それはごくまれに訪れる。
 前ぶりなんてない。それはザップにとってであって、男にとってはあるのかもしれない。考えたらわかるものなのか、考えても分からないものなのか。そんなことを頭の片隅で考えながらザップは目の前の男を見た。
 同じように男を見ている生意気な後輩とこれまた生意気な弟弟子はその相手が言うことに素直にはいと頷いていた。
「悪いな少年。今日はザップに用があるんだよ。護衛はツェッドにしてもらって構わないかい」
 そんな内容の言葉。ザップの意見なんてものは求められていない。分かりながらも俺は帰りますよなんてザップは言ってしまいたかった。鳶色の目が細められ穏やかに笑っている。いつものライブラの副官である男の顔だ。
 少なくとも二人にはそう見えている。二人だけでなくチェインやK・Kなんかにもそう見えるだろう。長く共にいるはずのクラウスすらも怪しい。
 それでもザップはなんとなく感じるのだ。いつもと違う何かを。そしてそれを感じる時はいつもザップにとっては良くないことが起こる。
 逃げてしまいたい。今ならまだこの男も本気では追いかけてこられないのではないか。なんなら窓を突き破ってでも逃げてしまえば。
 そんな考えが頭をよぎるけど、ザップは動くことはできない。相手の目はザップのことなど映していない。それではとザップを置いて帰ろうとしているレオナルド、その護衛のツェッドを見ている。
 二人がいる今ならば
 脳裏ではそんな言葉が渦巻いているのにそれでも足が動くことはなかった。逃げたいとそう思っている。いつもそう。それが訪れたと思うたび、心は酷く逃げたがる。それなのに体はいつも動かないのだ。
 また明日と言ってレオナルドたちが部屋を出ていく。二人が出て居てしまえばこの部屋にはザップと相手以外誰もいなくなる。二人きりになってしまう。
 そうなってしまえばおしまいだと思うけど、やはり逃げ出せなかった。
 二人がいなくなり閉じた扉を男の鳶色の目が見ている。いつもより赤が濃くなったように思えるのはザップの心境のせいか。それとも男の雰囲気のせいなのか。
 二人がいなくなった突端に男の顔からは穏やかな笑みは消えていた。書類を捌くときの真剣な表情でもなく、疲れたような顔をしている。五日徹夜が続いた時のようなそんな疲れた顔。でもそれ以上にもっと……。
 ザップの足りない頭ではそれをどう言えばいいか分からない。とにかく疲れ生気を吸い取られたようなそんな表情を見せる。ふうとその口から出ていく吐息。
 ちょっと疲れた顔なら他の奴だって見たことがあるだろう。でもこの時のこんな顔は恐らくザップ以外見たことがある者はいないはずだ。
 どうしてと思いながらザップは男を見つめる。男がザップを見るのが怖かった。永遠に見ないでほしい。ずっとその扉だけ見ていてくれと願ってしまうのに、それでも男の視線はザップに移る。
 鳶色がザップを写す。
 恐れていたのに実際その目と目があった時に感じるのはいつも少しの安堵だった。すぐに気まずいような何かに変わる。
 目線をそらすのに男の少し低い声がザップの名前を呼んだ。
 肩が跳ねてしまう。こつりと聞きなれた音が響く。名前を呼ばれるよりその音の方が怖かった。そらし続けることもできずに相手を見た。
 鳶色の瞳はずっとザップを見ていた。行くぞとその口が声を出す。また目をそらして何処にだよとザップは言った。拒絶したい。そう思っていた。
「分かるだろ」
 じっと見つめてくる鳶色。かと思えばすぐに背を見せて歩き出す。男が向かったのはライブラの建物の中にある仮眠室であった。嫌ならついていかなければいいのにどうしてかザップはついていてしまう。
 この男の言葉には基本的に逆らえないのだ。
 仮眠室の中乱暴な動作で男が服を脱ぎ散らかす。ネクタイを放り、上着を床の上に落としている。気まずさを体を動かすことでごまかすように一枚一枚拾って部屋の中にある小さな棚にかける。男はベッドの上に音を立てて座り込んでいた。
 ほらというように男の手が伸びる。一歩の距離がある場所からザップはそんな男を見下ろす。腕を伸ばされたらすぐに手が届く位置だ。
「いやっす」
「駄目だ。来い」
 やっと拒絶の言葉が出た。だけどそれはすぐに否定されてしまった。色が濃くなり血の色のようにも見えるような気がする目がザップを射抜く。何でなんすかと絞り出すような声がザップから出た。
「どうしていつも俺を。俺はあんたの抱き枕なんかじゃないんですよ」
「分かってる」
「だったら」
 喉の奥に声は詰まっている。それでも出ていく声はおおきなものだった。じっと男を睨みつけてしまう。これもいつものことだ。いつもこんなやり取りをしている。それなのにザップが納得できたことはない。
「早く来い」
 男の声が強くなった。少し苛立っている。睨む目もさらに鋭くなった。
 ザップの足が動いた。一歩を踏み越えてしまおうとする。今までもずっとこんな風に会話が終わってしまう。会話と言っていいのかも分からなかった。一歩をまだ踏み終えていないのに焦れたように男の手が伸ばされてザップの手を掴んできた。
 掴んできた手はいつもの手よりも冷たい気がした。
 引き寄せられて男の腕の中に閉じ込められてしまう。そう思えば男の体はベッドの上に横になって仮眠室の狭いベッドに二人横になる。
 ちょっとの隙間すら許してもらえないほどに男の手は強かった。ザップの頭の上に男の顔がきて、こうなると終わるまで男の顔を見ることができなかった。時折口だろう場所が当たる感触がして、いつか頭から食べられてしまうのではないかと不安になる。
 何なんだよと抱え込まれたザップは悪態をついた。もう逃げようなんて気持ちはなかった。冷たい男の体に寄り添う。
 そのまま動かないでいるのに頭の上で小さな声が聞こえた。何を言っているのかはこんなに近い距離にいるのに分からない。ただ抱きしめてくる全身が震えている気がしてザップは下唇をかんでこの時間を耐えるのだ。


 ザップはこの男を何と呼んでいいのか分からない。
 ザップが知る鬼の副官、スターフェイズであることは間違いないけれど、だけどザップが知る彼とは違い過ぎて、その名前で呼んでいいのか分からない。
 だからかける言葉すら見つからないのだ。



 電灯の光なんて野暮ったいものだけど、起きる度にその光に照らされた白銀が輝く天使のものにみえて、スティーブンは毎回のように罪悪感に溺れる。何て罪深いことをしようとしてしまったのだろうと。
 それでもその衝動は抑えられなくて時折やってしまうのだった。
 暗い闇の底から光にいる彼を引きずり込んでしまう。
 自分が地獄に行くことを知っている。それでいいとライブラのため、盟友であるクラウスのため、その道を切り開くために誰にも言えないような汚いことをたくさんやってきた。誰より血に濡れた人生。いつか地獄に一人落ちたとしても歩み続けると。
 だけど欲が出たのだ。欲しいと。誰かひとり共に落ちてくれる相手が欲しいと。地獄を歩んでくれるものが欲しい。歩んでくれなくともいいただ知って受け入れてくれる共犯者が欲しい。
 そしてそれは彼奴がいいと……。
 恐る恐る伸びた手が白銀を撫でる。見るに堪えない生活習慣や土埃の中で生きているような暮らしのため、痛みがひどくて手触りは悪い。美しくなんてないのにそれでもいつもその色は輝いているようで、スティーブンを責め立ててくる。起きた時に見える不思議な色の光彩もまた天のものに思えて、見ているのが苦しくなる。
 それでもこいつが良い。ザップが良かったのだ。
 思わず胸元を抑えて悪態が出た。逃げてくれよと口の端から声が零れる。


「じゃないと、何時か本当に連れてきてしまいそうだ」








































 そうなってもきっとお前は笑ってくれるのだろう。なんてことないですよ、あんた俺に夢見過ぎって。
 それでも俺が嫌なんだ


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