溢すために注いだ水のようなもの




「4回目だ、今から言う事は4回目だ。そうだな、名前」

視線が泳ぐわたしの手首を握られる力が強くなる。うん、と一言だけ返したわたしに、ギアッチョが静かな声でつづける。

「オレは自分の女に手は上げねェ。そういうのは人間のクズがやることだ」
「うん」
「オレはもちろん努力する。だがな、お前も協力すべきだ」
「うん」

ギアッチョが言うことはもっともだ。彼は良い恋人であろうとしてくれている。
ぐちゃぐちゃになった部屋の惨状と、わたしの手首を握る彼の手から、今も流れ続ける赤い血が、彼の怒りの大きさを表していた。

「眠れないのは仕方ない。そういうこともある、そういうことももちろんあるだろうよ」
「うん」
「眠気がない時にベッドに入るのは辛い、わかるぜ、なんたって眠くねえんだからな」
「ギアッチョ、あの、」
「なんだよッ!?」
「あ、あの、」

言い訳をすべきタイミングではないと、理屈ではそうわかっていた。でも、このやりとりは彼が言う通り、すでに4回目なのだ。もう何度も繰り返していて、そのたびに、ひどい結果になっている。

「オレが怖いか?」
「こ、わい」
「ああ、もちろん、お前はオレを怖がるべきだ。オレは素手でも人間を殺せる」
「でも、でも、殺さないんでしょ?」

自分の声が自然と媚びたものに変わっているのがわかった。ギアッチョが、血が出るくらいに唇を噛む。わたしが怖がっているときはそのことを隠さない、というルールを決めたのは彼だが、彼はそのたびにひどく動揺する。
わたしが未だに彼に怯えている事実に対して、納得できる理屈を見つけて、反省し、改善しようとしている。わたしは酷い女だろうか。我が身かわいさに、自分を愛してくれている男をこんなに苦しめているわたしは。

「オレはお前を信頼する。だから、お前もオレを信頼してくれ」
「......うん」
「大丈夫だ、まだやれる。まだ時間が足りてない、それだけだ」
「できるよ!します、ちゃんと信頼するから」

わたしたちには、互いに互いを縛る、ルールがある。ギアッチョはわたしの信頼を得るために、わたしのことを尊重してくれている。今の生活は、わたしに多くの選択の権利があり、わたしには意見をいう自由がある。
そういった行動が全て無意味だ、と彼が諦めてしまったそのときが、本当の意味での終わりだ。
ああ、本当に、全てが論理的にできている。ギアッチョの言う通りだ。彼は誠実で、忍耐強く、わたしを愛してくれている。

「用意してる寝酒が気分じゃあなかったのは悪かった」
「うん」
「やり方は悪かったが、オレの寝る時間に合わせようと、そういうお前なりの努力だったんだよな」
「うん」

わたしの言い訳は、考えられる中でも最低の部類だろう。あんな深夜にお酒を売っている店なんて、どこにもない。でも、ギアッチョはわたしを信頼してくれているので、わたしの戯言を受け入れてくれた。信頼とはそういうものだ。一方的な信頼なんてありえない。

「お前が眠れてないのは、オレも気づいていた。だから、ちゃんと用意はしてたぜ」
「えっと」
「睡眠薬がある。今日からはこれを飲めばいい」

彼の言葉通り、きっとそれは、ずっと前から準備されていたものだ。今さっき思いついたものではなく、わたしの反論なんて全て承知の上で、用意されていたものにちがいない。

「薬とか、やだ、」
「深夜に家を飛び出すよりも、マシなアイデアだと思わねェか?」
「な、なんて名前の薬?」
「そこらへんの薬局に売ってるやつだ。キツいもんじゃあない」

次の言葉が見つからず、黙り込むわたしに、話はいつの間にか終わりになっていた。部屋を片つけておくからお前は寝ろと言って、水の入ったコップと薬を手渡される。飲むしかない。もちろん飲むべきだ。

ひとりじゃあ行けないだろ、とギアッチョの優しい声が遠くから聞こえる。寝室は隣の部屋だ。そこまで行くのに、1分だってかからない。こんな薬が、薬局なんかで売っているはずがない。
でも、これが人を信頼するということなのだ。


(貴方のことを愛していればきっとわたしは幸せだった)




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