無味無臭の毒薬





 名前ちゃんのマグカップの横にある紙パックを持ち上げて、逆さにする。3滴4滴と、底に残っていた液体が手元のカップに加わったのを静かに見届けた名前ちゃんは、座ったままで俺の顔を見上げる。ありがと、と微笑む名前ちゃんの前髪を軽く指の腹で撫でて、俺は自分の作業に戻った。

 名前ちゃんは他人に何度注意をされても「ちょい残し」をやめようとしない。ごめんなさい!と明るく笑ってうやむやにしている、この女はそれなりに頭が回る方の人間だ。牛乳、アイスコーヒー、はちみつ、味噌、絶対に全部を使う努力をしない努力をしている。
 何の願掛けなん? と俺が聞いたとき、名前ちゃんは驚いたように笑顔を見せた。

「願掛けだってわかる?」
「かもなあくらい」
「実をいうとねえ、そうなんだよ」
「せやろなあ」

 名前ちゃんは結局、その日のうちに理由を口にすることはなかった。俺もそれ以上は特に聞かず、とりあえず自分も彼女の願掛けの形だけ真似てみることにする。そうして、3日目に中止の決断をした。生駒隊みたいなおもしろ隊でちょい残ししてたらストレスで死ぬということが理解でき、名字名前という少女に少しの尊敬と同じくらいの侮蔑を覚えた。アホちゃうん?
 たまたま通りがかりに、麦茶のピッチャーをちょい残し未遂犯の名前ちゃんを見かけたため、彼女が罪を犯す前に善意と悪意を込めてコップに残りを注いでやる。名前ちゃんは驚いた表情で俺の顔を見上げて、俺の名前を質問した。

「水上やけども、知っとるやろ自分」
「水の神?」
「水の上」

 名前ちゃんはニコニコと嬉しそうな顔で、ありがとう、とわらう。得しちゃったなあ、と上機嫌な様子は不自然なほどだ。俺の怪訝な視線に気づいたのか、テンションの上がったままの声色で、名前ちゃんは持論を語る。
 わたしは絶対、損はしたくないんだ。それは実数としての損失じゃなくて、主観的な損のこと。実数の損失は自分じゃコントロールできないけれど、主観的な損失は自分で制御できる。つまりね、自分が満足する量のコーヒーをコップにいれて、あと50mlか10mlの存在の不確定なコーヒーの残りに期待したくないんだ。もうちょっと入れるか、なんて必要でも不可欠でもない「もうちょっと」が無かったときに、裏切りを感じたくない。現状で満足してるのに、もうちょっとが無かったら、きっとわたしは現状にも満足できなくなる。

「だからさ、なんかほんとに、すごい得をした気分だよ」
「ほーん」
「いやね、水上神には興味ないことだと思うけどもね」
「いや」

 わかるで。と俺が言っても、名前ちゃんは笑うばかりで信じていはいないようだった。
 俺は特にジュースの残りの数滴が少なかろうと多かろうと、別に動揺するような初心な精神は持ち合わせていないので、名前ちゃんがあとちょっとの裏切りを避けている現場に遭遇した際には、思いがけない僥倖をプレゼントしてあげるようになった。名前ちゃんもハッピー、俺もハッピー、掃除するひととかもハッピー、なんも悪いことはないってことで、まあ。

「わからんかなあ」
「え、あの、」

 必要でも不可欠でもない「もうちょっと」の存在が不確定であるなら、それは無いと過程して動くべきだ。直感的にこれがわからん人間の方とはあんまり長々お話ししたいとは思えない。わからんかな、わからんやろな。

「別に名前ちゃんが俺に恋心あってもなくても、まあどっちでもええんやけど」
「わたしは、あの」
「そもそもお互い告白もしてないんやし、超絶主観的感想になるけど」

 裏切られたわけかあ、って勝手に納得して、俺も勝手にやらせてもらいますけど、どうします?
 名前ちゃんの首が揺れるのを見て、俺はなるほどなあ、と勝手に納得した。

(大人なんだから距離感は大事にしようよ)




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