もしも心臓がここにあったら




 顔が赤くなる、汗が出て、涙も流す。なんのためにそんな機能がついているんだろう、と考えたことがある。学校での勉強は正しくその答えを教えてくれた。血管の膨張と収縮の目的、発汗や涕涙に伴う生体反応のひとつひとつに、意味がある。
 幼い頃のわたしが不必要だと断じていた役割は、そもそも副次的なものだったのだ。顔が赤くなるのは自分自身に恥をかかせるためではなく、汗は寝辛くなるだけのものではなく、涙は誰かに助けてもらうための手段ではなかった。

「べろっべろですねえ、カークランドさん」
「のんだんだよぉ」
「見ればわかります」

 酒を飲んだらどうなるかなんて、子どもでも知ってる。酒癖の悪さは遺伝的な問題ではなく、自己管理と自律能力の問題だ。そういう正論が届かない場所にいる人間に言っても仕方がないので、タクシーを呼んで男を押し込む。運転手は男の様子を確認し、同行者を要求する。同行者がいなければ帰る、なるほど、当然の主張である。

「う"ーっ」
「吐くならこの袋です」
「名字がやさしい……いつも冷たいくせに……」
「わたしはいつも優しいですけど」

 俺にはつめたい、プレゼントは受け取ってくれない、レストランどころか、カフェで紅茶一杯だって付き合ってくれない、俺にはいつも、やさしくない。ぐずぐずメソメソ泣いているカークランドさんの酒癖の悪さは、人伝に聞いていた通りの面倒臭さで、聞いていたよりは大人しい。
 泣いて好きな女に情けないプロポーズをするくらいなら、次の日に知らない顔でいればいいだけだ。ここまで前後不覚にならなくても、そもそもカークランドさんの恋心は誰にも何処にも隠せていないのだから、今更だ。

「はい、鍵あります?」
「ある……」

 カークランドさんの体重を支えつつ、扉を開けるまで見守る。まだメソメソしている男が、わたしの腕を両手で握りながら語る言葉の切れ目らしきものを確認したところで、不意に男と目があった。

「これは脈なしってヤツか」
「だ、大丈夫?」
「見ればわかるだろ?」

 緑の瞳が、意思を持ってわたしの瞳孔の中心を捉えていた。鍵を開けるときの手の震えも、上気した頬の赤みも、呂律の回らない口調も抜け落ちて、男がわたしを見つめている。衝動的に距離をとろうとして、自分の腕を掴む男の握力に血の気が引いた。

「急に心拍数あがったな」
「え、ちょっと」
「名字ってもしかして、無理やりの方が興奮するタイプか?」

 首を横に振る。男はその一連の動作を、まばたきもせずに見つめ、首を傾げる。

「難しいよな、集中しなきゃってわかってるんだけど、可愛いなって一回思うとどうしてもさ」

 へらり、と誤魔化すような笑顔を見せる男が、同じ質問をわたしにする。無理やりが好き? やさしくされる方が好き?
 顔が赤くなる、汗が出る、涙が出る、それが正しく必要とされる場面で起こる。それは肉体の機能の一部だし、目の前にいる人間がどういう生き物かを知るためにも役立てられる。男がわたしの腕を持ち上げて、ひとつうなずき、後ろ手に扉を閉めた。

(素直じゃない君と仲良くなりたいから)




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