これからのはなしをしようよ




 むかしの記憶が残っていない。それはたぶん珍しいことではなくて、みんな多かれ少なかれ、むかしのことは忘れてしまうものだとおもう。もちろん、記憶力が抜群にいいひともいるだろうし、ひとつの瞬間の記憶だけずっと覚えているということもあるだろう。それは脳の容量だとかスペックだとかというよりも、もっと別のちがいだとおもう。年齢だとか、性別だとか、能力値だとか、そういう論理的なもので測れない理由があるのだとおもう。

「僕のこと、もう、忘れちゃったのかな」

 青年が眉を下げて、わたしの名前を呼ぶ。その声に懐かしさのようなものは感じない。青年の疲れたような目元にも、やさしい弧を描いた口元にも、少しくせがついた黒髪にも、わたしの脳はなにも反応を示さない。けれど、わたしの全身の筋肉は悲鳴をあげていた。
 足が痛い。喉も痛い。呼吸はうまくできず、全身の震えが止まらない。今までの人生で出したことのないような、本物の全力の運動をした反動で、わたしの肉体はこれ以上ないほどにくたびれていた。

「でも、元気そうで安心した」
「っ、は……」
「眠ってもいいよ、僕が運んであげるから」

 青年の腕が、わたしの肩をつかむ。わたしはそれを振り払おうとして、けれど自分の腕を地面から浮かすこともできない。ぜえぜえと、自分の呼吸の音がうるさく響く路地裏で、それ以外の音は何も聞こえない。
 わたしはこのまま死ぬんだろうな、とおもった。まだ生まれたばかりなのに。自分の足で歩いて、自分の意志で生きられるようになった最初の日なのに。まだ誰も殺していないのに、誰の人生も壊していない、誰の命乞いも聞けていないまま、自分の運命以外を呪わず、この世とお別れしなくちゃいけないなんて。

「……もう、しにたくない」

 ゆうたくん、と口から男の名前がもれてでた。たぶんそういうかんじの名前なんだろうな、となんとなく理解できた。それは失われた記憶だとか、そんな美しいものではきっとなく、生命の危機に瀕した本能の足掻きだった。相手の望んでいるものを差し出さなければいけない、という敗者の惨めな命乞いだったはずだ。

「きみは死んだことなんかないだろ」

 青年は穏やかで落ち着いた笑いをこぼし、わたしの腕を撫でた。
 こうして触れられるのに、話ができるのに、僕の名前をよんでくれるきみが、ずっと生きてることを僕は知ってたよ。誰の言葉も信じないで、きみのことだけ信じていたよ。

「もう勝手にどこかに行ったりしないでね」
「どこかって?」
「名前ちゃんが行く必要なんてないところだよ」

(もしかしたらそれは必要だったのかもしれないよ君のすきな女の子には)




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