめに怒りをみせてくる。いかにも潔癖な男だよね、モテないぞ。
「実験してるんだけど」
わたし、自分の体積の何倍かの水を毎日飲んでるわけだけど、どこにどのタイミングで収納されてるんだとおもう? わたしは喉を通ったときなんじゃないかなと思うんだけど。つまり、わたしの喉には底無しの穴が開いているんじゃないかなって。
「妖精の生態に特別な興味は湧かないな」
淡々と答えるジャミルに口から水を飛ばすと、口にフルーツを突っ込まれる。美味しくいただくわたしに、ジャミルがお前は元々大食らいだった、とチクチクチクチク嫌味を言ってくる。食費がどうとかの話は、家族全体の食費のエンゲル指数が、最低でも一%を超えてから話題に出すべきじゃないの?
「お前の食べ残しは誰が食べると思ってるんだ」
「カリム」
「カリムの食べ残しは?」
「召し使い」
それがなんなの? それが召し使いの仕事でしょ。人の下で、雑用と汚れ仕事をする。それが存在理由なんでしょ、よく知らないけど。
「そこまでわかってて、なんでお前はいつもウジウジしてるんだ、鬱陶しい」
「ハア?」
「死を呼ぶのがお前の仕事だろう」
気にせず死体の中で飯を食っていればいい。腐臭は俺たちみたいな召し使いが消しておいてやる。俺としては、死体よりも、お前の食べ残しを毎日片付けなきゃいけない方が苦痛だね。
抑揚をつけることなく、無表情で言い切ったジャミルの顔をマジマジと見つめ直し、わたしはジャミルに質問をする。
「慰められてんのわたし?」
「おや、矜恃が傷ついてしまったかな」
「当たり前でしょ、喧嘩売ってんの?」
喧嘩を売られているのなら、わたしはもちろんそれを買ってあげるとも。シャドーボクシングの構えをとるわたしを、いつも通りの冷めた目で見てくるジャミルが、ツンとしたすまし顔で口を開く。
「お前、喧嘩は高値で買うくらい好きだろ」
「うん」
「じゃあ、カリムに売ってこい」
アイツは基本的に喧嘩を買わない。特にお前からは、意地でも買わないで死ぬつもりだな。あんな甘ちゃんのクソガキに、上から目線で許してもらっていて、恥ずかしくないのかお前は?
ジャミルのこれはわかりやすい挑発だ。焚き付けられようとしている。そんなことはわかっている。わかっているけれど、ジャミルの言葉が、こんなにもわたしの心をざわつかせるのは、水でいっぱいになった心を、脳を、水面を揺らす、その風を吹かせているのは、ジャミルじゃない。
「喧嘩の売り方がわからないとか言うなよ?」
「舐めないでよ」
わたしは妖精。勝手で気まぐれで嘘つきな妖精の中でも、特に邪悪な、死と争いとを司る、人でなし。それに他でもない、カリムに喧嘩を売るのなら、わたし以上の適役はどこにもいないだろう。
「わたしはカリムのともだちだよ」
「じゃあオトモダチらしく、殴り合いでもしてこい」
お前らはバカだから、多分そういうので分かり合える。理解し難いことだが、それも仕方がない。バカと秀才は分かり合えない。でもまあ、バカ同士なら、『互いにわかり合う』なんて世迷いごとも真実になるかもしれない。お前は一応、妖精なわけだし。フィクションが現実になってもおかしくはない。
「ジャミル、今日いっぱい喋るね」
「うるさい」
俺はまだ仕事が残ってる、とピカピカに磨き上げられた廊下を歩くジャミルが、別の召し使いに頭を下げられているのを横目で見送り、わたしは走り出した。
カリムの名前を大声で呼ぶ。廊下の遠くの、大きな扉が、重たい音を立てて開こうとしているのがわかる。カリムが、わたしの声に応えて、顔を出す。
「わたしさ、別のオアシス探すことにしたから!」
「えっ? えっちょっとまて」
「ばいばーい!」
「まてって! おい!」
後ろからカリムが走ってくる気配を感じ取りながら、わたしも街の外、砂漠の中央に向かって大きく足を伸ばした。あなたの大事なわたし、お屋敷から頂戴します!