次の夏に呪われるまえに
この学校の古びた木造の校舎は、ほとんど匂いがしない。そのことに気がついたのは、入学してすぐだった。
古いもの、特に生き物の死体ともいえる木材、特殊な生存圏である学校という括り、そういうものが持っている説明の出来ない匂いは、説明が出来ないものを含んでいる。祝福言祝、恨みつらみに、祟りに呪い。けれどここは呪いを祓うことに関する専門校なため、綺麗さっぱり訳のわからんものは消しています。清潔でクリーンで安全な校舎です。ということらしい。
じゃあこの匂いはなんなんだろう、とぼんやりと思考する。頭を重たくさせる甘い匂い。悪夢から覚めてすぐ、けれど今にも眠ってしまいそうなときの、罪悪感に近い穏やかさ。
「階段で眠るのは止めておいたほうがいい」
「うん」
わたしが腰掛けている位置よりも何段か下に立ちながら、傑くんがこちらを見下ろしている。理不尽な大きさに、反論もしようとは思えなくなる。
「名前さん」
「うん、聞こえてる」
「手伝ったほうがいいかい」
いらないから、あっちいってて。わたしの声は彼には届いていない様子だった。もしかしたら無視されているだけかもしれないけど。どちらでも同じことだ。階段を上がって、わたしと同じ高さに来た傑くんの顔を見上げる。甘い匂いで視界までぐらぐら揺れる。
「未だつらい?」
「傑くんがいなくなったらなおる」
「誰も君には怒ってないよ、夜蛾先生も出張で出てる」
もう心配しなくていい、放課後まで階段でうずくまって先生から隠れるような真似はしなくていい、誰も君を責めたりしない。
「立って」
「たてない」
「はい、立てたね」
体が浮き上がり、階段の踊り場に着地する。わたしを軽く持ち上げた傑くんの腕はすでに遠くに離れている。しょうがないので、わたしは自分から傑くんの方に近づいて、その胸に額を押し付ける。
夜蛾先生がわたしに苦い顔をする理由はわかっている。階段でうずくまって時間が過ぎるのを待っても、何一つ解決なんてしないことも知っている。
「君の失敗は、君の欠点じゃない」
「じゃあなに?」
「私にとっての幸運だよ」
夜蛾先生は怖くない、叱られることは怖い、階段で時間をつぶすことはそれなりにつらい、傑くんに守られている間はひどく安心する。
強くなりたいし、立派になりたいし、失敗したくないし、叱られたくない。誰にも責められたくない、自分がどんなに愚かでも。わたしがそう言うと、「じゃあそうしよう」となんでもないことのように傑くんは答えた。
「傑くんは、わたしの学校の居場所が階段しかない方がいいの?」
「階段は君には向いていない、手足もこんなに冷たくなってる」
傑くんの香水の匂いがすると、さっきまでの何もなさに気づく。
「私の顔に何か見つけたのかい?」
「……なんにも」
「私が何かを企んでいると思っているのなら、間違ってないね」
悪夢から飛び起きて、その恐怖ははっきりと理解しているのに、今の自分が眠いことを優先してしまうときがある。ひどい罪悪感がある。あれほどの恐怖を、自分の安眠のために未来へ押し付けるなんて。
「けどね、含みがあるとするなら、その中身は好意だけさ」
「……うん」
でも、それがどこからきたのか、わたしにはわからないのだ。この人からの愛情が、いつもころしている呪いたちと何がちがうのか、説明できそうにない。
(きみの罪をかぶるために強い私がいる)
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