僕の好きなものはあまりない。
 いや、あっても好きだと言えないものが多いと言った方がいいだろう。
 甘いもの、動物。それに温かい……。
 どれもこれも好きだけどそれを口に出して言うことはできなかった。

 ガキ臭い
 甘えるな
 そんなのではバカにされるぞ
――お前には不必要だ

 冷たい目で、声でそう切り捨てられて僕はそれらを好きだと言うことをなくした。好きと言う気持ちもなくそうとそれらにあまり興味を持たないようにもした。そうしつけられた。それでも好きなものは結局好きなままだった。それを表にださないように自分からも封印した。
 僕が好きなものを隠さないですんだのは唯一マリアンの側でだけだった。それ以外では自分の気持ちを固く閉じ込めて過ごさなければならなかった。そうするように求められた。

 好きなもの。僕にそんなものは必要なかった。より扱いやすい道具であるように、何も求めないことだけを求められた
 その事は苦しくも辛くもなかった。
 幼い頃からそうだったからそれが当たり前で悲しいなんて思うこともなかったんだ。

なのに……

「はい、リオン。あーん」
 差し出されたそれを僕は半目で睨んだ。こちらを見つめてくる青い目は何が楽しいのかニコニコと細められていた。ぷるんと目の前でスプーンに乗った柔らかくて黄色い物体が揺れた。仄かに甘い匂いが漂ってくる。
「なんだこれは」
「なんだってプリンだけど。そんなのもわかんねえのか?リオンは」
「バカにするな!! それぐらいは見たらわかる!!」
「だよな〜〜。なら、ほら、はい」
 ずいと口許に押し付けられるプリン。なにが、ならなのか。全くもって分からない。
「何で僕がそんなものを食べなくてはならない。それよりでていけ」
「なんでてリオン、今日はまだ何にも食べてないだろう。食欲なくても少しぐらい胃にいれないと弱るぞ。
プリンなら食べやすいし、リオンも食べれるかなって思ってさ」
「いらん。余計なお世話だ」
「そういうなって」
 なおも差し出されてくるそれに僕は小さく舌打ちをして顔を背けた。青い目はまだ僕を見てくる。何処までもお人好しな奴だ。煩わしい。
「リオン。食べてくれよ。俺も心配なんだ」
「必要ない。そもそも甘いものなんて嫌いなんだ。さっさとそれを僕の前からのけろ」
「え? 嘘」
 スタンがそう呟くのに僕はん? と首をかしげた。嘘というのがなんというか驚いているとはまた違う、何を言ってるんだこいつはというよな雰囲気に聞こえたのだ。思わずスタンをみてしまう
スタンは僕をじっと見ていた。
「リオン甘いもの好きだろ」
 ことんと首をかしげられる。だがその声は問いかけではなかったように思う。顔は不思議そうにしているが声には断定するような節がある。それにはあんぐりと口を開けた。
「はぁ? 何で僕が甘いものすきになるんだ」
 こいつ頭大丈夫か? そういいたげな顔をきっと僕はしていたと思う。だけどスタンはそんな僕に向かってもニコニコと笑っていたのだ。
「だってこないだルーティ達がケーキ食べてるとき物欲しそうな顔してたしさ。フィッツガルドねもイレーヌさんにお菓子出されたときリオンは結局食べなかったけどチラチラみてただろ。だから好きなんだなって」
「な!? 僕は断じて物欲しそうな顔などしていない!!」
 つい声をあらげてしまう。スタンの言っている話には見に覚えはある。
ついこないだ寄った町でたまにはいいだろうと女子達がケーキを買ってきたことがあるのだ。美味しそうに食べる彼女たちをみた。だが物欲しそうな顔などしていないはずだ。表にださない訓練ならずっとしてきた。こんな鈍いやつに分かる筈がない。
「そんなことないって。凄く物欲しそうな顔してたぞ。何で隠すんだよ。あ、さては照れてんだろ。確かにリオンあんまり甘いもの好きって感じじゃないもんな。プライドも高いし男が甘いものって思ってんだな。でも俺も甘いもの食べるしさ。気にすんなよ。ルーティ達には内緒にするから」
なーと邪気なく笑いかけられるのにヒクヒクとこめかみが痙攣を起こしていた。握りしめた手に思わず力が入りすぎて震えてしまう。
「ふざけるな!! 嫌いだといったら嫌いなんだ! この部屋からでていけ!!」
 真っ直ぐに僕がドアを指差したのに対して、スタンのやつは何か思案するように僕を見ていた。その態度にますます苛立ちが沸き上がる。青い目のなかに映る苛立つ僕の姿が目に入って余計に頭に血が上る。冷静であろうと思うのにこの男はどれだけ僕の中を掻き乱したらすむのだろうか。
「リオンさ、息苦しくないか?」
 はぁ? と呆然とするような声が僕の口から漏れた。何を言われたのか一瞬理解できなかった。僕を心配するように見つめる青い目がある
「そんな風に好きなものまで否定してさ、息苦しくない? 好きなものは好きでいいんじゃないかな。
そりゃあ、恥ずかしいとか、リオンのプライドとか色々あるのかもしれないけどさ、でも、それで何がどうこうって別にないと思うぞ。少なくとも俺はそれでリオンに幻滅したり嫌いになったりしないし、ってかリオンって可愛いんだなってちょっと嬉しく思ったぞ」
わずかに微笑みながら言われて、僕は今度こそ何を言われたのか本気で分からなくなった。
「だからさ、自分に素直になれよ。そうしたらきっともっと楽に息ができると思うよ。俺はリオンにもう少し楽になってもらいたいな」
 ポンと頭の上を優しく何かが触れた
それをスタンの手だと認識したのは少し遅れてのことだった。温かい熱が触れた箇所から伝わってくる。気付いたら僕は頭を下げて項垂れていた。
「嫌いだ」
 囁くように僕が呟くのにスタンが苦笑を浮かべるのが見なくても感じられた。
「そっか。でもさ折角持ってきてくれたら食べてくれたら嬉しいな。俺夕飯たくさん食べたからお腹すいてないし。リオンが食べてくれないと廃棄することになるんだけど勿体ないだろ?」
 スタンが覗き込むようにしてそう言ってくるのに、嫌いだとまた同じ言葉が出た。
「うん。でもさ、お願い」
 嫌いだ。
 この青い目が嫌いだ。この温かい手が嫌いだ。優しい言葉が嫌いだ。認めない僕にたいして僕が食べやすいようにと言い方を変えてくる気遣いも嫌いだ。僕を心配してくるこの優しい思いが、僕を思うその気持ちが大嫌いだ。
「仕方ないから食べてやろう」
「ほんとか。サンキュ、リオン」
 嬉しそうに笑う眩しいほどのその笑顔も僕は嫌いだ。

 昔大好きだったものがある。僕の頭を撫でてくれる僕よりも一回り大きな手。僕を心配してくれる大切だと言ってくれる人。その人が与えてくれた暖かな温もり。
 だけどそれを好きだと言うこともまた僕にはできなくて……。
 僕の手でそれを壊した。僕が殺した……。
 未だに僕の頭を撫でてくる大きな手。浮かべられた満面の笑み。
 それを壊すのもまた僕なのだろう。
 この旅が終われば僕はこいつの敵となる。
笑顔も温もりももう与えられることはなくなる。

 嫌いだ。

 優しくて暖かい。僕の心に入り込んできて……。僕を掻き乱す。もうどうしようもないのに。この先など決まってしまっているのに。
 嫌いだ。大嫌いだ。
 失うしかないそれを“好きだ”と言えることができたならどれだけ幸せなのだろう。

「リオン、あーーん」
 向けられる笑みに今だけは素直に返した。苦しいことも悲しいこともこの先の未来も今だけは忘れてしまいたかった。
 口のなかに訪れたプリンは優しい味をしていた。


[newpage]


 人の思いは儚いものだ。
 どれだけ思おうと、どれだけ大切で大事だと言おうと、それらは時の流れのなかで変わっていてしまう。
 永遠なんて信じない。
 永遠なんてありえない。

 人の思いはいつしか変わる。
 ずっと愛してるなんてあり得ない。
 ずっとなんて愛されない。

・・・

「スタン」
 呼び掛けたのは冷たい雪の降る夜だった。グレバムを倒しやっと一段階つけた夜。後は船に乗り神の目をセインガルドに持ち帰るだけだった。それもすぐにではない。準備にはしばらく時間がかかる。その間はファンダリアで過ごすことになる。
 その日は今までの疲れがでたのか何かと騒がしい面子もそうそうに眠りに落ち、静かな夜が訪れていた。
 起きていたのは僕とスタンの二人。
 いつもなら早々と眠りにつくはずの男が今日はまだ横になっていなかった。何か思うことでもあるのか窓際で佇んでいた僕の体を抱き締めて、同じように窓の外を見ていた。
 窓の外ではしんしんと雪が降っている。心まで凍り付かせてしまいそうなその雪に僕はそうと息を吐いた。どうせならこのまま凍ってしまいたいとそう思った。今僕のすべてが凍ったらそれはどれだけ幸せなのだろう。
 そうしたらこれから起きる悲しいこと苦しい事を味会わないですむのに。スタンの事も裏切らないですむ。凍ってしまえとそう思った。
 それでもそんなこと無理だとも知っていた。逃げ出すことが出来ないと、逃げ出して良いはずがないと言うことを。
 スタンの腕は暖かかった。
 いくら室内と言えどこれだけの雪が降っていれば部屋のなかはかなり寒い。それでもそんな寒さを感じないほど僕を抱き締めるスタンの腕は暖かかった。ずっとこうしていてほしいとそう思うほどに。

「やっと終わったな」
 最初に口を開いたのはスタンだった。
やっと重荷がとれたようなそんな声でスタンは言っていた。僕はそれにそうだなと返した。やっとすべて終わった。厳しい戦いだった。過酷な状況での旅も強いられ辛い日々であった。終わってくれて良かったとこの旅をしてきたものは思ってるだろう。スタンも。だけど僕はそうは思えなかった。
もう少しだけこの旅が続いてくれたら、そしたら……
「しばらく会えなくなるな」
 囁くように言ったスタンの言葉に僕は思わず俯いていた。もう少しだけ、もう少しだけ一緒に……。
「でもリオン。俺ずっと忘れないから。リオンのこと絶対に忘れないから。また会いにも行く」
 覗き込んでくる青い目はとても強い力を持っていた。これにああそうだなと返せたらどれだけ良いのだろうか。次来るときは密航なんてするなよって言えてしまえば。
 でもそんなの無理だ。もうスタンと会えることはないのだ。会えたとしてもそれは……、その時は…………
僕とスタンの刃は交わる時なのだ。

 何故この手を取ってしまったのか。そんなもうどうすることもできないことを考えてしまう。この手を取らなければ、抱き締めてくる腕を振りほどいていたなら。そして。
「リオン」
 僕を見つめる優しい青い目とともに近づいてくるその唇を受け入れなければこんなにも苦しむことはなかったのに。
 暖かく優しい感触だけを残してスタンの唇は離れていく。照れたように頬笑むスタンの腕の力がますます強くなる。大好きだよ。そう囁かれるのに泣きそうになった。
 もう終わってしまったのだ。この旅の終わりとともに僕のこの恋も終わってしまったのだ。
 後に待つのは裏切りだけと僕はそう知っている。この腕に縋ることができたらどれだけ幸せだろう。そんな事できやしないけど。スタンを愛するのと同じぐらい僕はマリアンが大事だから……。
「どうしたの?」
 そうやって心配そうに覗き困れるのに僕は緩く首を降った。なにかを言葉にすることは出来なかった。
 スタンの手が僕の頬を撫でた。悲しそうな深い青が僕を覗き込んでくる。
「リオン、凄く辛そうな顔してる。苦しいんだろ?何がそんなに苦しいんだ?」
 それにも答えることは出来なかった。ただその目を見つめてほぅと息を吐いた。
 暫しの沈黙が流れる。スタンの頬を撫でる手はずっと止むことなく続いている。労るように優しく。そんな優しさに涙腺が刺激される。涙を流さないように慎重に僕はスタンに声をかけた。
「スタン、お前は忘れろ」
 えっと青の目が不思議そうに丸められる。そんな中で僕は冷静につとめていつも通り振る舞えるように意識する。
「僕の事は忘れろ。どうせ一時の気まぐれのようなものだったんだ。だから僕の事は忘れるんだ」
「な、何言ってるんだよ、リオン!お前の事忘れれる筈がないだろ! 一時の気まぐれなんてそんなはずないってお前が一番わかるだろう!?
 一時の気まぐれなんかでこんなに人は愛せないよ。好きなんだ。リオン。だから忘れない。忘れられる筈がないんだ。ずっとずっとリオンのことが好きなんだから」
 僕の言葉に一度声をあらげたスタンは落ち着くと深い青い目で僕を見てきた。僕の何もかもを引きずり出そうとするような深い深い青の目で……。
「嘘だ」
 気づくと僕の口からはそう言葉がでていた。だってそんなはずがないのだ。そんな事があり得るはすがないのだ。
人の心は弱く脆くそして変わりやすい。変わることが必然なのだ。
「嘘だ。お前はいつか僕を好きじゃなくなる。そして忘れるんだ」
「嘘じゃないよ。ずっとずっと俺はリオンが好きだよ。ずっと愛してる」
「嘘だ。そんな事ができる筈がない。お前はいつか僕の事を嫌いになるんだ」
「ならないよ。だって俺にとってリオンは特別なんだ。リオンは大切で大事で愛したい人なんだ。何をしてでも守りたい人なんだ。リオンの笑顔をずっと見ていたい。こんな風に強く思えるのはリオンだけだよ。リオン以外の人をこんなにも深く愛せる筈がない
 俺はずっとリオンを愛してるよ」
 19にしては少し高めの普段なら落ち着きもなく聞こえる声がどうしてかこんなときばかりは落ち着いて大人のような響きを持つ。真剣な目は僕を捉えて離さない。
 僕はそれに何も言えなかった。
 そうであったらどれだけいいのだろうと思うだけだ。それでもそうならないことを僕は知っている
 この優しい男を裏切るのは僕だ。
 僕達に待っているのは裏切り裏切られるそれだけ。人を疑うことを知らぬスタンは僕からの裏切りに酷く傷付くだろう。そして僕の事など嫌ってしまうのだ。よしんばそうでなかったとしてもその後僕たちを待っているのはもう二度と会うことのない別れ。
 長い長い時の中、僕の事など忘れしまうのだ。そう決まっているのだ。
 静かに僕は前を向いた。
 静寂が満ちる。
 抱き締めてくる目はとても暖かかった。

.

 それでもお前はいつか僕を忘れるんだ。
 それは誰に聞かせることもなくただ小さな言葉で囁いた。


[newpage]


「例えばもし人生最後の日が訪れたとして、その日たった一つだけ望みがかなえられるとしたらお前は何を望む」
 へっと自分の口からは呆けたような情けない声がでた。それも仕方ないと思う。いつもなら言わないようなことを目の前の彼は言い出したのだから。それもとても唐突に。今の今まで同じ部屋にいながらも全く別々のことをして過ごしていて、彼なんかは俺が部屋にいることも忘れていると思っていた。
「何を望むんだ」
 さっきまで何事か考えにふけるように窓の外に向けられていた眼が俺をまっすぐに見た。綺麗なアメジストの目に見つめられて喉が鳴る。
「えっと……、何でそんなこと聞くんだ?」
 純粋な問いかけに彼は珍しくも微笑んだ。ただその微笑は微笑というにはどこか悲しげだった。
「ただのちょっとした戯言だ。答えたくないなら答えなくていい」
「あ、いや、答えるけど……。でもいきなり言われてもな……。人生最後の日とか想像もつかないし……。うーーん。逆にリオンは何を望むんだ」
 せっかく珍しくも彼から話しかけてくれたのだ。会話はできるだけ長く続けたいと彼に言われたことを考えてみるがうまく想像できない。人生最後の日にもピンとこなければ、望みというのにもしっくりこない。今のままで十分満足しているのだ。
 だから、彼に逆に問いかけてしまった。彼にどんな望みがあるのかそれも気になったから。だけど彼は俺が望むような答えは返さなかった。俺の言葉に一瞬だけ間をあけて静かな声で言う。
「僕は何も、……何も望まない」
 その静かな言葉は場の空気をほんの少しの間無に帰してしまう。なんて言ったのか何故かすぐには理解できなかった。
 なんだかその時無性に怖くなって、わざと少し明るく声を張り上げた。
「えーー、そんな答え有りなのかよ。じゃあ、俺も別に望むこととかないし、望まなくてもいいかな」
「駄目だ」
「え?」
「お前はだめだ。何か望みがあるだろ。ほら、言ってみろ」
 望みなんて本当になかった。彼が望まないなら俺だって何も望まなくてよかった。だけど彼の目はそれを俺に許してくれなかった。駄目だと告げた声はとても固くて絶対に許さないという思いを告げていた。
「ん〜〜、でもそう言われてもな……本当に思いつかないというか……。リオンは何も望まないんだろう。なら俺だって」
「駄目だ。お前は何か望め。何でもいいんだ。何でも。誰に対しての望みでもいい。僕に対してでも別にいいんだ」
 いいじゃないかと続けるはずの言葉さえ奪って彼は言った。どうして俺はだめなんだろうと思いながらもそれを問うことはしなかった。きっと答えてはくれないと俺だってわかったから。だから少しでも彼が満足してくれるように俺なりに答えを頑張って考えた。
「う〜〜、難しいな〜〜。でもそうだ、リオンに対してでもいいなら、最後の日ぐらいは素直に接してくれてもいいかな……なんてのはだめかな?」
「素直に?とは」
「素直にっていうとなんだろ。もうちょっと思ってることとか口にしてくれてもいいかな、とか。リオンっていやなところとかは結構ずばずば言ってくるけど好意とかはなかなか言ってくれないだろ。嫌味とか言ってくれるのは多少なりとも好きでいてくれるからってことは分かってるんだけど、それでももう少し本音を口にしてもらいたいというか。態度で示してほしいななんて。
 一応俺たち付き合っているわけだし、自分からキスしてくれたりしてほしいな、なんてな」
「本当にそんなのでいいのか」
「ん? ああ、それだけで十分だよ」
「人生最後の日だっていうのにずいぶん欲がないんだなお前は……」
「そうかな〜〜。結構欲張っている方だと思うけどな。人生最後の日でもなんでも、リオンが素直に好きとか言ってくれるようなことがあったら、それだけで一生の宝物になるような気がするし」
「そうか」
「ああ。  それに欲がないっていえばリオンのほうだろ。何も望まないとか言って。何か望むこととかないのか?」
「僕は……いいんだ。僕は」



 目を開けるとそこに先ほどまでいたはずの彼の姿は見つからなかった。目の前に見えるのは見慣れた天井だけで何もない。夢を見ていたのだとすぐに分かって息をするのさえも苦しくなった。彼はもうこの世のどこにもいないのに、夢はまるで彼がそこで今もまだ生きているかのように思るほど鮮明だった。ほんのわずかの間、彼を目で探してしまうほどに。
 これだから夢を見るのは嫌だと思う一方で夢を見れてよかったとも思ってしまう。彼が死んでから 何年もたった。いい加減に彼がいない現実にも慣れてきていたはずなのにちょっとのことでどうしようもないほど駄目になる。
 夢を見た。それだけでダメになる。彼が居たころの夢。彼と過ごした日々はどんな些細なことでも覚えている。そう思っていたのだけど、それはやっぱり無理なんだと夢によって教えられた。 覚えていなかった光景はそれだけで自分が嫌いになる。覚えていることすらできない自分が。何よりどれだけ自分が彼のために何もできていなかったということが、まざまざと映し出されていたのだから。

 神の目を探す最初の旅が終わって、彼と別れたあの日、見送りに来ていた彼とほんの少しの時間二人だけで話した。誰も見ていない物陰に隠れて彼はそっと俺にキスをした。初めての彼からのキスでとても動揺した俺は真っ赤になって何を言っているのかもわからない状況になった。そんな中でそっと抱き着いてきた彼は好きだよと囁くような小さな声で俺に言った。パニック状態の脳でもその言葉はちゃんと届いて余計に考えを鈍らせた。俺もと返したはずだけど変えせれたのかは分からない。また会えるなら会いたいといった彼は、本当に彼なのかと疑うほどに好意を前面に表して……
 素直だった。
 しばらく別れを惜しんでから、二人は慣れて俺はまた会いに来るよと言った。また、きっと会えるよと。絶対会いに行くからと。彼はそうかとだけ言った。待っているとは決して言わなかった。
 あの時は何も思わなかった。何だか彼が彼でないみたいに素直で変だとは思ったけど、きっと彼も別れを寂しく思ってくれているのだと都合のいいように考えて考えることを止めてしまった。彼が寂しいとか辛いとかそう言う弱音を決してさらさない人だということを忘れてしまっていた。
 今ならわかる。夢を見てあの時の会話を思い出した、今ならわかる。あれは人生最後の別れの挨拶だったのだ。俺と彼、二人が話す人生最後の日。彼は俺の望みを叶えてくれたのだ。
 突然話を切り出したあの時、彼はもうすでにその日のことを考えていたのだろうか。俺たちをいつか裏切るその日のことをずっと彼は心に秘めていたのだろうか。そうだとするとその頃彼の心はどれだけ傷ついて苦しんで泣き叫んでいたのだろう。そんなことをおくびにも出さなかった彼の悲鳴にどうして気付いてあげられなかったのだろう。
 あの日の悲しそうな彼の様子だとか、みんなとどれだけ仲良くなっても一線を引いていた姿だとか、恋人になってさえすべてを預けて甘えてくれなかったことだとか……。もしかしたら気付ける瞬間はたくさんあったのかもしれない。
 なのに何一つ気づけなかった。もっと彼に甘えてもいいのに、頼ってもいいのにと思いながら、自分では何一つ気づいてあげられなかった。
 なんて情けないのだろうか……。
 どうやったらあの頃の彼を救えたのだろう。助けられたのだろう。
 大好きだよ。最後の日に彼に言われた言葉が耳の奥に響いた。素直じゃない彼がその時だけは頑張って素直であろうとしてくれた。彼から俺への唯一の言葉。
 そんな言葉いらない。彼からのキスもいらない。素直でなくてもいい。ただそばにいてほしい。そう願うのは我がままだろうか。
 どうしたら彼は俺のそばにいてくれる。もう無理だと分かっていながら考える。水に流れていく彼の姿が脳裏を浮かぶ。
 どうしたらと考えても答えなんか見つかるはずがなくて、どうしようもないが答えで。涙があふれた。
彼が居ない、そのことに今日も俺は涙を流す



なあ、もし、あの日……、人生最後の日何を望むのかと聞かれたあの日、彼に素直になってほしいとかそんなのではなくて、ただずっと死ぬまでずっとそばにいてほしいと願ったのなら、君は俺のそばにいてくれたのだろうか。





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