そんなつもりなかったののだと言っても遅い時はある。

 ぽかんと口が開いてしまったのが分かっていてもスティーブンはその間抜け面を暫く元に戻すことができなかった。丸く見開いているであろう眼で目の前の光景を見つめるのに、欠片とも集中していなかったのだろう男の目がスティーブンを見る。
 笑ってもよさそうなものの男、ザップはぷっくりとその唇を尖らしていた。何ですかと出ていく声は低く不機嫌であることを隠しもしない。何でもないと首を振った後に、それは無理があるかと考え直してスティーブンは正直に答えていた。
「お前が本を読んでいるから驚いた。どういう風の吹き回しだ。仕事の書類でさえまともに目を通さないお前が」
「俺だって見たくて見ているわけじゃねえんすよ。でもこれでも読んどけってエミリーの奴が投げてきたから……。何で機嫌悪くなったか分かんねえけど、機嫌治った時に読んでねえのがばれたらまた機嫌悪くなって追い出されるでしょう。
 だから仕方なくっす」
「ほう、なるほどな。お前の女遊びは分かったが……、それはお前」
 スティーブンはそこで言葉を区切った。どうせいっても無駄かと思ったのにザップはじとりとスティーブンを見てくる。なんすかという声はやはり不機嫌なものだ。こうしてスティーブンの言葉に食いついてくるのも半分はもう本を読みたくないというのが理由の一つだろう。
 いくら言っても無駄だと思いつつ湧き上がっていたものが少しだけ消えていくのを感じた。まあいいかと隣に座るのにザップの視線はじっとスティーブンについてきて、本に向くことはない。手にしている本はぶ厚く恐らくは何かの物語だろう。
 まあ、なんであろうとザップが手にしているのは似合わないものだった。
「それでどんな話なんだ」
 褐色の手の中から奪い取って適当なページを開く。読み進めていくと恋愛小説であると言う事が何となくわかった。読んでわかるでしょうとザップは本がなくなった手を大きく伸ばしてソファーの背もたれに置いた。解放されたと言わんばかりの姿に笑って文字を追いかけていく。
 んと、途中でスティーブンの目が止まった。あ、そうだとザップが声を上げて口角を上げる。
「その本面白い所が一つあって、主人公の名前、スティーブンって言うんですよ」
 丁度その文字を読んでいたスティーブンは暫く固まり本を見ていた。隣で笑うザップがいやらしい顔をしていることは分かるものの反応ができない。まだ全部読んでないのに次のページを指が捲ってしまった。そうしてからはてとスティーブンは考える。
「お前この本投げつけられたって言っていたが、どういう状況だったんだ」
「ああ? いや、なんか分かんないんすけど、早朝突然起こされたかと思ったらそんなにいいならこれでも読んどけってぶん投げられて追い出されたんすよ。酷くねえっすか。朝のまだ弐時とかですよ。
 服とか着てねえし寒くってさ」
「ああ、だから朝布団の中にいたんだな」
「鍵までもらえてんのあんたの家しかなかったんで」
 にししと笑う傍らでスティーブンはずっと考えこんでいた。どう考えても本など読まない男のことは相手だって分かっているだろう。それなのに突然投げつけられたという本。しかも内容は恋愛小説。俗物的な男が最も好まなそうなものだ。それが投げられた状況。常日頃歩いているだけでもやらかしてくるような男だが、寝ている時にまで何かをやらかすというのは考えにくい。だからと言って玖に怒ったというのも考えにくい事で何かはある筈だった。寝ている時に起こすような何かで思いつくことはそんなにない。せいぜい誰かのキスマークがついていたのを見つけられたとか、女から電話がかかって来たとか、何か良くない寝言を言ったか。
 そこまで考えついてスティーブンはにやつく口元を抑えた。読んでいた本をソファーの端に投げるのに文句の一つも聞こえてくることはない。細い腰に手を回すのに傾く首。
「なんかあんた突然機嫌よくなってません? あの本何かあったんですか」
「さあ、なんだろうな」
 思いついたことは言わずにスティーブンはおしゃべりなその唇に食らいついていた。




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