木吉鉄平という男の優しい笑顔に騙されてはならない。
「…ふふ。」
「なに考えてるの、鉄平。」
じわりと背中に汗を滲ませながら歩く帰り道。
大きなてのひらに包まれたわたしの手は、握り返すというには弱々しい力で繋がっていた。
そんな彼の口から突然笑い声が零れたのだから、わたしが訝しむのも致し方ないと思う。
「ん?……絢のこと、かな。」
おそらく嘘ではないのだろう。嘘をつくような男ではない。それは知っている。
だからこそたちが悪い。
「それ、嘘じゃないんだろうからヤダ。」
「どうして嫌なんだ?」
「……そういうとこ。」
口の中に氷砂糖をたくさん詰めたのかと思うほどに甘い会話だと思う。頭を抱えたくなるほどに甘い。甘すぎる。どうしてこんな会話をしているのだろうと思い悩んでもみたが、相手が木吉鉄平だからという理由で片付いてしまうから恐ろしい。
「そうか。オレは絢のそういうところが好きだ。」
「……よく…わかんないんだけど。」
正直な話、彼がわたしの何を好いてくれていてこうなっているのか、わたしにはよくわかっていなかった。いつの間にかほだされていたような気がする。あたたかく人懐っこい笑みにずるずると引きずられ、気が付いたら彼の隣に立っていたのだ。
まったくもってどういうことなのだかわからないが、それが木吉鉄平の魅力でもある。
「でも、そう言いながらも絢はオレの隣にいてくれるんだからな。可愛いよ。」
「っ……恥ずかしいヤツ。」
「ははは、そうかな。でも、思ったことは口に出さなきゃもったいないさ。」
わたしは鉄平とは正反対で、たくさんの言葉を飲み込み、行動を抑え込みながら隣を歩いている。
たとえば今だって、本当はこの繋がれた手をぎゅっと握り返してみたい。だけど、どこかで意地を張りたがるわたしがいて、まだまだ彼にほだされてなんかいないと抵抗しようともがいているのだ。もう、とうの昔にぶくぶくと溺れてしまっているというのに、だ。するりと抜けてしまいそうなのはわたしの手ではなく、いつか気まぐれにどこかに行ってしまいそうな彼の心なのではないかと、なんとなく、少しだけ、考えたりもした。
どこにも行かないで、だなんて恥ずかしくて言えるはずもない。わたしの口はむっと閉じられている。
「わたしにはそういう考え方できない。恥ずかしいもん。」
こんな可愛くない言葉ならするすると紡げるのに。本当にわたしは可愛くない。
「絢は本当に可愛いな。」
「鉄平のそういうところ、ほんとよくわかんない。」
いじけるようにわたしがそう零すと、急に鉄平は歩みを止めた。
そして繋いでいたわたしの右手をそっと鉄平の胸の高さあたりまでへと持ち上げて、じっと指先を見つめた。
その時間――おそらく数秒だが、わたしにとってはスローモーションで時が流れていた。
閉じられていく鉄平のまぶたも、もう少しだけ持ち上げられていくわたしの手も、そっと低い位置へと降りてくる鉄平の頭も、
――やわらかく口づけられた指先も。
鉄平の唇からじんわりと移る熱がむず痒くて、わたしの指先はぴくりと跳ねた。それでもなお唇をそこに当て続ける彼はまたまぶたを持ち上げて、わたしの瞳をじっと見つめていた。
何もかもを見られてしまっているような錯覚に陥る。
素直に紡げない言葉も、何もかも。
湿った吐息の感触を残して、数秒間の指先への口づけは離れていく。
そしてまるで木漏れ日のように優しく笑った彼は、こう言うのだ。
「こんなにわかりやすくて可愛いのは、絢くらいだよ。」
木吉鉄平という男の優しい笑顔に騙されてはならない。
その瞳に熱を湛えて
(隠しきれないわたしの感情と、隠された彼の欲望。)