福沢諭吉が死んだ。
 事故死だった。
 福沢が外にでていた時に起きた地震。その地震により老朽化していた建物のネオンがとれた。その下にはまだ幼い子供。まだ揺れ、体勢も整っていない状況で子供を助けようとした福沢は、その子の代わりにネオンの下敷きとなって死んだ。
 不運な死だった。
 武装探偵社の長、そして、福沢諭吉としてらしい最後だっただろう。
 その死から数ヶ月。探偵社はやっと大きな損失を埋め、前に歩み始めているところだった。

 ただ一人を除いて。



 太宰さん
 掛けられた声に蓬髪が揺れる。褪赭の瞳が敦を見、それからふわりと笑う。
「ああ、敦君。どうしたんだい」
「どうしたんだいじゃありませんよ。もう仕事の時間ですよ。早く来てください」
「ええーー。面倒臭いなーー」
「めんどくさいじゃありません! 今日はどうしても太宰さんに来ていただかないといけない仕事があって」
 とにかくと蓬髪の髪の男、太宰を呼びに来た敦が太宰の手を掴もうとした。その手がぱしりと弾き落とされる。しまった。歪む敦の顔。
「あ、ごめんなさい」
 慌てて謝罪の言葉を口にするが、太宰にはそんな言葉聞こえていないようだった。敦から視線が外れ、何処か遠くを見ている。その口許がふふっと笑った。
「分かったよ。敦君。ちゃんと仕事に行くよ」
 求めていた言葉なのに敦の表情は強ばる。太宰を見る目は恐ろしいものを見る目だ。そんな目を向けられても太宰は嬉しげに頬を染めていた。
「仕事したら福沢さんが褒めてくれるんだって。楽しみだな。頭撫でてくれるかな」
 もういない人物の名をその口は紡ぐ。



 太宰治と福沢諭吉が恋仲だった。
 それは探偵社の誰一人として知らない事実だった。いつから、どうして。誰も知らない。探偵社の者が知っているのはただ一つ。太宰が大切な人を失ってしまったこと。
 そのたった一つの事さえも気付くのが遅かった。
 探偵社の者がその事実に気付いたとき、既に太宰治は壊れていた。


 福沢の葬儀にすらも顔をださなかった太宰。葬儀終わり敦と国木田の二人が太宰に会いに行った。どうしたんだろう。そう太宰のことも心配していた敦に、「社長の葬儀にすら顔をださない」とはと泣きながら怒る国木田。その二人が部屋の扉を開けてみたのは福沢の羽織を羽織り虚空に話しかけている太宰の姿だった。 
 それでね福沢さん、
 聞いたこともないような甘い声。その声がたった今、葬儀が終わったばかりの人の名を呼ぶ。
 ふふ。もう意地悪言わないでください。
 虚空を見上げる太宰の瞳は何処かぼんやりとしながらも幸せそうだった。そんな風に笑うことも出来たのだと思うような、幸せで、それでいて何処か幼い笑みを浮かべていた。
「だ、ざいさん」
 ばさりと二人の手から持っていた紙袋が滑り落ちた。敦が恐れるように呼んだ名前。太宰の目は二人を見なかった。虚空を見上げたまま微笑んでいる。
 好き。
 穏やかに笑う太宰から溢れ落ちる言葉。
 大好き。福沢さん。
 虚空に向けて何度も告げる太宰の姿に敦は薄く口を開いた。
「あ、ぁぁ」
 溢れた声は震えている。太宰が社長である福沢の名前を呼ぶのを聞くのはそれが始めての事だった。
 ねえ、福沢さんは。
 太宰の見つめる先には何もない。誰もいない。それなのに太宰はぽっと顔を赤らめまた違う表情を浮かべる。
 嬉しい
 太宰の声しか敦と国木田の二人には聞こえない。だけど太宰は望む答えが本当に返ってきたように幸せそうだった。
 私ね、
 羽織った羽織りを指で触れながら太宰は僅かに俯いた。きゅっと握りしめられた羽織は皺を寄せる。
 福沢さんとずっと一緒にいたい。ずっと、ずっと一緒にいてくれますか。
 太宰の柔らかな声が問い掛ける。二人して息を呑んだ。目の前で太宰が笑う。その姿をみて靴のままに国木田が部屋のなかに踏み込む。
「太宰!」
 大声で名を呼んだ。それでも太宰は虚空をみていた。
「貴様! 何をしているんだ。しっかりしろ!」
 国木田の腕が伸び、太宰の胸ぐらを掴み上げる。太宰を現実に戻そうと強く揺らした。敦が小さな声を上げた。己も何かしなければ。どうにかと思うけど動けないまま二人をみる。焦点のあっていなかった太宰の瞳が国木田を捉える。一度瞬く瞳。国木田を見て、部屋の中を見渡す。褪赭の目と敦の目があった。
 いつものような胡散臭い笑みを太宰が浮かべた。
「あれ? 国木田君に敦君? どうしたんだい。こんなところに」
「どうしたって、お前。」
 まるでなにもなかったかのように問い掛けてくる太宰。国木田からは戸惑った声がでる。今見ていたのは幻覚なのだろうか。そう思った国木田は太宰の肩を見た。そこに福沢の羽織はなかった。
 ほっと、してしまう。なのに太宰が焦ったような声で地獄に戻される。
「二人ともまさかさっきまでの見て」
「先まで……」
 顔が赤くなっていく太宰。対称的に二人の顔は青ざめていく。
「社長とお話ししていた所だよ。一応みんなには付き合ってること秘密にしていたのに見られてしまうなんて……。どうしましょう。社長」
 太宰が再び見つめていた何もない場所を振り替える。待ってと敦が手を伸ばした。あれ? と太宰は首を傾ける。
「福沢さん」
 不思議そうな声が太宰からでた。なにかを探すようにきょろきょろと辺りを見て、それから太宰は肩を竦めて見せる。拗ねたようにその唇が尖って。
「どうも社長は逃げたみたいだね。私を置いていくなんて酷いと思わないかい。もう」
 頬を膨らませる太宰。敦も国木田も何の反応も出来なかった。ほっとしたら良いのか。悲しめば良いのか。それすらも分からず太宰を見つめる。太宰が二人の前で人差し指をたて美しく笑った。
「誰にも言っちゃ駄目だよ。秘密にしてね」
 頷くことすら出来なかった。
 立ち尽くす二人を前に太宰は所でと声をかけてくる。
「こんな時間に寮まできたと言うことは急ぎの仕事か何かかい。仕方ないね。これから社長とのんびりする筈だったんだけど、ちゃんと仕事はしないとだからね
 さあ、何の仕事なんだい」
 問い掛ける太宰に二人の首が緩く振られた。んと傾く首。
「じゃあ、どうしたの」
 いつもと変わらぬ声音が二人に問う。二人が良く知る太宰がいる。だけどその事さえも恐ろしく感じた。
「社長はもう死んでるんですよ」
 つぅと敦の頬を何かが流れ落ちていた。それと同じように自然に溢れ落ちた言葉。太宰が、
 笑った。美しく計算されたいつも通りの笑みで。
「何をバカなこと言っているんだい。敦君は。福沢さんは死なないよ。だって私と約束したのだもの。ずっと、一緒にいるって。私が死ぬその時までずっと、ずっと私の傍にいてくれるって
 だからあの人は私を置いていたりしないのだよ」
 何もかもが嘘であれば良い。二人はそう思った。

 その後の記憶はない。ただ気付けば二人は探偵社内にいた。それぞれの机に座って呆然と前を見ていた。我に返ったのは翌日の朝。やってきた事務員が電気もつけないで座り込んでいた二人に気付き悲鳴をあげたからだ。二人の様子を心配した他の社員に昨日の事を二人は話す。とてもじゃないけど信じられないのに、だからかと与謝野が呟いた。だから。それはどういう意味だと視線が集まる。与謝野は眉を寄せて答える。
「昨日葬式が終わってから社長の家の片付けをしてたんだよ。今までなにもしてなかったけど、しないわけにもいかないからね。そしたら、社長の部屋の箪笥から太宰が着ている服とかがごっそりでてきてね。箪笥二段分ぐらいだったか。謎だったんだけど、……太宰が良く泊りにいっていたんだとしたら納得できるよ」
「それって」
 誰かが与謝野の話を聞き音を落とした。誰の脳裏にも分かりたくない予想が容易に浮かんでいた。そしてそれが想像でもなんでもなく真実であったことも本当は解っていた。ただそれを認めたくなかった。
「乱歩さんも!」
 谷崎が声を上げた。その顔はひきつっている。
「乱歩さんも、知らなかったんですよね。知っていたらだって、それなら、」
 言いたいことは何一つまとまっていなかった。それでも誰もが希望を見いだしたかのように乱歩をみる。名探偵である彼が知らなかったのだ。それならばそんな事実はなかったのでは。彼が気付かないなんてあり得ない。だから何かの気のせいだ。そう思おうとしたのに、無情にも乱歩の首は横に振られて。
「知らなかったのは確かだったけどそれは興味がなかったからだよ。福沢さんが誰かと付き合ってるだろう事は知ってた。だけどそれが誰かなんて興味はなかった。それどころか僕はあまり知りたいことだとは思わなかったんだ。
 だってそういうのは自分から言って欲しいだろ。家族なんだし。何時かは言ってくれるだろうってそれまでは詮索しないことにしてたの。
 だから、気付かなかった。まさか、その相手が太宰だなんて」
 乱歩の声が途中から震えていた。みんなの目が見開いて固まっている。言葉にされると重く何かがのし掛かってくる。暫くの間誰一人喋ることすら出来なかった。
「どう、するんですか」
 数十分もたって漸く落ちた一つの声。それに顔を上げる探偵社のもの達。その顔は後少しで死ぬのかと思うほどに血の気を失っていた。
「太宰さん、社長が死んだこと……」
 言葉が喉に詰まり最後まででいかない。幾人かの頬が濡れていた。
「まだ、生きてるって。どうしたら」
「どうしようもないよ」
 誰も疑問に答えることが出来ない中、答えたのはやはり乱歩だった。乱歩が答えてしまった。
 誰もが愕然として乱歩をみる。見開いた乱歩の瞳が遠くを見ていた。
「どうしようもない」
 もう一度同じことを呟かれる。
「社長もやってくれるよね。まさかあの太宰と付き合ってたなんて。さすが社長って所かな。でもそれで死んじゃうなんて何考えてるんだよ。太宰を置いていくことだけは絶対にしちゃいけなかったんだ。あいつは大切な人に置いていかれるのをずっと恐れてるんだから。
 それなのにどうして」
 責めるような声が乱歩からでて、それから口を閉ざした。
「僕たちじゃどうしようもないよ」
 再び落ちる声に誰も何も言えない。ただ重苦しい空気が探偵社内に満ちていた。
 その日、太宰は探偵社に来なかった。様子を見に寮に行っても居なかったが、何処にいるかは何となく皆分かっていた。
 太宰は福沢の家にいた。
 恐らく一番長く福沢と過ごしたその場所に一人社長の羽織に包まれて存在していた。
 太宰治は壊れていた。
 死んだ福沢諭吉の影をみて今を生きている。




「本当にどうしようもないんでしょうか」
 ふっと、敦の言葉に全員が顔を上げていた。突然の言葉だった。みなそれぞれ仕事をしている最中、誰とも敦も喋ってはいない。隣の席をみて不意に浮かんできただけの言葉で、それが口にでていたことすら視線に気付くまでは気付いていなかった。そんな言葉に全員が顔を上げたのは皆がその事をずっと考えていたからなのだろう。
「無理だろうね」
 一番に答えたのは与謝野だった。その言葉にぴくりと敦の肩が跳ねる。
「でも」
 でていく言葉に国木田が首を振った。谷崎や鏡花が下を向く。
「分かるだろ。何を言ったって彼奴の心に届かないんだ。それどころか……覚えてるだろ」
 口を閉ざした探偵社の皆。その脳裏には一週間ほど前の出来事が浮かんでいた。
 福沢が死んでからと言うもの太宰のサボり癖はますます酷くなっていた。誰かが引きずってこなければ探偵社に来ることもなく一日を福沢の家で過ごす。そんな太宰に耐えきれなくって一週間前、ついに国木田が怒鳴ったのだった。
「社長はもう死んだんだ! この世にはいない!お前が見ているのただの幻だ」
 その言葉を聞いた太宰は最初笑っていた。
「国木田君でもつまらない冗談を言うときがあるのだね」
 そう言って笑い、国木田の言葉を信じようとしなかった。そんな太宰を国木田は福沢の墓の前まで連れていた。墓の前に連れ出し福沢の名を読ませる。太宰の顔から笑みが消えた。
「こんな冗談止めてよ」
「冗談じゃない」
 僅かに震えた言葉。青ざめていく顔色。
「違う!」
 喉の奥から絞り出すように口にされたのは叫びだった。同じことを太宰は口にする。その顔が見たこともないほど歪んでいた。
「違う! 福沢さんは生きてる! 私の傍にいてくれる! 変な冗談を言わないで!」
 国木田の襟元を掴み上げ詰め寄る太宰は想像も出来ないような姿だった。いつも飄々としていたのが嘘のように詰め寄っている。ただ、その顔に表情といって良いものは浮かんでいなかった。真っ黒な目が国木田を見ながら言葉を落としていく。
「福沢さんは私を残して死んだりしないの。私を置いていかない。ずっと傍に居てくれるってずっと。そうじゃないと駄目なの。ああ、そうだ。昨日だって頭を撫でてくれたんだ。お前は可愛いなって。良い子だって頭を撫でてくれて。ご飯も福沢さんが作ってくれたんだよ。あの味は間違いなく福沢さんの味だった。かに玉に菜の花のおひたし、煮物とお味噌汁。福沢さんが私のために作ってくれたんだ。そうだ。福沢さんの家の戸棚を見てみるといい。あそこにカニ缶が入ってる。福沢さんが私のために買ってくれるの。いつも三個以上はストックされてる。それにお酒の入ってる戸棚には沢山新しいのが買い足されている筈。捨てる瓶置き場も見てるといい。毎日一本、一週間に十本以上は必ず増えていくから。
 福沢さんは死んでなんていない。いないんだよ。
 家に帰れば福沢さんはいるの」
 心配でついてきていた皆が詰め寄る太宰に止めに入ろうとしていた。だがその動きが太宰の言葉に止まり、棒のように立ち尽くしてしまう。太宰をただ見つめるのに真っ暗な目をした太宰は何処か虚空をみだしていた。
「福沢さん」
 国木田から離れていく手。溢れ落ちた名前。何処かを見て微笑む。
「いなくならないですよね。ずっと一緒に」
「太宰、止めろ! そんなところに社長は」
 伸ばした手。言い掛けた言葉。だけどそれらは太宰の手によって叩き落とされた。
「黙って! 福沢さんはいる! 死んでなんていない。
 ねえ、福沢さん」
 囁く太宰に誰もなにも言わなかった。言えなかった。目線を外し太宰から逃げてしまった。国木田さえもそうで太宰が何処かに行くのを感じながらも追うことすらできなかった。
 ぼんやりと帰ったのだなと思うだけ。福沢と暮らしていたあの家に帰ったのだなと。
 その時のことを思い出して探偵社の皆の顔は苦いものになっていた。あの日からますます太宰との距離が遠ざかってしまっている。呼びに行けば仕事には来るし、そうでなくとも週に二度は必ず事務所に来る。だけど今までのように誰かと出掛けるなどということはなくなり、事務所にいる以外の時間は全て福沢の家で過ごしていた。そして福沢の家で過ごしているときは何度か根気よく声を掛けない限りそこに誰かが来ていることにすら気付かないのだ。
「まあ、仕事はちゃんとしてるんだし。それで良いと思うしかないよ」
 全員が太宰の机を見つめるなか、与謝野が絞った声でそう言った。それに揺れる幾つかの目。
「でも」
 諦め悪く敦は声をだしてしまう。
「太宰さん最近ますますおかしくなっていているんです。前までは僕らがいるときは社長と話してるようなことなかったのに、最近は僕が傍にいても社長と話して。
 このままだと僕らの傍から消えてしまうんじゃないかって不安で」
 言葉の途中でぼろぼろと溢れだした涙。その感覚は皆持っているもので全員が口を閉ざしてしまう。嗚咽が複数聞こえた。

まる

はぁと深いため息が隣にたつ国木田からでていく。それに敦は心配そうに国木田を見上げた。
「大丈夫ですか。……今日は僕一人でも」
「いや、今日は探偵社まで連れていくだけじゃないんだ。お前一人させるわけにはいかん」
 目元に濃い隈を作っている国木田がふらふらの声で言う。己を心配してくれているのが伝わって敦はもう一度声をかけた。
「大丈夫ですよ。仕事にさえ引きずり出せれば、まともにとはいかなくとも……何だかんだでそれなりにはやってくれるので」
「……そうなんだろうが、そこまでが大変だろう。気を遣わなくても言い。ほら、行くぞ」
 本当に大丈夫だろうか。何時もなら伸びている背が曲がっているのを見つめて敦を不安な気持ちが襲う。もしこれで国木田さんまで倒れたら、考えるのに既に国木田は目的の家の玄関へと辿り着いていた。そこでまた深いため息を着いている。
「入らなければならないと分かっているんだけどな」
 隣に立つ敦に国木田は弱気な様子を見せた。
「僕一人で行ってきましょうか」
「それはいい」
「でも、国木田さんここにはいる時が一番辛そうな顔をしていますし……」
 敦の言葉に図星であった国木田は口を閉ざし、そしてため息を吐く。二人が見つめるのは福沢の家であった。二人は仕事に来ない太宰を迎えにここまできたのだ。だから家に入らなければ行けない。だが国木田はそれが怖かった。
「敦、お前は社長が生きている頃にここに来たことはあるか」
「え、さすがにないですけど、」
 福沢の家を見上げる国木田は気付けば敦にそう聞いていた。予想しなくとも分かっていた台詞が聞こえてくる。社員がそう簡単に社長である福沢の家に招かれる訳がない。でも国木田は何度か入ったことがあった。それは彼が社員である前に弟子だったから。そのときに何かとお世話になったのだった。部下になってからは来たことはなかったが、今回の件でその頃とこの家の習慣が何らかわりないことを知ってしまった。
「この家は社長が生きているかのようなんだ」
 見上げ国木田は呟く。玄関の鍵を開けた。敦はどういう事だと驚いた顔で国木田をみている。福沢は死んだ。太宰がみているのはただの幻でしかない。それなのに。
 そんな敦の思いを汲み取ったのか国木田は息を吐き、答えた。
「何もかもが昔と変わらない。社長が生きていた頃と同じ時間がここに流れている。毎日それを感じて気持ち悪くなる」
 だがそれは全く分からないままの答えだった。
「それはどういう」
 問いかけるが国木田は答えなかった。恐ろしいものをみるような目で福沢の家を見つめ、そして地にはえてしまったような足を動かす。
「……行こう」



「あ、彼処にクレープやがありますよ。太宰さん食べませんか」
 何とか太宰を福沢の家から連れ出し、仕事も無事終わらせることのできた帰り道、敦は見かけた屋台に声をあげた。是非と見つめる先の太宰は青白い顔をして首を傾けた。記憶にあるよりずっとその体は痩せている。
「なぁに? 敦君食べたいのかい。食いしん坊だね」
 そんな自分の姿には気付いていないのか太宰は不思議そうにした後に笑みを浮かべる。くすくすと笑われるのに敦は苦笑を浮かべた。
「まあ」
「仕事も終わったから丁度良いかもしれないね。でも寄り道したら国木田くんに怒られてしまうよ」
「別にそれぐらいの寄り道なら怒らん。丁度小腹も減ってきた頃合いだしな」
 真っ直ぐ帰った方がいいんじゃないかい。そう太宰が云う前に横にいた国木田も敦の掩護射撃をした。褪赭の瞳がぱちくりと瞬く。珍しいと見つめてくる太宰。その口許が僅かに歪んでからすぐに笑った。
「じゃあ、食べて帰ろうか」
「はい!」
 良かったと敦が笑う。国木田もほっとした様子を見せていた。だがその二人の姿を太宰は見ていない。クレープ屋に向かって歩いていて二人に背を向けていたのだ。そうでなくとも心配されているなど今の太宰は気付きもしなかっただろうが。
「美味しいですね」
「そうだね」
 クレープを買い三人で近くのベンチに座って食べる。敦が問いかけるのに太宰は笑って答えていた。だけど食べる瞬間その口許が歪に歪む。すぐに笑いながらもきゅもきゅと食べるが美味しいと思っているようにはみえなかった。食べることそのものを嫌っているようで、どうしたら良いのだろうと太宰を見ながら敦は思っていた。
「ん? どうかしたかい敦君」
 視線に気付いた太宰が敦を見た。ゆるく首を振るのに興味をなくしたように太宰はすぐに視線をそらした。最後の一口を飲み込んで背伸びをする。背もたれにもたれ掛かってぼんやりとしだす太宰。敦は急いで食べようとクレープを口に含んだ。隣の国木田もそうしているのにふっと太宰の眼差しが何処かを見ていることに気付く。
「太宰さん、どうかしましたか?」
 問うが何処かを見ている太宰はその場に釘付けになっていて敦のといに答えることはなかった。国木田がその視線を追い掛けて固まってしまう。背筋を冷たいものが通り過ぎていった。太宰が見つめる先に一匹の猫がいた。
 おそらく野良猫だろう。灰色の猫。ただそれだけだが恐ろしくなるのは福沢が猫を好んでいたことを知っているから。福沢の家には今でも毎日のように猫が訪れている。国木田の脳裏に福沢が浮かんだように、太宰も福沢を思い浮かべている。
「福沢さん」
 猫を見ながら太宰が呟く名前。敦が息を飲み込む。泣き出しそうな顔を浮かべるのに太宰はじっと猫を見てから下を向いた。誰かの名前を呼んでいる。その目元が歪んでいるのを敦は見た。
「太宰さん」
 恐る恐る呼び掛けた名前。ハッとした太宰が我に返って笑みを浮かべる。そうしながらその顔は再び凍りついていく。その変化が恐ろしく敦は後ろを振り向いた。敦の目が見開く。国木田が太宰の肩を抑えようとした。
 公園で休んでいた三人。その公園をでてすぐの場所に川が、流れているのがみえた。
 太宰がふらりと立ち上がる。
「止めろ!」
 叫んで手を伸ばすが太宰はさらりと逃げていく。そしてふらりと川の方へ歩いていく。追い掛けるが捕まえることはできなかった。太宰の体が川のなかに消えていく。流れていく細い体に敦が飛び込んだ。


「このバカ! 急に川に飛び込む奴があるか!」
「死んだらどうするんですか!」
 引き上げた太宰の体。目が開くのに二人して怒鳴る。太宰はぼんやりとそんな二人を見上げた。その焦点はあっておらず口が小さく動く。太宰の腕が敦の頬に振れた。
「……福沢さん」
 聞こえた名前に肩が揺れる。違うと思わず怒鳴りそうになったのに、その前に太宰が敦を見ていた。褪赭の目が真っ直ぐに敦を見て、それからその唇が歪む。
「あ、二人とも。ふふ。ごめんね。心配かけて」
 柔らかに笑う太宰に何かを言おうとして二人して言えなくなる。二人の目の前で太宰が立ち上がっていた。
「あ、何処に」
「おうち濡れたから着替えたくなっちゃった。じゃあね」
 何処かにいこうとする太宰に敦が声をかける。ふらりと手を振る太宰は逃げるように去っていて。追い掛けようとした敦を国木田が止めた。ゆるく振られる首。濡れたメガネが下を向くのに去っていた太宰の背を追い掛けてから敦もうつむいた。
「太宰さん大丈夫でしょうか……」
「あれぐらいなら何時ものことだろう」
 弱々しい声が問う。答える声もまた弱々しかった
「そうなんですけど……。太宰さんが自殺するの久しぶりだったから」
「……」
「そういえばいつからか自殺しなくなっていましたよね。それって……」
 敦が溢すのに国木田はなにも言わなかった。噛み締めた唇。そのはしが青白く変色している。敦もまた最後まで言葉を紡ぎきることができなかった



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