恋はいやだな報われないから




 青年の頬に触れる。目の前の男の首に必死でしがみつきながら、わたしは彼の名前を呼んだ。

「ちがうよ」
「すくなさま、たすけて」
「ねえ、違うだろ」

 虎杖くんの手のひらが、わたしの背中をつよく押さえ込む。どうやったって、自力では引き剥がせるわけもないその腕から逃げるために、わたしはわたしにやさしい男の名前を呼ぶ。わたしのこと、守ってくれるっていってくれたじゃないですか、ねえ、宿儺さま。
 死にものぐるいの力で掴んでいた両腕が、青年の片手で簡単に掴み上げられる。わたしを見下ろすその表情は何らかの感情で歪んでいる。わたしはもう一度、男の名前を呼ぶ。返事はない。手首を掴まれる力が、痛みを伴うくらいに強くなる。

「名前ちゃん」
「っやだ」
「何でもしてあげるから」

 何もしてほしいことなんてなかった。このひとにしてほしいことなんか、何にもないことが、理解してもらえないのが不可解だった。普通に、昔みたいな、前と同じ日常に戻りたいだけだ。
 わたしの身体は痛みを訴え、頬が不快なくらいに熱くなる。毎日聞かされる、虎杖くんの言葉に、首を横にふるのも、もう疲れてしまって、わたしはぎゅっと目をつぶる。

「わかってくれよ、頼むから」

 虎杖くんの言葉が、わたしの心を削っていく。何も見えない、何も知らない、何も理解していないような扱いをされて、きっとそのうちそれが本当になってしまう危機感で、脳がガンガンする。

「宿儺の言葉は聞く必要なんかないんだ、ほんとに」
「……」

 涙と痛みで歪んだ視界の向こうに、わたしの言葉なんか聞いてはくれない男がうつる。わたしはもう一度、目の前の男に助けてほしいと頼んだ。腕が痛い、喉もいたい、目もいたい、いえにかえりたい。
 手首を掴んでいた男の腕から力が抜ける。わたしは青年の顔を慎重に観察する。よく目を凝らし、耳をすまして、宿儺さまの名前を呼ぶ。
 返事はかえってこない。ただ、やさしくわたしの髪を撫でてくれる。わたしはやっと安心して、宿儺さまの胸に頭をあずける。そのまま、目を閉じて、世界のぜんぶに知らないふりをする。

「バカな女だな」
「お前は黙ってろ」
「黙っていてやったろうに」

 怯えた人間は、理性ではなく本能で動くようになる。反抗を許してくれる男を敵視し、それを許さない男はやさしいと思い込んで逃避する。それが日常になれば、彼女の中でそれは真実になる。

「小僧に助言をやろう」
「五月蝿え」
「躾けてやればいい。一度でも痛い目をみれば勝手に媚びてくるようになる」
「する訳ねえだろクソ野郎が」

 少女の手首を撫でる、青年の手つきはやさしい。少しだけ変色した彼女の手首を、自分の視界から隠すように、虎杖悠仁は少女の肩に自分の額を押し付けた。


(やさしい男は損するってだけ)




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