「福沢さんがね一緒にいようって言ってくれるの」
書類仕事の最中、敦は隣から聞こえた声に凍りついた。顔面の筋肉が固まり口すらもまともに動けなくなるのに、太宰は気付かずふわりと笑っていた。
「ずっと一緒にいようって。嬉しいよね」
「…………そ、ですね」
ふふと穏やかに笑う太宰。幸せそのものな太宰に敦は何とか返事をする。口の中が乾いている。笑みを浮かべようとしても凍りついた筋肉は思うように動かない。違う。福沢はもういないのだと。叫びだしたい言葉が喉を刺激していた。
「ずっとずっとなんだよ」
何処か遠くをみる太宰がまるで言い聞かせるように強く声にだした。太宰から目をそらしていた敦が太宰をみる。何処か今までと違う気がした。太宰の目が机の上の書類をみていた。遠くをぼんやりと見つめる眼差しではなく、真剣に机の上を眺めている。
「一緒にずっといるんだ」
ポツリと、呟く太宰。果たして、敦の中にその言葉が沸き上がった。果たして太宰は敦に話しかけていたのだろうか。今探偵社にいるのは敦と太宰だけだった。その他のみんなはみんな依頼で外にでている。福沢に声をかけるのとも違ったから敦に話し掛けられていると思ったのだが、だけど今の太宰にはそんな様子はなかった。
敦がいることすら分かっているのか怪しく思えてしまう。
太宰の指が机の上の書類をつかんだ。
「でもそのためにはちゃんと仕事をしろって……。迷惑をかけるのだけは駄目だって……」
書類を睨む太宰。はぁとため息がその口からでていく。嫌そうにしながらも掴んだ書類を机に戻した太宰はペンを手に取っていた。えっと僅かに驚いて敦は太宰をみる。太宰は真剣に仕事をしだそうとしていた。太宰が真面目に仕事をする姿をみるのは始めての事だった。
福沢が死ぬ前までからサボり魔だった太宰は出社してもまともに仕事をしていなかったし、それは今でも同じだった。無理矢理連れ出せば仕事には来る。だがぼんやりと何処かを眺めているだけで書類に目を通してもいなかった。
それが……。
呆然と見つめる敦の目の前で散らかっていた太宰の机が片付いていく。乱雑に置かれていた書類が処理されて積み上げられる。全部の書類が片付いたのに太宰は机のなかをごそごそと漁り始めた。何処からだしてきたと思えるような量の書類が太宰の机の上に現れる。恐らくは太宰が隠していたものだろう。それにまで手をつけ始める。
「ずっと一緒にいるんだ……。ずっと」
書類にペンを走らせながら太宰は小さな言葉を溢した。
やっぱり僕に話し掛けていたのではなかったのだ。敦はその事に気付いた。書類をしながらも太宰は書類を見ているように思えなかった。太宰の目は福沢だけを見ているようで……。
ふっと嫌な予感が沸き上がった。
何が、なのかはわからない。でも胸の中をもやもやとした嫌なものが埋め尽くしている。そっと太宰から顔を背けた。見たくないと思うのに、それでも気になってしまって敦は太宰を覗いてしまう。
「一緒に」
呟く声が聞こえた。褪赭の瞳が何処かを見ている。
翌日、敦は太宰を呼びに福沢の家に来ていた。
昨日太宰は遅くまで残って貯めていた仕事を全て終わらしていた。だから今日はもう良いだろうと国木田が言っていたのだが、どうしても敦は気になって来てしまったのだった。
玄関の呼び鈴を鳴らす。
緊張で僅かに指先が震えていた。太宰がでてくることはない。それはいつもの事だ。もう一度だけ鳴らす。開かない玄関の扉に敦はポケットの中から家の鍵を取り出した。恐らく福沢が使っていたのであろう鍵。福沢の家に住み着く太宰を呼びにいくのに与謝野達から借りているものだ。
鍵を回して扉を開ける。玄関は綺麗に片付けられていて太宰世靴が一足だけでているだけだった。綺麗に揃えられている。その隣の空いているスペースに靴を置いて敦は家の中に上がった。
居間に向かおうとするのに、敦はふっと玄関を振り返る。
何か、奇妙なものを感じた。すぐに分かるものではないが、何かが違うような奇妙な違和感。じっと玄関を見て、敦はあれと違うものに気付いた。敦が何気なく靴を置いたスペース。そこは本来ならもう一つ靴が置かれている場所だった。太宰が履いている靴とは違う、草履が一ついつもそこに置かれていた。
昨日感じたのと同じもやもやが敦を覆った。
急いで敦は今に向かった。居間の襖を開けようと手を伸ばす。触れた手が止まった。居間の中から何の音も聞こえてこなかった。
太宰を迎えにきたとき太宰はいつも居間にいた。いつも居間にいてそして福沢に向けて一人話し掛けていたのだった。他の者には見せたこともないような穏やかな声で。誰と話すよりも楽しげにしていたのだ。それが今日に限って聞こえてこない。
「だ、ざいさん」
震える声が敦からでた。いつもの事であるが返事は聞こえてこない
「太宰さん!」
声を張り上げるのにそれでもなにも聞こえてこなかった。襖に触れる手が震えた。恐る恐る開けるのに飛び込んできたのは誰もいない居間の姿だった。綺麗に片付けられた居間。箪笥が一つと中央に机が一つ。机の周りには座布団が二つ並べられていた。そして机の上に食べ掛けの朝食が並んでいる。お盆に乗せられて並ぶお皿。ラップが半分程掛けられていた。その隣に小さな紙が置いてある。
部屋のなかを見渡してから敦はその奥の扉に向かった。そこにいたりしないか。願うように扉を開ける
「太宰さん。いますか」
奥は厨だった。太宰の姿は見えない。綺麗に洗われ乾燥機に掛けられている一人分の食器が目についた。
「太宰さん!」
厨からでて敦は家のなかを探す。靴は玄関にあった。それならば家の中の何処かにいるはずと探す。
「太宰さん! 太宰さん、何処にいるんですか!」
声をあげるが返事は聞こえてこなかった。耳を澄ませるのに水の流れる音が聞こえてくる。敦はハッとして音の聞こえる方向を見た。福沢の家の奥。今まで居間にしかいたことがなく家の中がどうなっているのか敦は知らない。だからその方向に何があるのか分からないけど、水の音が聞こえてくるのに嫌な予感は強くなった。
「太宰さん!」
家の中を敦が掛けていく。一つのドアにたどり着いた。体当たりをするように部屋の中にはいれば足の裏に熱いお湯の感触。ひゅっと敦の喉がなった。もう一つ擦りガラスの扉がある。風呂場だと思うのに、その擦りガラス越しに細い背が座り込んでいるのがみえた。その周りが、赤いような……。
大きな音を立てて扉が開く。
敦が見たのはぐったりとタイルに座り込む太宰の姿だった。その左手は溢れるお湯の中に浸かり、湯を赤く染めていた
「太宰さん!」
悲鳴のような声が太宰を呼んだ。からんと敦の足がなにかを蹴る。抱えあげる体は力なくぐったりとしていた。湯からだした左手の手首は何かで切り刻んであって。
「太宰さん! 太宰さん!」
どうしてよいか分からずにぐらぐらと敦は太宰の体を揺らした。湯のせいなのかなんなのか触れる体は熱い。でも唇は青白い。不規則な呼吸だけがその口から聞こえていた。
生きている。生きている。
その事に安堵する。だけどこのままでは太宰が死んでしまう。どうすれば。焦る敦は必死に太宰の名を呼び続けていた。そうだ。探偵社のみんなに連絡を。携帯を取ろうとするのに腕の中にいる太宰の目蓋がぴくりと動いた。
薄く開くのに敦から泣き出しそうな声が溢れていく。
「太宰さん……」
名前を呼ぶのに、褪赭の瞳が敦を見上げる。震えた青白い唇。力ない太宰の手が敦に伸びた
「良かった。良かった」
敦の頬を涙が流れていく。目覚めた目を開けた太宰に酷く安心してしまうのに、腕の中太宰は震えだしていた。ぼやけた視界の中で太宰の顔が恐ろしいものをみたように歪んでいた。
「ごめ、ごめんな、ぁ、……ごめんなさい。いやだ。やだ」
呂律の回らない声が太宰からでていく。何を謝っているのか全く分からない謝罪。今にも発狂した声をあげそうなほど怯えている太宰に敦は驚く他出来なかった。
「どうしたんですか! 太宰さん!」
あまりの太宰の姿に強く肩を揺らしてしまった。耳元で叫ぶのにはっと太宰の目が見開かれた。見開かれた目は敦をみる。恐怖に歪んだ顔からゆっくりと感情が消え去っていく。ふぅと深い息を太宰は吐き出した。
「敦、君?」
「そうですよ。太宰さん大丈夫ですか。今国木田さんに連絡するので、あ、いやその前に救急車を呼んだ方が良いのか。兎に角待っててください」
太宰が敦の名前を呼んだ。ほっとした敦はどうにかしなければと少し落ち着いて考え出す。救急車を呼ぼうとする敦の手を太宰の手が掴んだ。その手には欠片も力が入っていない。
「いいよ」
「え、」
「呼ばなくて良い。私は福沢さんと一緒になるの。福沢さんとずっと一緒なの。だから」
そのさきの声は聞こえてこなかった。腕の中、再び重みが増す。気絶した太宰を腕に敦の体は震え、ろくに動かすことすら出来なくなっていた。
[newpage]
扉が開いたのにガタガタと、騒がしい音が事務所のあちこちから聞こえてきた。何人かこけたものがいるのに部屋からでてきた与謝野はそちらをみる。彼女から深いため息が落ちた。
「太宰は無事だよ。すぐに目を覚ますだろう」
ほぅと安堵の吐息が落ちていくが、部屋の空気は暗いままだった。太宰が風呂場で自殺をしようとしてからもう二週間がたとうとしていた。病院で栄養失調の診断がでて、四日近く入院していた太宰は退院してからと言うもの自殺未遂を繰り返している。それも今までのおふざけのようなものとは違い本格的なものを何度も行っていて。これまでにもう両手の指では足りないほどの自殺をしようとしていた。太宰の周りを監視し、乱歩の超推理までも使いなんとか食い止めている。
だが、それも少しずつ無理になりつつあった。みんなの方が精神的に疲れ始めているのだ。
「どうにかならないんでしょうか。このままじゃ」
泣きつかれかすれた声が問う。今日こそはもう無理なんじゃないか。死んでしまうのでは。そう思ってなき続けた顔は赤く腫れている。それに答えることができるものはいない。落ちるのは深い吐息だ。もう無理だろう。その言葉が何人もの中に浮かんでいた。
「どうしたら、」
声が落ちるのに弛く首が降られた。振ったのは乱歩だった。
「そんな……」
暗い声。乱歩に集まる視線の中には光がない。
「どうしようももうないだろうな。彼処まで壊れたあいつを元に戻すなんて僕らには不可能だろう」
重苦しい雰囲気の中、みんなが口を閉ざす。静まり返る探偵社の中、与謝野の後ろから物音が聞こえた。みんなの顔がこわばる。太宰が起きてきたとすぐに分かってしまった。視線がゆっくりと後ろに向かっていく。
太宰がベッドから起き上がろうとしていた。
「太宰さん、駄目ですよ! 大人しくしていてください!」
起き上がる太宰を止めようと敦と国木田が傍にまで駆け寄っていく。
「帰らなきゃ。福沢さんが待ってるから。帰らなきゃ」
声をかけるのにだけどその声は太宰には聞こえていなかった。目の前にいる敦達をみることなく太宰は立ち上がろうとする。
「駄目だ」
敦と国木田がそんな太宰を抑えた。
「離して帰らないと駄目なの」
抑えられるのにやっと、太宰が二人をみる。それでも太宰から聞こえてくる声は何処か無機質めいていた。
「駄目だ。帰ったところで誰もいやしないんだ」
「福沢さんが待ってるの」
く力は強かった。国木田の言葉を聞いたのか聞いてないのか分からないことを太宰が言う。二人をサポートしようと周りにいる者も手を伸ばした。自分の動きを止めようとされるのに太宰の腕がそれらを振り払う。
「煩い!」
喉が裂けそうな程大きな声が太宰からでた。叫んでから太宰はすぐに虚空を見つめている。目の前に敦がいるのにその目は敦を見てはいない。
「邪魔しないで。帰らないといけないの。福沢さんが待ってる。一緒にいようって福沢さんのもとに行かないと」
怪我をした身体は重くバランスを崩しながらも太宰は前へと進んでいた。誰もいない前を見て何処かに行こうとする。その腕を今度は与謝野が掴んだ。
「いい加減にしな! あの人はそんなことを望む人じゃないよ! あんたと社長がどんなお付き合いをしてたか何て分かんないけど、でも社長ならきっとあんたの幸せを望んでた筈だ! 今のあんた何て見ていたくない筈だよ!」
腕から肩へと伸びた手。強く掴んで引き寄せたのに太宰の瞳が微かに揺れていた。じわりと褪赭の瞳に涙の膜が作られていく。ひゅっと飲み込まれる息。噛み締められる唇。これならと思えたのは一瞬だけだった。すぐに太宰の目は真っ暗なものに戻る。太宰の力とは思えないような力で引き離されて与謝野は赤くなった手を抑えた。
「何にも分からないくせに言わないでください。あの人のことは今はもう私が一番知っているんです。貴方が知らないようなことだって全部私は教えて貰ってるんです。
福沢さんは私を置いていたりしない。私の傍にいることを望んでくれているんです。一人にしたりしないもの。そうですよね」
ほぅと太宰の口から吐息が落ちていた。安堵したように口許が笑うのにぞっくりと冷たいものが背筋を震わせていく。
「良かった。嬉しい。好き」
太宰の足が動き出す。でていく太宰を止められるものはおらず、せめてもと谷崎と敦が後をついていた。太宰がいなくなった部屋のなか、暫く誰も動き出すことができなかった。
与謝野が小さな声を溢した。
「やっぱり、このまま」
途中まで言い掛けた言葉を飲み込んだ。そのさきの言葉に気付いて、皆その光景を思い浮かべた。頭を振りながら、でもこびりついた言葉が離れることはない。動き出せないのに探偵社の扉が外側から開く。
「邪魔するで」
入ってきたのは着物姿の四十代前後の男。探偵社にも馴染みのある人物でみなその人物を見て目を見開いた。
「種田長官! あ、申し訳ございません。何の準備もしておらず少々お待ちください」
国木田が頭を下げ荒れた探偵社内を急ぎ片付けようとした。来客用のお茶をだしに事務員が慌てて向かう。それらを種田自らが止める。
「ああ、いいんやいいんや。堅苦しいのはなしや。連絡もせんときた儂も悪いんやしな。それより君らに紹介したいもんがおってな」
「私達に紹介ですか」
種田の言葉に足を止めた探偵社員は首を傾けるか、眉を潜めるかをした。前者は単純な疑問。後者はこんな時にと言う不満で。それを正確に分かりながらも種田は次の言葉をすんなりと続ける。そう言った反応が返ってくることは予想していた。
「ああ、残念ながら今日はまだきてもらえんのやけど一週間後にアポを取り付けることが出来てな。ただ儂はその日は用事があっていけんさかい、君たちだけにいって貰うことになるんやけど」
「……それでその紹介したい相手と言うのは」
余程大切な相手なのだろうか。戸惑いながら国木田が種田に聞いた。種田は探偵社の社員を一人一人見つめてから口を開く。
「あやし事務所言う会社でな、妖怪関連の事件を扱うのを生業にしとる」
ぽかんと国木田の口が開いた。何を言われたのか理解できなかったのか首を傾ける。他の周りも似たようなものだった。呆けた、なかには呆れた顔をして種田をみている者もいる。
「君らもお伽話とかで聞いたことはあるやろ。小豆洗いや豆腐小僧、のっぺらぼうそう言う類いの儂ら普通の一般人には見えん世界の話や」
「それはありますが、でも」
そんな存在がいるとは思えない。そう言おうとしたのは種田によって遮られた。
「そして幽霊もまた奴らの得意とするところや」
ひゅっと息を飲み込む音がはっきりと聞こえた。種田に集まっていた視線がさらに強くなる。じっと見つめられるのに種田は話を続けていく。
「聞いておるでお宅の社員大変なことになってるらしいやないか」
ここに相談してみると良い」
ごくりと誰かが唾を飲み込んだ。相談してどうなるものでもないそう思うけれどでも。
「あれは実際に社長の幽霊がついているわけではなく太宰が」
「そう言うことも専門としとる。大丈夫や」
言おうとしたことに被さり告げられる。その話に国木田は唇を噛み締めた。与謝野が目をそらし、乱歩が何かを考えるように俯く。賢治や鏡花はそんな三人に不安そうな視線を浮かべていた。
「来週の火曜日、ここに来る言う話や。相談するかせんかはそっちで決めたええけどまあ、一応話だけでも聞いとき」
「どうするんですか」
ぽつりと賢治が聞いたのは種田がいなくなってから暫くした後だった。
「どうするもなにも妖怪なぞ胡散臭い。種田長官には悪いが話を聞くだけ無駄だろう。それに太宰の状態は精神的なものだ。どうにかなるはずがない。馬鹿馬鹿しい」
国木田はその問いをきっぱりと切る。最後に呟く姿はまるで自分に言い聞かせているようにも見えて。きゅっと白い鏡花の手が国木田の裾を掴んだ。
「それはそう。だけど……」
「何だ」
鏡花を見つめる国木田の目に旋毛しか写らないのは決して身長さのせいではなかった。細い手が震えている。鏡花が掴んでいるのとは別の所を賢治が掴んでくる。いつも活発として明るい顔が今は暗く沈んでいた。なんでもすぐに口にしてしまうのに、今日だけはそれがなく何かを言い淀んでいた。
「私たちだけじゃどうにもできない。なら」
「それは」
ようやっと鏡花からでた言葉に国木田は声を詰まらせてしまう。ぐっと目尻を寄せるのに賢治の瞳が見つめてくる。
「もしかしたら何か」
そんな筈はない! 言おうとしたが言えなかった。ぐっと歯を噛み締めるのに与謝野の声が聞こえてくる。
「そうだね。それに本当に社長が妄想のものなのかも分かってはないんだしね。もし本当に妖怪や幽霊ってものがいるなら社長の可能性だって……」
「そんな筈はありません! 仮にもしいたとしても、社長があんなことを」
弱々しい声を否定する声も途中から弱々しいものになってしまった。そんな筈はない。強く思っている。だけど、
「まあ、そうなんだけどね。でも……」
ふっと笑う与謝野の笑みには力が入っていなかった。ふっと気付けば皆、十年は時がたったかのような姿をしていた。
「どうでしたか!」
扉を開けて真っ先に聞かれた言葉に国木田は部屋の中を見回した。そこには当然のように太宰がいない。太宰はと聞くのも馬鹿馬鹿しかった。
「どうにかなりそうな感じだったかい」
「いや、」
「どんな話をしたんですか」
期待はない。だが何かしらが滲む眼を皆はししていた。その眼に国木田は一度口を閉ざす。何と言えばいいのか一瞬分からなくなった。真っ白になった頭。後から今日話したことを思い出す。
今日は種田に紹介された相手とで会う日だったのだ。
国木田が代表して話を聞いてきた。全員の眼が国木田に集中している。その視線のなかで本当にこれを言っていいのだろうかと考えた。
「降霊術なるものを行うのが良いんじゃないかと……」
何とか絞り出したのに皆の反応は良くなかった。不快を示された訳でも喜ばれた訳でもない。誰もが理解できないと目を丸くしたのだ。首を傾けている者もいる。国木田もその言葉を聞いたとき同じような反応をしたからそれが良く分かる。
「降霊術? って何ですか」
聞かれるのに国木田はすぐには答えられなかった。聞いたことを思い出す。色々と詳しく聞いたのだが上手く説明できるとは思えなかった。何とか理解したことだけを教える。
「俺も良くは知らんが社長の霊を俺達や太宰に見えるようにするらしい」
きょとんとますます見開かれる瞳。言葉を理解しようと考え込む姿に国木田もまた考え込んだ。この説明で良かったのだろうか。間違ってはいない筈だが。
「でもそれで……」
何とか飲み込めたのか二三分して問いかけてくる声。それは何を言いたいのか把握しきれていなかった。言葉足らずなそれから恐らくこう聞きたいのだろうと推測して国木田は答える。
「そうなったら太宰がみてる妄想と実際の霊で二人の社長がいることになる。その状況になれば事実に気付かずにはいられないだろうと」
『荒療治にはなるんですけどね。でもこれが一番手っ取り早いのは確かなんしゃ、なんです』その言葉を聞いて成る程と納得した。いくら自分達が言っても認めようとしなかった太宰もそれならば認めざる終えないだろう。その点では良い方法かもしれないと国木田も思った。ただ、
「それって大丈夫なのかい」
「確かにその方法なら気付くかもですが、でも……」
その次に国木田が抱いた不安を探偵社の皆も同じように抱いていた。眉を寄せて不安そうに見上げてくる。国木田もそんな顔をした。そんな国木田に相手はこう言ったのだった。
「周りの言葉が届かないなら一番届くだろう人に話して貰うのが一番良いんじゃないだろうかと、」
その言葉を聞いた国木田と同じように丸くなる瞳。ぽかんとあく口。
「え?」
「一番届く人って……。まさか」
同じ人が脳裏に浮かんだのだろう。国木田はこくりと頷く。
「社長だ。その人に囚われているなら逆にその人の声なら聞こえるんじゃないかって」
「成る程ね。そりゃそうだ」
目から鱗が落ちたような顔をして与謝野が声をあげ?。頷く彼女に国木田は驚いていた。そんな風に受け入れることなど彼には出来なかったのだ。谷崎や敦が戸惑っている。国木田はそんな反応をしていた。
「それなら、あの人も」
「いい考えですね。是非降霊術やりましょう」
鏡花や賢治も与謝野のようにすぐに受け入れ、久しぶりにその瞳に期待を抱き輝かせていた。良かったとそっと鏡花が笑う。国木田がひゅっと息を飲んだ。
『ただこの方法は荒療治ですから当然それ相応のリスクもあるんですよね』
明るさを取り戻している彼らに聞いた言葉を思い出す。
「だがリスクもあると言っていた。
社長の考えが俺達の思いと違う可能性があると」
「どう言うことだい」
問われてさらに思い出す言葉に国木田は唇を噛み締めた。あまり思い出したい言葉ではなかった。
『貴方方はその太宰治さんと言う方に生きて貰いたいと思っていますよね。ですがそれを呼び起こす死者である福沢諭吉さんが望んでいるかと言う話です。福沢諭吉さんの思いが別の可能性もあります。最悪真逆のことだって考えられる。そう太宰治さんに、』
「俺達は太宰に生きて欲しいと思っているが社長の願いがそれとは限らない。社長に太宰と話して貰うとしても別の結果が訪れることもあると」
口がからからになったような感覚のなかで何とかいい終えた言葉。唾を飲む音が聞こえた。
「でも社長なら大丈夫ですよ」
「……そうだね。社長と太宰がどんな付き合いだったかは知らないけど、あの人のことだ。きっと彼奴が幸せであることを望んでくれる筈だよ」
「そうですよね。社長ですもんね」
一瞬だけ不安そうにしながらも彼らは希望を見ていた。その姿にそうだよなと国木田はほっとする。社長のことだ。そうに違いない。そうでないはずがない。思うけれど、それでも何処かしこりが残っていた。
「どうするかは話し合って決めてくれとのことだ。降霊術を行うならば来週の火曜日か木曜日なら空いていると」
告げる言葉が僅かに震えた。
「やりましょう。そしたら太宰さんも」
雰囲気からそう言われるだろう分かっていたのに国木田は頷いた。ではと口を開こうとしたとき、それを乱歩が遮った。
「国木田。それは僕が行くよ。お前は他の事だってあって忙しいだろう」
えっと固まる国木田。どう云うことだと周りが首を傾ける。
「行くって何処に行くんだい」
「そのあやし事務所って所の奴と一緒に太宰のところ。確認するため太宰に一度会わせてくれって言われたんだろう」
「ええ、そうです。あ、でも」
こんな時でもさすがだと素直に感心してしまう。だが、そうやって感心していられたのも一瞬のうちだった。すぐに乱歩がまともに案内なんて出来る筈なんてないと気付いて止める言葉を口にしようとする。乱歩は言い出したら中々聞かないが、そんな乱歩を何とか止められる言葉。
「大丈夫だよ。そうだな。敦もつれていくからそれで良いだろう」
国木田がその言葉を見つけられる前に乱歩によって道は封じられていた。
「良いだろう敦」
「はい」
先輩の言葉に敦は素直に頷いていて。
「ですが」
「良いから僕も幽霊専門の会社って奴に興味あるんだよ。どんな奴なのか見ておかないとさ」
「はあ」
無理だろうと分かりながらも声をかけようとして、その途中で言われる言葉。無理だとわかって国木田は肩を落とした。仕方なく相手との待ち合わせ場所。そして相手の特徴を言おうとする。
「じゃあ、行くよ。敦」
「分かりました」
でもその前に乱歩と敦は出掛けていて、がっくりと肩が落ちる。ぽんと与謝野が肩を叩いた。
探偵社近くの公園についた敦はきょろきょろと辺りを見渡した。探偵社をでてから国木田に何処か聞いてなかったことを気付いてしまったのだが、さすがは乱歩。どうしようと悩む敦にあっさりとこの場所を教えた。そしてきたのだが……
「まだ来ていないようですね……」
そう大きくはない公園。敦の目でなくとも公園内全てを見渡すことが出来る。公園のなかには敦と乱歩を除いたら人は一人。だがその人ではなさそうだった。制服姿からして学生さんだろう。
そう敦は思ったのだが
「いや、もう来ているよ」
乱歩はそう言って公園内のもう一人のほうに向かっていた。えっと敦は驚く。
「でも学生さんなんじゃ」
セーラー服の襟が風に揺れていた。何処からどう見ても学生さんと言う感じの少女だった。
「ナオミちゃんだって学生だけどうちで働いてるだろう」
「そうですけどでも、」
乱歩が言うのであれば例えどんなことであろうと正解なのだ。分かっているけど戸惑ってしまうのは勝手に抱いていたイメージとかけ離れ過ぎているからだ。
乱歩がどんどんと少女に近づいていく。少女と目があった。
「あやし事務所の人だね。太宰のところ行くよ」
「もしかして武装探偵社の方でしょうか」
きょとんと少女の目が瞬いた。首を傾けるのにあわてて敦はフォローをいれようと口を開く。なんと言えばとそのはで考えるのに少女がニッコリと笑った。
「分かりました。太宰治さんのところまで案内お願いいたします」
良いのか。声に出さずに驚く敦。その敦を置いて二人はもうすでに歩き出していた。道が分からない筈の乱歩が先頭を歩いている。
「敦早くこい!道が分からないだろう」
暫く歩いてからかけられる声。公園をでる手前で二人の足が止まっていた。敦が急いでそこまで向かう。
福沢の家、呼び鈴を鳴らそうとした敦を乱歩が止め鍵を開けさせ無断ではいていく。その後に敦と少女が続いた。玄関で靴を脱ぎながら乱歩の眉が歪む。
「だからここにはきたくなかったんだ」
吐き捨てられる言葉。
「え、」
どう云うことですか。問おうと思ったが問うことはできなかった。その前に乱歩は部屋の奥に進んでいる。居間に向かい襖を開ける。誰もいないのにその奥へ。そこで乱歩は動きを止める。
「ここにいるよ」
奥の扉を薄く開く乱歩。何も言わずその場に佇む。開かれた隙間は丁度覗けるぐらいの隙間だった。
「覗けと言うことでしょうか?」
「そう言うことだよ」
潜めた声で少女が聞く。乱歩はあっさりと頷いて敦が驚くことになる。
「え、太宰さんに会わせるのでは」
「そんなことできるわけないだろう。みるだけで大丈夫でしょう」
「ええ」
まだ戸惑う敦の横を少女が通り過ぎて隙間を覗いた。トントンと包丁を使っているのだろう音が聞こえてきている。
「どう」
乱歩が短く少女に聞いた。答えが返ってこなかった。少女をみれば少女は目を見開いて隙間を覗いている。そこに太宰がいるのは間違いなかった。
「福沢さん。今日の夕飯は何ですか」
太宰の声が聞こえてきていた。乱歩がちっと舌打ちを打つ。
「自分で作ってるくせに良くやるよ」
忌々しげな声。
「ほんとですか。嬉しい」
それとは真逆の幸せそうな声が扉の向こう側から聞こえてくる。ふぅと少女から深い吐息が落ちていく。
「……どうなんですか」
問うのに少女はすぐには答えなかった。口を閉ざし何かを悩むようにしながら、扉を見る。
「太宰治さんが見ているのは彼の妄想で間違いないしゃい。でも……」
[newpage]
当日、一番苦労したのは太宰を探偵社まで連れてくることだった。今日は用事があり探偵社全員で客を迎えることは伝えていたのだが、朝になっても太宰は来なかった。仕方なく敦と国木田が福沢の家に呼びに行ったが、そこはもぬけの殻だった。埃一つない玄関。汚れのない居間の机。洗い物がされた後きちりと拭かれ水気のない流し台。干された洗濯物。数分前までは確かに太宰がいた気配がある。
そう遠くには行ってない筈だと探偵社にすぐに連絡した二人は辺りを探した。まさかと太宰が行きそうな川にまで向かったが見つけることは出来なかった。埃を被った寮の部屋には当然のようにおらず。いつしか探偵社総員での捜索になっていたのに乱歩が腰を上げた。
太宰が見つかったのは福沢の家だった。川に流れていたのだろう。びしょ濡れの姿で縁側に座り込んでいた。
「太宰さん大事な用事があるので探偵社に行きましょう」
敦が呼び掛けるのに太宰はふるりと首を振った。太宰の目は庭を見つめ敦をみていない。
「そんなことは言わずにとても大事な用事なんです」
太宰を連れ出そうと敦の声に力がこもった。太宰の手を握るのに太宰の肩がぴくりとはねる。ふるふると振られる首。滴が敦に散った。
「太宰。こい」
国木田も太宰の手を掴む。
『絶対太宰を連れてこいよ』
乱歩に念を押されたのだ。無理矢理にでも連れていこうと多少無理矢理に引っ張った。簡単に縁側から引き摺り落ちる体。予想していたよりも軽い体に国木田の眼光は開いた。噛み締める唇。
「行くぞ」
「嫌だ! 離して」
引き摺っていくのに太宰は手を振り払おうとした。だが振り払われることはなかった。褪赭の瞳が歪んでいく。
「嫌だ。嫌なんだよ」
掠れた声が落ちていく。
「福沢さん。福沢さん」
太宰が福沢を呼んだ。虚空をみながらだけどそれ以上を口にすることはなかった。
「行くぞ」
太宰の手を引いて歩く。国木田が握る太宰の手は怖いほどに冷たかった。敦が二人の後ろをついていく。太宰の後ろ姿は記憶しているものよりもずっと小さくなっていた。
連れていけば社員は全員揃っている。そして中川理矢と言う少女もまた既に探偵社に来ていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいしゃい、じゃなくて気にしなくて良いですよ。大変だったでしょう」
少女に頭を下げる国木田。そんな国木田の背越しに少女を見つめて太宰は顔を歪めた。二人以外は太宰をみていた。だからその変化は容易く見つかってしまう。周りが息を詰めるのに少女が太宰を見た。
「初めまして。私あやし事務所社長、中川理矢ともうします。この度は貴方に用があってここに来ております」
「帰って。お願い。帰って」
にっこりと笑った少女にたいして太宰はいつもの姿を見せなかった。福沢のことを覗けば時々おかしなところがありながらも、太宰は基本的にはいつも通りだった。仕事をしているときは今まで通りの態度。時々一緒に帰ったり出掛けるときも変わらず、女性をみては流れるように心中に誘っていたりもした。それがないどころかその瞳には嫌悪が写っていた。少女とはいえ女性に向けてそんな感情を向ける太宰を信じられず誰もがその場に固まってしまう。
「太宰さん。どうしたんですか」
問いかける声が揺れた。その声に関する返事はなかった。
「私には必要ない」
黒黒歪んだ目で太宰は少女をみていた。その目の中に探偵社の皆も、他の何かも写ってはいない。
「帰ってくれ。君は要らないんだ」
ことりと少女が首を傾けた。酷く真冬の夜のように冷めた声に国木田が声を上げようとした。それを止めたのは他でもない少女だ。少女は目をそらすことなく太宰をみていた。
「必要ないとはどういうことでしょうか。私たちは初対面ですよね。何をしにここに来たのかもまだ伝えてないと思うのですが」
少女が太宰に問いかける。静かな佇まい。決して張り上げてはいないのによく通った声。にこりと笑うのに注目が集まるのは太宰にである。皆の視線が見つめてくる中、太宰は噛み締め、口許を歪めた。
「帰って」
「依頼でここにきているので、それが終わるまでは帰るわけに行きません」
「君は必要ないんだよ」
太宰の声が震えた。じっと見つめ合うのに口のなかから声がでず、言いきることができていなかった。
「太宰」
誰かが太宰を呼んだ。視線を向けたのは少女だけだった。太宰の額から脂汗が滲み出ている。
「福沢さんは生きてるいるんだ。だからいらない」
少女の口許が上がる。探偵社の皆は息を飲んだ。どうしてその話を思うのに太宰は少女だけを見ていて疑問が解決することはなかった。
「私と福沢さんの邪魔をしないで。私たちはこれでいいの。これが」
「太宰」
腹の奥から引きずり出す言葉を遮ったのは少女でなく乱歩だ。ハッとしたように太宰は乱歩を見た。その顔は青ざめていてくしゃくしゃの白い紙のようだった。塵籠に丸めてすぐにも捨てられる。
「やっぱりお前はずっと分かってたんだな。自分が見ているのが本物の福沢さんじゃないこと。福沢さんの望みと掛けはなれていくことを最初からちゃんと解っていたんだ」
太宰の体が大袈裟に跳ねた。ふわふわと水に濡れた癖毛が宙を舞う。水滴が幾つか飛び散って近くにいた敦や国木田についた。
「っ。違います。私と福沢さんの望みは掛けはなれてなんてない。
だって、だって、福沢さんは言ってくれたもの。ずっと一緒にいてくれるって。ずっと傍にいるってちゃんと約束してくれたんだもの
それなのに私を置いていったりしない」
吐き出す声は小さいものだった。感情によって大きく揺れ動きながらも小さく竦んだ喉から掻き出されていく。太宰の脳裏には何時かの記憶が浮かんでいた。二人以外誰もいない探偵社の一室。濡れそぼった太宰の髪を拭く福沢。片手が太宰の目を覆っていた。
『大丈夫』
低い声。
『私は何時でもここにいる。ちゃんとお前の傍にいるから。だからそう急くな』
タオル越しに触れる手はぽんぽんと優しく頭を撫でていく。
『ここにいろ』
また別の日、別の場所。太宰は福沢の膝の上に頭を乗せ横になっていた。頭を撫でていく福沢の手。それとは逆のてが太宰の手を握りしめていた。
『いい加減に寝ろ。
ここに私はいるから。この手を離したりはせぬ』
握りしめる手が強くなる。指先まで包み込んだその手から暖かい体温が染み込んできて。傍にいる。ことあるごとに福沢は太宰にそう囁いた。だから、大丈夫なのだと。
「そうだ。私の傍にちゃんといるのだもの。そうじゃないと駄目なの」
転がり落ちる声は小さかった。思い出したかつての記憶。福沢の言葉。だから傍にいないなどありえないのだと太宰は自身にずっと言い聞かせて生きている。敦が倒れそうな太宰の肩に手を伸ばした。大丈夫ですかと言おうとして口を閉ざす。そんなこと言える筈もなかった。触れようとした手が触れられずにむなしく宙をかく。
そんな姿を見つめて少女の目が大きく見開いていた。ぽつりと知っている事実が彼女から転がり落ちていく。
「傍にいるしゃいよ」
言ってから言ったことに気付いてハッとしながら少女は太宰を見ていた。太宰の動きが止まる。他の皆も驚くように少女を見ていた。少女の指が太宰をその少し後ろを指す。
「え、」
「ちゃんとそこに、貴方の傍にいるしゃいよ」
周りが少女が指した場所を見るのに太宰は振り向かなかった。太宰の目が見開いて少女を見ている。何もないその場所をみて、大勢の目がどう云うことだと戸惑いと共に少女に集まり直す。
「そうね、一つ始める前にちゃんと言っておかないと駄目しゃいよね。
……最初の時、降霊術を行うと説明しましたが、実は今回それは止めて別の術をすることになっていたんです」
飲み込めずにはっと音を出さずに開く口。聞く前に少女は話し出している。
「降霊術は死者を黄泉やその他の場所から自分達のもとに連れてくる術のこと。だけど太宰さんを見てその必要がないことに気づきました。太宰さんが見ている幻とはまた別に幽霊が取り憑いているのが見えたからです。他の幽霊や良くないものから守るように取り憑いている幽霊は福沢諭吉さんで間違いないでしょう。
ですのでこれから行うのは皆様に一時的に福沢諭吉さんの霊が見えるようにする。そのための儀式です」
また皆が太宰を見た。その後ろを見る。そこには何もない。誰もいない。本当にいるのか。誰もが疑いをもっている。幽霊など本当に。それにどうして。中にはそう思うものもいた。
太宰の肩が動いた。
小さく小刻みに動く肩。震えていると気付くのに時間がかかる。紫色に変色した唇が開く。
「嫌だ」
滑り落ちたのは拒絶の言葉だった。
「嫌だ。止めてくれ。私は福沢さんを見たくなんてない」
奇妙なほどに静まり返る探偵社。理解できなかった。太宰が何を言ったのか。確かに耳に届いた筈なのにその意味が分からない。何を言われたのかと考えようとした脳はショートを起こしていた。物音一つ立たない事務所内に小さな声が響いたのは数分後のこと。
数分もかかって漸く意味が分かり始めていた。
「お前、なに言っているんだ」
「あれだけ社長に傍にいて欲しいって言っておいて」
「今までだってずっと」
形だけを何とか朧気に掴んでそれにどうしてと声を上げる。信じられずに太宰を見つめるのに、太宰の顔からはありとあらゆる感情が消えていた。
「だからだよ」
答えない太宰。その代わりに乱歩が答える。
「こいつは社長が自分にこんなことを願わないだろうことを分かっていてそれでも社長に囚われ続けていたんだ。自分から進んで社長の幻を見ていた。そんな自分を社長に見せたくないんだ。見られていたのが怖いのさ。
社長に呆れられてしまったんじゃないかって」
『許してくれ。わがままだと分かっている。これは私のエゴでしかない。それでもお前に生きて欲しいと願ってしまうのだ』
「……」
太宰に聞こえていたのは乱歩の声などではなかった。かつて確かに聞いた福沢の声。
『すまない』
そう言いながら抱き寄せてきた腕。太宰を一新に見つめた瞳を思い出す。
『代わりに、私は』
「福沢諭吉さんはちゃんと貴方の傍にいます。貴方を見ている」
はっと目の前の光景が全て消え去っていた。耳元で聞こえていた声が聞こえなくなる。代わりに聞こえてきた言葉に太宰は息を止める。嫌だ。沸き上がるのはそんな言葉だ。その言葉を隠すことなく太宰は伝えようとした。
「無駄だよ。そんなことじゃこいつはやめたりしないさ。分かったってずっと囚われ続けるんだ。幻の福沢さんを見続ける。傍にいても見えないんじゃ意味ないからね」
だけどそれは言葉にならない。言葉をとられ太宰が口を閉ざした。分かっているのであればもう関わらないでくれ。沸き上がる文字はだけど言葉にできない。俯く太宰を少女は見ていなかった。少女は今乱歩をみている。今までとはすこし違う眼差しでみてそれからそっと息を吐いた。
「良いんしゃい」
問いかける声に乱歩は頷かなかった。真っ直ぐに翠の目が少女を見つめる。
「いいんしゃいね。ならいまから福沢諭吉さんの幽霊を実体化させます」
少女が懐から取り出したのは何やら書かれたお札だった。その札を太宰に向ける。太宰は嫌だと逃げようとした。
「国木田、敦。抑えて」
ついていけず空気になりかけていた彼らは乱歩の言葉に慌てて太宰を抑える。少女が何事かを唱えていた。ぶわりと周囲の気温が下がった。肌が怖気立つほどに冷たい。
太宰を抑える敦から悲鳴のような声が上がった。敦の手が何かを通り抜けている。それは突然現れたものだった。
みんなが太宰から少し上をみる。そこにいた。
誰もいなかったその場所に福沢諭吉がいた。
「あ」
誰かからこぼれた声。
「……社長」
泣き声が落ちていく。そのなかで太宰は前をみていた。真っ暗な瞳で前をみてその口許がゆっくりと歪んでいく。笑顔が浮かぶ。すぐ後ろに誰かがいる気配がしていた。二人分の手が離れていくのに、それでもまだ一人、触れている人がいる。
『すまぬな』
太宰の耳にそんな声が届いた。目の前が真っ黒に染まる。足の下から地面が消えるような奇妙な感覚が襲った。
『共に……』
聞こえてきた声に太宰は笑顔のまま目を見張った。
弾かれた二人の体。呆然とする前で『すまぬ』と声にした影。そして消え去った人の姿。
立ち尽くし困惑の声をだす周りをみながら、少女は予想した通りの最悪な結果になったかと詰めていた息を吐き出した。数日前のことを思い出す。太宰治。彼をみたそのあとのこと。
『何、悩んでるんだ』
事務所に戻ればかけられた声。声の方を向けば一人の社員が少女を見ていた。
「ちょっとね」
「今日の依頼の件か。難しいのか」
「そうしゃいね、少し。見ずに提案すべきじゃなかったしゃいよ。でもどっちを選ぶべきかも分かんないんしゃいきね」
問われるのに答える。要領をなしていない曖昧な文。今日得た情報が頭のなかを回って最適な回答を見つけ出そうとしているが答えはでそうになどなかった。溜め息がでていく。目の前の相手をみた。
「尾神蓮はさ、例えどんなに苦しかろうとそこに自分の命を望んでくれる者がいるならば生きなくちゃいけないって考えだったしゃいよね。せめて最後まで諦めることなく生にしがみついているべきだって」
今度は少女が問うのに相手は何を問いかけてくるのかと呆れた目をしていた。
「そうだけど、なんだ」
何故今そんな当たり前のことを問うのか。問わなくともそんなことは当然のことだろうと相手の態度で伝わる。そうなのだろうと少女も思いながらそれでも思い口にする。
「私も概ねはそれに賛成なんしゃいけど、でも思うんしゃい」
少女が浮かべるのは太宰の姿。生気をまるで感じられない張り付けた顔に、そしてそんな彼から隠すよう腕に閉じ込めていた影。
「その人、本人が生きていることを欠片も望んでいないのであれば、それならば仕方ないんじゃないかって。死者は生者に勝てないけれど生者が死者に勝てないのも事実なんしゃい」
まだ欠片でも生きていこうと言う気持ちが見えたのなら悩まなくてもすんだのだが、少女にはそれは見えなかった。生きているのは何かへの義務感。それはきっと死者が植え付けていたもの。そしてそのことを死者は。
「……死んだ人の幻を見ている人がいるって話だったが幻じゃなかったのか」
「見ているのは幻しゃい」
相手が聞いてくるのに答える。
「だけど本物もついてたんしゃいよね。悪い霊ではないからいいははいいんしゃいけど」
口にしながらだけどと思う。そのだけどを相手は正確に理解している
「良い霊でもないんだろう」
「ただの霊しゃいよ。傍にいるだけ。それだけ。なにもしなければ」
ただの霊としてなにもできない。恐らくそれまでの力を手に入れることは今後ともない。捕らわれながらそれでも迷っているから。
「姿なきものにとって認識は力なりか」
「そういうことしゃいね。認識されることに意味がある。そして何よりお互いそれを望んでるんしゃい。そりゃあ、もう止める暇なんてないしゃいでしょう」
認識された瞬間そこにいなかったものはいたことになる。認識した瞬間そこにいなかったものがいることになる。姿を見、言葉を交じり会わせることができたならば通じなかったものが通じ会う。
「どうするんだ」
「どうしたらいいんしゃいかね」
問われるのに迷いの声がでていく。
「でも最終的な判断を下すのは私じゃなくて本人か、もしくは近しい人たちであるべきしゃい。だからまあ、状況をどうにか伝えなくちゃなんしゃいけど……」
伝えられるか分からないんしゃいよね。いわなかった言葉を相手は正確に感じ取っていた。それでもなにもいわずにいてくれたのはある種の信頼だったのだろう。少女自身の力ではないがどうにか正解を選べたのではないだろうかと騒がし周りを見た。
「太宰さん!」
「社長は何処に」
「何が」
目の前で起きたことを把握しきれないなか、消えた二人を探す探偵社の者達。部屋のなかを見て何処にもいないことを確認すれば次は外に行ったのかと追い掛けようとする。それを止めたのは少女ではなかった。
「探しに行く必要はないよ。もう無駄だから」
ぼそりと不機嫌に呟いたのは乱歩で少女は彼をじっと見た。幾人かが乱歩を振り返り足を止める
「どう云うことだい」
「そうでしょ。もう遅いんでしょ」
投げ掛けられる与謝野の問いに答えず乱歩が少女に問いかける。全員の足が止まって乱歩と少女を交互に見ていた。少女が一つ頷く。
「ええ、間に合う可能性もまだあるとは思うしゃいけど、でも間に合わない可能性の方が高いしゃいね。
……太宰治さんは取り殺されている筈です」
凍り付く空気。痛いほどに見つめてくる充血した目。感じながら少女は固まっている探偵社の者を順々にみていた。
「はっ」
低い声が落ちる。状況整理が出来ていない筈なのにその声には背筋を震わせるものがあった。殺されそう。そう感じてしまうほどに見つめてくる目が恐ろしいものになっている。張り詰めた空気の中に混じるのは紛れもない殺気だ。こうなるしゃいよねと考える少女の前に乱歩の背が写る。
霧散していく殺気。それでも見つめてくる怒りの籠った眼差しにベレー帽を被ったざんばら頭がゆっくりと振られた。
「これは僕が選んだことだ」
からんと何かが落ちる音が事務所内に響いた。何で、そう言いたげに震え、泣き出しそうに歪む顔。
「取り殺されるって誰に、何で、」
嗚咽混じりの声が答えを求める。
「福沢諭吉さんに」
「っ。そんな」
「そんな馬鹿なことがあるか! 社長が太宰を!」
「そうだよ、何で!」
掴み掛かられそうだ。彼らとの間には乱歩がいるが少女はそう思った。信じられない。そんな筈はない。彼らはみな自分達の知っている福沢諭吉を信じていた。
「幽霊と言う存在は歪みやすく自己を忘れやすいもの何しゃい
……人が死んだら本当ならあの世へ逝くのが普通。それがそうならずこの世に留まると言うことは何か大きな未練がこの世にあるって言うことしゃいき。その未練が幽霊をこの世に留め、時に人の願いを変質させるんしゃい。幽霊は未練に取り憑かれていると言っても良いんしゃい。最後に思い描いた一番の願いだけが心に強く残ってそれ以外を考えられなくなる。その為だけにそこに存在するようになる。
だからあの人は凄い人しゃいよ。強い未練に取り憑かれながらそれでも変質まではしていなかった。最後の一線で踏み留まっていた。
でもその一線を私は壊したんしゃい。
福沢諭吉さんの未練が何か正確なところは分からないしゃい。彼を置いていくことの罪悪感かそれとも心配か。それとも単純に彼への愛情か。ただどちらにしても太宰治さんに向いていたのは確かなこと。そしてその彼は福沢諭吉さんを一心に求めていた。あの人と共にいたいと。
だとしたら行き着く先は一つしゃい
お前の幸せを願っているなんてどんなことがあったって言えやしないんしゃいから」
時が止まったように静かになる探偵社のなか乱歩の声だけが響いた。
「良いんだよ。
これで良いんだ」
これしかもう奴は幸せになれないんだ。言おうとした声は嗚咽にまみれて言葉にすら出来なかった。啜り泣く声が事務所に満ちていく。
[newpage]
気付けば太宰は福沢の家の中にいた。埃一つない小綺麗な部屋。太宰しかいないその場所に太宰以外の気配があった。冷たいだけ。その他の感触はなに一つない腕が太宰を抱き締めている。
それが誰の腕かみなくとも分かっていた。それでも太宰は襖だけを見つめ続けている。笑顔のまま固まった顔。抱き締めてくる腕が強くなるのにその肩が震え、こごえた吐息がでていく。
大丈夫だ
低い声が耳元で聞こえた。何時だって求め続けていた声だ。その声が聞こえるのに嫌だと首を振った。
大丈夫。もう大丈夫なんだ。よく頑張った。もういいんだ。
頬に冷たい感触が訪れる。福沢の指だと気付いた。その指がゆっくりと顔を撫でていてそして、すまぬなと声が謝っていく。低い、だけど優しさが伝わってくるような穏やかな声に太宰の指先が動く。福沢を見上げようと僅かに動いた首は途中で止まってしまった。
お前を置いていてすまなかった。許してくれとは言えぬ。それでも伝えたい。私は貴殿が好きだ。貴殿と共にいたいと願っていた。だから、
頬に触れる手が動く。冷たくそしてそれ以上に得たいのしれない何かが肌の内側に沈んでいく感触。ぞわりと背筋が粟立つが恐怖は感じていなかった。
共にいよう。
聞こえた言葉が理解できず太宰は呆然と口を空けた。ぎしぎしと首が奇妙な音を立てる。からりと何かが上から落ちてきた。研ぎ澄まされた銀が鈍い輝きを放つ。飲み込まれる息。
銀灰の目と目を合わせた。
太宰が思っていたのと違う柔らかな瞳だった。口元に浮かべられているのは似つかわしくない穏やかな笑みだ。太宰の手が持ち上がりその頬に触れる。人の温もりなどは何もない。冷たい固まりが、そこにあるだけ。
それでも福沢だったんだ
「良いんですか。私」
良い。それよりも悲しい思いをさせてすまなかった。共にいると約束したのに守れなかった。今度こそその約束を守ろう。
太宰の心が震えた。笑っていた顔が泣き出しそうに歪んで、それからぐしゃぐしゃの顔をして笑う。
太宰の手が落ちているものを拾い上げた。首に回っていた腕が離れていく。脇から抱き締め直し冷たい手は太宰の手を握りしめる。
「嬉しい」
溢れ落ちた声は何処までも無垢で喜びに溢れていた。
寂しい思いをさせてしまってすまなかった。もう大丈夫だ。私はずっとお前と共にいる
「はい。私の傍にいてください」
ああ。穏やかな声が肯定を紡ぐ。それに笑って太宰は目を閉ざした。もう怖いものなど何もなかった。
ねえ、福沢さん。わたしね貴方のことが大好き。だから
私もお前が好きだ。ずっとお前と共にいる。それが私の願いだ
三日後、太宰治の葬式が行われた。棺のなかに横たわる体には黒い羽織が掛けられている。その姿が黒い箱のなかに閉じ込められ、扉のなかに消えていく。
その姿を見送ってからほうと与謝野が吐息を溢した。
「まあ、色々あったけどこれで良かったんだろうね」
小さく溢した音。誰も聞きとりようのない声はただ隣にいた敦にだけは届いてしまっていた。常人よりも聞こえる耳は聞き逃すことをしなかったのだ。
「え」
見つめる彼が目を見開くのにああ、聞かれてしまったかと与謝野は苦笑を浮かべた。敦にだけ聞こえる小さな声で本音を吐露する
「妾は少し安堵してるんだよ」
ますます見開く敦の目を見てもその思いは変わらない。
「救急隊の人に聞いた話なんだけど社長、救急隊の人達が来るまでの間ずっと女の子に向けて大丈夫だって言ってたんだって。大丈夫だから泣かないでくれ。大丈夫。泣かなくても良いんだ。もう大丈夫だからってずっとそうやって女の子を慰めていたんだって」
「それは」
初めて人にする話。良い話だと思う。だけど聞いたときに溢れたどす黒いものを隠すために与謝野はその話を誰かにすることはなかった。だから探偵社の者はこの話を知らない。今日やっと言って良いかと思えたのだ
「社長らしいだろう。
でもさ妾としては、死ぬときまでそんなことを気にかけて欲しくなかったんだよ。せめて妾達のことを考えて欲しかった。探偵社のことやそれに乱歩さんや妾のこと。でも今回の件で分かった気がするよ。
社長はきっと女の子に大丈夫って言ってた訳じゃないんだね」
与謝野の言葉にあっと敦の口が開いた。そうですねと言うように首が縦に振られる。その目は太宰が消えた扉を見つめて。
「社長は太宰に向けて言ってたんだ。泣いてる子供の姿がだざいにみえたんだろうね。太宰に負けたのかと思うと悔しいけど、社長にとっては太宰が一番大切だったんだなと思うと嬉しくもあるね。
あの人にそんな存在ができたんだから。二人幸せでいて欲しいもんだよ」
せめてと思いを乗せて願う。与謝野の目が太宰が消えた扉を見つめる。敦もまた扉を見ていた。そこにいるのは太宰だけど、きっと二人は共にいるのだろう
「幸せですよ」
「そうだねぇ」
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