参
食べなさいと差し出した箸。
少し困ったように口角を上げた後、開いた口。差し出したものを食べる姿に感じる愛おしさ。それらが一瞬ぼやけた。
いつもと同じ砂色のコートを纏っていたのに、白い着物になって差し出したものを口にする。魚の切り身だった筈が赤いきのみに変わり、太宰が熱い口の中に指先事入れる。薄い唇に挟まれた指先をうごめく舌が撫でていく。ふっと魅惑的に微笑む顔。
どうしましたと言う声に我に帰ればそこには砂色のコートを着た太宰が口の中のものを
みしめている。福沢の手には箸があり、指先に濡れた感触はない。
どくどくとなる胸の音。
今のはと目の前の光景を見つめるのに、太宰は不思議そうに首をk手向けていた。
昔見た一瞬の出来事を思い出しながら福沢は目の前にいる太宰を見る。
どうしましたと声をかけてくる太宰はいつも通りの姿。違うのは動きやすいように砂色のコートを脱いでシャツの裾をまくっているところか。
不思議そうに見た後、早く行かないと依頼人とはぐれてしまいますよ。と言い駆けていく。ああと答えながら福沢は今見た光景は何だったのかと考えていた。
繁忙期と言えるようなものは探偵社には特にないのだが、不定期に手が回らなくなり、死ぬのではないかと言うほど忙しくなる時がたまに……、と言いたいところだが、そこそこあった。
突発的に訪れては数日程度で過ぎていくのだが、そういう時は普段は依頼に出向くことのなくなった福沢も出ることになる。
今日は数件の依頼をこなした後、太宰と共に最後の依頼に赴いていた。これが終われば一旦仕事は全部なくなるはずだった。
また依頼が来ない限りはだが。
その仕事の内容は要人警護だった。要人同士、ゴルフをする予定なのだが、そのうちの一人が数日前に命を狙われたらしく、また何かないように護衛を頼まれた。
正直、そんな状況ならゴルフなどせずに大人しくしていろと思ったものの、まあ、何かしらの取引などもあるのだろう。
引き受け、ここ数日の激務で疲れている社員たちは休ませて福沢が来ていた。太宰がいるのは予想外であった。本当は福沢一人で来る予定だったのだが、私も行きますと太宰が何故か言ってきて、そして、無理矢理ついてきたのだ。
一人と依頼人にはすでに伝えていたが、太宰は持ち前のコミュニケーション力で警護ではなく見物人として同行することを許されていた。
そのため福沢の傍と依頼人の傍を行ったり来たりしている。
今いたのは予定のコースからコースを変えるという話を福沢にしに来てくれたためだった。言いに来た時太宰は、全く命が狙われているというのに暢気なものですよね。とくすくす笑っていた。
「狙われていることなど忘れてしまっているのでしょうね。だとしたらそのままの方がいいですよね。どうだこうだ騒がれる方が面倒ですし」
にこにこ笑う太宰。その姿を少し見てそうだなと頷いていた。それではと太宰が去っていこうと後ろを振り返る。その背中を見送ろしたのにその光家はあの日と同じように突然やってきた。
ぼやけた視界。太宰の姿が二重に見えた。その後振り返ったばかりの太宰が振り向いていた。
ふふと微笑んだ太宰は福沢を見てその口を開く。何かを言っていたが、何を言っているのかは聞こえてこなかった。
太宰の服は白い着物に変わり、場所も変わっていた。
ゴルフ場のコースから外に少し上になった場所。周りには幾本かの木が植えられていた。ただそれだけの場所だったのに今目の前に広がる景色の中には木々が何本も生い茂り、そして太宰の傍に数匹の犬がいた。
何だこれはと見開く前で太宰が口元を緩めて何かを話している。
そしてその手がそっと伸びて、
ぱちりとそこで記憶のような何かが弾けた。目の前には白い縦縞模様のシャツをきた太宰がいて、福沢の様子に気付いて首を傾けている。今見た映像が何か分からずに固まる福沢。
思い出した居酒屋でのこと。さらに暫く固まってしまえば痺れをきたせた太宰は言うだけ言って依頼人の所に向かってしまった。その後を追い、程よいところで足を止める。
依頼人がいる場所を確認し、周囲に何もないことを確認したら本来の予定であったコースの方に向かった。
木の近くなどに身を顰めながら確認していくと、見つかる良くないものたちの姿。それぞれ身を潜め標的が来るのを待っているのに人数を確認して襲う順番を決めていく。
頭の中でいくつかのシュミレーションをしてから動く。
見つからないように移動して離れた位置にいた一人目を後ろから襲い、昏倒させた。他二人離れた場所にいる者を気絶させる。
密集している敵の端を叩いて、銃を一つ奪い取る。
気づいた奴らが振り向き構えるのに、手元を狙い撃ち弾き飛ばす。全員の手から武器を奪うと同時に使い終わった銃を一番近くの敵に投げつける。腹に当たった敵は腹を抑えて動かなくなる。他の敵はこぶしで沈め、立っているものが他に誰もいないことを確認してから、武器を全部袋に入れ始めた。
依頼人たちの所に戻れば、のんきにゴルフをしている姿が見える。その中にいる太宰が何故か依頼人からグローブを借りてはゴルフに参加していた。
振り上げるフォームは美しく球にあたったが、角度が悪かったのだろう。あらぬ方向に飛んでいく。ぱちぱちと拍手をして笑う依頼人と一言二言話して、太宰はグローブを立てかけ。福沢の元に向かってきた
「お疲れ様です」
ふわりと笑って声をかけてきた太宰は福沢が横に置いた袋を見てくる。持ってきたんですかと驚いているのに置いておくのもあれだろうと答えていた。
「まあ、そうですよね。それよりどうでした。どんな奴らでしたか」
「ただの捨て駒だな。ろくな情報は引き出せんだろう」
「ああ、やっぱりそうですか。仕方ありませんね」
「太宰お前何をたくらんでいるのだ」
「企むなんてとんでもない。私はただゴルフに興味があったのとお邪魔しただけですよ。あ、そろそろ依頼人が打つようなので行ってきますね」
そう言って太宰は依頼人の元に行ってしまう。にこにこと笑っている姿を見送る。今度は何もなかった。ただ何となく苛立ちを感じた。ゴルフは順調に進んでいく。途中でコースが変わることもあったがそこに問題はなかった。
太宰は飛ばしていく依頼人たちの横、一人からぶったり変な方向に打ったりして、その度依頼人に教えてもらっているようだった。依頼してきた時とは打って変わって機嫌のよさそうな依頼人はやたらと太宰に引っ付いては何が耳打ちをしていたりした。手を掴んだり、肩に手を置いたりもしていて、
楽しげな様子に遠くで回りを警戒している福沢は依頼人に殺意を覚えた。
少し近いのではないかと思いもしたが、せっかく太宰が気に入られ良い印象を与えようとしてくれているのに変な横やりを入れるのもあれかと思って福沢は怒りを鎮めた。
そうこうしていると一度目の勝負がついた。依頼人ではなく別の男がかっていた。中にいる中で一番偉い人物だろう。わいわいとした空気。休憩に入るのに福沢は遠くからついて回る。
ビールを手にして飲みだす依頼人達。どうぞと差し出されたのだろう。太宰が一度断るようなそぶりをしてから、ではと飲んでいた。
太宰は仕事として来ているわけではない……。
まあ、よいか。その方が依頼人達も喜んでくれるようだと見逃すことにした。ただ周囲に向けていた警戒を中にも向けるようにする。
ビールを飲みながら何かつまんでいる依頼人達。楽しげな笑い声が福沢の元にまで聞こえてきた。
依頼人と太宰の距離は近い。肩まで寄せているが太宰はにこやかに笑い、時折福沢がいる方向を見てはすぐ顔をそらしていた。
三十分近くの休憩を抑えて依頼人達はまたゴルフを始める。ビールは手にしたまま進んでいくのに福沢は後を追いかける。
スタート地点について準備を始めるのに太宰が席から離れて福沢の元に向かってきた。お疲れ様ですという顔は少し赤くなっており、呂律は少し回っていなかった。
大丈夫かと言うのに太宰は大丈夫ですよと笑う。
「何も知らないバカで扱いやすいやつが好きなんですよ。あほな金持ちの典型例。何て言うのはあれなんですけどね」
言った後に太宰はお酒回っちゃったかも何てぶりっ子とでも言う奴かのように舌を出した。
いつも通りそうで福沢は少しだけ安心する。それはそうと話していた太宰は懐から何かを取り出していた。これをどうぞと手渡してくる何をと見つめた。それは個装された菓子であった。
だされたものを受け取りながら何だと福沢は見つめる。個装された菓子にはバタークッキーと書かれている。
「先ほどもらったものですよ。とても美味しいバタークッキーで皆さん大好きなそうなのですが、でも依頼人はあまりクッキーがお好きでないようでして、私にと。でも私もクッキーと言うよりバタークリームがすきじゃなくて、せっかくですので社長に上げます」
太宰が男の姿を見て話すのに男はひらひらと太宰に向けて手を振っていた。早く来いとでも言うような姿にもやっとしたものを感じながら福沢は太宰を見る。
その目はわずかに見開かれていた。そうなのかと零れていく声は少しばかり驚きに包まれている。ん? と太宰の方が不思議そうに首を傾ける。
どうしましたと問いかけてくる声。まじまじと福沢は太宰を見て苦手なのかと聞いていた。
「ああ、バタークリームのことですか。そうなんですよ。あまり味が得意じゃなくて」
「初めて知った。そう言えばあまりお前の好みについて聞いたことがなかったな」
「そうですね。そのような話はめったにしませんし、あ、私が特に好きなのは蟹ですのでこの件が終わりましたら、ごほうびにつれていってくれてもいいいのですよ」
にこりと太宰が笑う。できたら忘れられる前に、今日にでもと言っているのに福沢は呆れるでも怒るでもなく優しくその口元を緩ませていた。
「そうか。うまいカニ料理を食べに行こう」
福沢にしては珍しい穏やかな目が太宰を見てくる。太宰は一瞬だけ驚いた後すぐに笑い直していた。
「ありがとうございます。あ、それ本当に美味しいらしいので乱歩さんにでもあげてください。とても喜びますから」
礼をしてから太宰の視線は福沢が持つバタークッキーへと移った。ふわふわと笑って告げるのに福沢の眉が少しだけよる。むっと尖る口元。
「……私ではないのか」
「だって社長は甘いもの好きじゃないですよね」
福沢が低い声でそう言ったのに太宰はことりとわざとらしく首を傾けた。
「乱歩さんなら喜びますから」
にっこりと笑う太宰。是非というのが伝わってくるのに福沢は口を閉ざす。無言の抗議のつもりだったが、太宰はそんなものつゆほども気にしなかった。
「では私はこれで。乱歩さんが食べたら感想でも聞いてくださいね。また今度あの人に話しますから」
ぎゅっと手に押し付けてから太宰は、依頼人の元に戻っていく。釈然としないものを感じたものの、乱歩にと言われたものを食べるのも大人げない気がして、手の中にあるものを見つめる。せめてもの腹いせにと思った時には、すでに福沢の手の中で、綺麗だった包装紙がぐしゃぐしゃのものになっていた。
それからしばらくの間、ゴルフは何事もなく穏やかに進んだ。襲撃を仕掛けてこようとする者達もおらず、これでしまい。諦めたかと思いかけてきたその時、事件は起きた。
ビール片手につまみを食べながら和やかに過ごしていた依頼人達の中で、太宰が突然呻き地面に倒れこんだのだ。
慌てて立ち上がり一瞬だけ周囲を見渡す。誰もいないことを確認すると一目散に福沢は太宰の下に駆け寄っていた。すでに周りには依頼人達が駆け寄り太宰の肩をゆすっている。太宰の意識は途切れているのかゆすられながらも動く気配はなかった。救急車は近くの依頼人達のボディーガードに声をかける。
今しています。答えを聞いて福沢は太宰の近くにいた男に容体を聞く。青ざめた顔。ぐったりとしているもののまだ息はあった。動かさない方がよいだろうと下に羽織を敷いて横たえる。
何があったと問えばチョコを食べたらいきなりと依頼人が答える。毒物かと福沢は慌てて周りの藻を見た。水が目に入ったのに手にして近くに寄せる。太宰の口を無理やり開けてまずはいに入ったものを少しでも出させようと喉の奥に指を入れた。
体を下に向けながら喉奥を広げるのに指に逆流してくるものが触れて吐き出されていく。ぐっと顔をしかめてしまうようなにおいがするもののかまうことはせず、あらかたのものを吐き出させた。
水を口に含んでそのまま太宰の口をふさぐ。口の中のものを洗い流させ、それから少しずつ水を飲ませていく。再び太宰を横たえる。
汚れてしまった羽織は横に置いて、太宰が油井でいたコートを敷く。後数分もしたら救急車が来るとボディーガードの者が声をかけてくるのにそうかと少しほっとしてから福沢は呆然としている周りに目を向けた。
「警察への連絡は」
問うのにえっと周りは目を見開いた。警察。と慌てたような声。何故と言うのにこのような状況当然だろうと福沢は睨みつけた。懐から携帯を取り出し、警察に連絡する。この場所から動かぬようにとも依頼人達に伝えていた。
救急車で太宰が運ばれた後にパトカーは到着した。正直福沢は太宰についていきたかったが、ついていかずその場に残っていた。
現場検証の傍ら、取り調べが行われる。
まずは全たちに話を聞いた後個別の取り調べが行われた。ゴルフ開始からずっと遠くにいて犯行が物理的に不可能な福沢は特に何かを疑われることはなく、当時の依頼人達の様子を聞かれるだけであった。来た刑事は何度か居合わせたことのある相手で福沢に対しては好意的であってくれた。
捜査状況も教えてくれるものの芳しい状況ではなかった。
チョコに毒を盛られていたという話であるが、誰が仕組んだものか分からないのだ。そのチョコを持ってきたのは依頼人の古くからの友人に当たる男性で彼も大会社を経営していた。毒を盛れる可能性が一番高いもののチョコはそれぞれが好きなものを選び食べた為、目的のものを殺すために何処に盛ればいいのかなど分からない。下手したら彼自身が食べてしまう可能性もあった。
次に毒を盛れる可能性が高いのは依頼人である男。彼が太宰にチョコを渡したらしいが、太宰にあったのは今日が初めて動機がなかった。警察もお手上げのようでまだ調査は終わらないのか。こちらも用事があるのだ。かえらせてくれと言われるのに、いつまでもとどめることはできなかった。
探偵社の名探偵を呼べないのかと聞いてこられたが乱歩は出張に出ていてすぐに来られるような場所にはいなかった。
何も解決しないまま時間だけが過ぎていき、帰してくれと言う声も大きくなっていた。これ以上拘束されてたまるかと騒ぐのイ腹立ちながらも無理矢理とどめておくこともできない。
毒を入れられる機会があるのは間違いなくその場にいた依頼人達であるもののそれを決定づけるための証拠がないのだ。
まさか方法が分かるまでずっと色とはできない。一旦返すかと言う話になろうとした。
「まあまあ、帰りたいのは分かりますが、ここはいったんお待ちください。私犯人分かってしまいましたから」
それではと警察の者が依頼人達に向かい帰っていい旨を伝えようとしたとき、聞こえてきたのは太宰の声だった。
慌てて振り返れば入口に太宰が経っている。にこにこと笑っている姿にほっとしてからえっと福沢はその目を見開いていた。
ざわめく周り。警官が誰だというのに太宰は被害者ですよ。毒で倒れた被害者と自分で言っていた。はぁと警官から出ていく声。
「被害者なら救急車で運ばれて病院のはずだが」
「必死の治療のおかげで動けるようになったので戻ってきたのですよ。犯人を捕まえるためにね」
警官に問われるのに太宰は笑って答える。最後警官を見ていた目が周りに向けられていた。ふふと口角を上げるのにざわめく周り。幾人かが息を飲むのに、警官もまた小戸といたように口を開けて太宰を見ていた。
「犯人って」
呆然とした声で警官が口にする。その姿を見た後、太宰の目は周り、容疑者たちを見た。順繰りに見ていきながらゆっくりと言葉にする。
「言ったでしょう。犯人は分かってしまったと」
「本当なのか」
警官が問うのにもゆっくりと頷いた。勿体つけるような動きであった。太宰は穏やかに笑っているが、福沢には獲物を狩るために準備を終えた狩人のように思えた。張り巡らせた罠に獲物を追い詰めようとしている。
「ええ。毒をもった方法それを行った人物。すべてわかっておりますよ。私の推理が合ったっているか一応確認しましたので」
そんな太宰の笑みに福沢は少しだけ眉を顰めた。
「まず私に毒をもった方法は簡単です。チョコに入れただけです」
「だからそのチョコに混ぜたとしてもどれに混ぜれでいいのか分からねえだろう。まさか無差別だったわけじゃ」
太宰が一つ口にする。警官が声を荒げた。いぶかしげな眼で容疑者たちを見るのに太宰はその口元に穏やかな笑みを浮かべながら首を振った。
「無差別ではありませんでしたよ。ちゃんと狙いは一人。〇〇だけでした。人数分足りなかったため、私が彼から譲ってもらい倒れてしまいましたが。
でも実は私が倒れてしまったのはただの偶然なんですよ」
「はあ、偶然って狙われていた〇〇からチョコを分けてもらったから倒れたんじゃないのか」
ゆっくりと太宰の口が言葉を紡いでいく。みんなの視線が太宰に集まっているのに福沢は容疑者たちを見ていた。たらりと流れ落ちるような汗が見えて目を細める。ごくりと隠れて息を飲み込む姿が見えた。警官が訳が分からんと声をあげていた。
「いえ、違います。だってどのチョコを食べるかは関係なかったんですから最初からすべてのチョコに毒が盛られていたんですよ」
ゆるりと首を振った太宰が口にする。はっと福沢からも少しだけ声か出ていた。太宰を見るのにその近くの警官の姿も目にはいる。警官は驚いたように太宰を見てから、その顔を歪める。
「はああ、そんなことあるわけないだろう。全部に毒が入っていたなら他の奴らも倒れている筈で」
「それが倒れないように仕掛けをしていたんですよ。ターゲットだけを殺せるように、ターゲットだけが食べないあるものに解毒剤を仕込んでいたんです」
警官の言葉を太宰は奪い取っていた。そして告げるのに福沢が気にしていた一人の肩が小さく跳ねていた。さっと顔をそらしたのは一瞬すぐにもとに戻しては周りを確認している。全員息を飲んで太宰を見ていた。
「なんだと」
警官から漏れる声。にっこりと太宰が笑う。
「そしたらチョコを食べた他の者は倒れず食べなかったターゲットだけが死ぬと言う訳です」
「そんな。何だ。あんたが食べずに他の者が食べたやつは」
ひぃと青ざめた声が依頼人から出ていく。そんなと震えている男に警官は血相を変えて近付き問い詰めていた。ふるふると首を振っていた。
「いや、そんなこと言われてもちょくちょく食べていたから何を食べなかったかなんて」
「もしかしてこれではないのか」
依頼人の目はあちこちを動いて周りを見ていた。混乱している頭ではちょっとのことでも思い出すのは難しいだろう。パニックに陥りそうなほど震えているのに福沢は太宰を見た。太宰はにこにこと笑っている。でも目は笑っていなかった。懐にいれていたものを福沢は見て、そしてそれを差し出していた。
警官や依頼人、他の容疑者たちの目も全部福沢を見る。太宰はどことなく嬉しそうになった。
あーーあ! と依頼人が声をあげる。
「そうだ。そのバタークッキーだけは食べなかったんです。私はクッキーは苦手なのでいつももらっても食べず持って帰って家内にあげるんですよ」
依頼人が指をさしてくる。福沢が手にしているのはぐしゃぐしゃになったバタークッキーだ。依頼人が何度も首を強く降っていた。冷や汗を流しながら早口では説明をしている。警官がすぐに福沢に近づいてきた。
「それは」
「太宰にもらったものだが、太宰は〇〇殿からいただいたと言っていた」
「私はバタークリームが苦手で折角だから護衛している社長に挙げたのです。でもそれが残っているなら調べれば解毒剤が出てくるんじゃないですか」
警官が太宰を見る。太宰はにこにこと笑って滑らかに答えていた。最後の言葉はことさらゆっくりというのに視界の中、唇を
みしめている人物を見る。
「いいか」
「ああ」
警官が問いかけてくるのに福沢は頷いてクッキーを渡していた。警官が鑑識の者に渡している。受け取った鑑識はすぐに調べるため出ていく。皆が緊張した面持ちでそれを眺めたのに、太宰が声を上げる。
「このバタークッキーを持ってきたのは●●さんでしたよね」
相変わらずの笑顔で依頼人の友人である男を見ていた。男の肩が少しだけ跳ねた。さっと目をそらしては、何とか太宰のほうに視線を戻す。警官が驚いたように男を見た。
「まって、確かチョコを持ってきたのもあんただったよな。と言う事は」
その警官から出ていく男。はっとしたように依頼人やそのほかの周りも男を見ていた。男から流れる冷や汗。それでも男は首を振っていた。
「ま、待って、違う。私はそんなこと知らん。もし仮に出てきたとしてもチョコもクッキーも私でなく使用人に用意してもらったものだ。もしかしたら」
「使用人が勝手に都合のいい言い訳ですよね。
では最近〇〇さんを狙っている奴らも使用人が仕掛けたんですか。今日襲ってきた者達は事前に内部の者から話を聞いていなければあんな場所で待ち受けできないと思うんですが」
こいつと福沢と警官が眉を顰めたのに対して、太宰はまだ余裕を持っていた。笑みを崩さず話しかける。はっと福沢の目が見開く。じいと太宰と男を見た。
「勿論だ。そんな奴らのことを私はしらん。すべて使用人の誰かがやったのだ」
男はそうだと頷く。余裕を取り戻しつつあって、不遜な態度をしていた。腕を組んで第一何で私が親友を殺さなくちゃいけないんだなと言っている。不思議そうにすらしていなかった。
「では使用人たちにゴルフのコースを教えていたりしたのですか」
太宰が問いかける。その口元にはにんまりとした笑みが浮かんでいる。男はそのことに気付かない。
「覚えてはいないが、そうかもしれんな。楽しみにしていたからコースの話などもしてしまったのかも」
「そうですか」
「ああ、これで」
太宰の肩が下がった。まるで諦めたようにも見える。男はやったとでも思ったのか、口角が上がり始めていた。だが、その口角は
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何なんだ。今日襲ってきた奴らと言うのは」
すぐに凍り付いて動かなくなる。依頼人が焦ったように太宰に聞いてきていた。周りもざわめいている。どういうことだという声が聞こえてきていた。暢気にゴルフをしていた要人たちだけでなく、護衛の者達も同じように顔を見合わせていた。
「は、何を」
男の口元が引き攣る。依頼人は男と太宰を交互に見てから聞いてきた。
「私は何も知らんが。襲われたのか」
男の目が見開く。警官はどういうことだと事の成り行きを見守っている。太宰は楽しそうだった。
「ふふ。ええ。実はそうなんですよ。今回予定していたコースの途中で待ち伏せをされていましてね。私たちはそのコースに行かなかったので遭遇はしていないんですけど」
「な」
いつもより高くなったようにも思う声で告げているのに、男からは間抜けな声が出ていく。大量の汗を流しながら太宰を見て、依頼人を見て、そして周りを見た。みな、そんなことがあったのかと驚いていた。そう言うことは把握しておけと怒られている護衛の者もいる。
「なんでそれをそいつが知っているんだ。他の者は知らなかったようだが」
警官の目が鋭くなって男を見る。太宰は男からしたら腹が立つだろう仕草で首を傾けていた。
「さあ? 私にもわかりませんね。楽しんでいるところに余計な心配はさせたくないと思いまして、秘密にしていたんですが。知っているのは私と社長の二人だけのはずで……。
社長言いましたか」
「いや、警察は呼んだが、気づかれないように来てもらったし、誰もお前たちの近くは通らなかった。あっていないことは今からでも確認できると思うが」
太宰が聞いてくるのに、福沢は首を振る。ほうと警官が低い声で頷いた。睨むような目で男に近づいていく。男が後ろに逃げるように下がった。だがそれは依頼人の護衛が止める。鬼のような形相で男を見下ろしている。さすがに男の護衛はこの状況で助けに行くことはできないようで、戸惑っていた。
「なんで知っていたんだ」
警官が問う。
「……それは、
そう。音だ音がしたんだよ。なんだか騒がしい音、銃声がしてそれで」
男の目がさまよった後、そんなことを言い出していた。太宰の目が見開く。きょとん首を傾けていた。
「音ですか」
「俺は耳が言いから聞こえて」
「……」
ふむと太宰が顎を抑える。往生際が悪いなと考えているのが伝わて来た。福沢もこの期に及んでそんなことを言うとはと思っていた。警官も同じ気持ちだろう。だがぐっと眉を寄せて次の言葉は言えずにいた。太宰の方に銃を使っていたのかと聞くぐらい。太宰は渋りながら頷いていた。
福沢は口を開く。
「それは無理だ」
短く言ったのに警官と男、そして太宰の視線が集まる。太宰がじっと見てくるのに福沢はその時のことを告げる。
「あの時確かに私は襲撃者から奪った銃を撃った。だが、誰かに気付かれないようにサイレンサー付きのものを奪って撃った。しかも他の襲撃者も銃を持っていたが、一人も撃たせたものはいない。
銃声はしていないんだ」
「な」
男が絶句する。大きく口を開けて固まるのに、太宰は目を見開いていた。瞬き一つしてその口元に大きな笑みを浮かべる。どくりと高鳴る胸を気にしないようにして福沢は男を見た。
「サイレンサー付きのものとなると近くでも聞こえない。いくら耳がよくても遠くからのものなど聞こえようもないでしょうね」
「そ、そんな」
意気揚々と太宰が話す。男の体が今にも崩れ落ちそうだった。警官が男に手を伸ばす。
「どうやら所に来てもらう必要があるようだな」
来てもらおうかと言っていたのに、くそと男が叫んだ。警官を突き飛ばしてあたりを見る。あたりにはまだゴルフバッグが置いてあった。その中にはバッグのふたが開いたままになっていたのもあるのに、男はクラブを手にし振り回す。
「そこをどけ」
走り出した男が向かう先は真っ直ぐに太宰の元であった。目を見開きながら太宰の閉じた口元は少しだけ上がっている。男がクラブを振り上げる。
振り下ろされると誰もが思った時、福沢は男の手を掴んでいた。そして、男の体を背負いあげる。地面にたたきつける。手を離した時には男は気絶していた。
「連れていけ」
警官に向かい告げる。警官はすぐに頷いて懐から手錠を取り出していた。
「ああ。公務執行妨害、および暴行未遂で現行犯逮捕だ」
男の手首に手錠が掛けられるのを見届けてから福沢は太宰を見た。太宰はたった今クラブで殴られそうになったものとは思えないほど和やかに笑っている。
「さすがですね」
口にしてくる言葉は軽いものだった。ため息をついてしまいながら、福沢はあたりを見た。依頼人が呆然と男を見下ろしている。
「まさか彼奴が私の命を狙っていたなんて……」
信じられないと言いたげな声。何処となく落ち込んでいる様子なのに太宰はちょっとだけ肩をすくめていた。ゆっくりと男に近づいて声をかけている。
「大丈夫でしたか」
「ああ」
縦に振られる首。怪我などは一切ないだろうが、それでも暫く動けなさそうなのに、太宰は周りを見渡す。呆然としている周り。事件解決したことはよかったが、これからどうすればいいのかという雰囲気が漂っているのに太宰が全体に声をかけていく。
「他の皆さんも大丈夫ですか。
解毒剤を飲んでいたとはいえ、毒を飲んでいたのですし、もし具合が悪いなどあればすぐに病院に行った方がよいでしょう。運ばれた病院には事情は説明して検査の準備や迎えの車も手配しております。今ならすぐに行けますので気になる方はどうぞ」
太宰が言うのにみんなはっとしたようにして胸を抑えたり、自分の体を見下ろしていたりした。大丈夫か、具合はとお互いに言い合っている。特に問題はなさそうだが、毒を飲んだと知ってしまえば気分から悪くなるのは当然。口を抑える者もいてみんな手を上げ始める
「お願いしてもいいか」
「私も」
にっこりと太宰は笑って頷いていた。
「どうぞ人数分手配してあります」
車は彼方です。案内するからついてきてくださいと太宰が歩き始める。ありがとうと何人も礼を言いながら太宰についていく。残されたのは周囲の片づけをしている警官と依頼人、そして福沢だった。
男が連れていかれたのを見つめながら、依頼人は私はどうしたらよいのでしょうかと福沢に聞いてくる。一瞬固まってしまいながら福沢は他にも何か仕掛けられているかもしれません。念のため送りますと答えていた。
にこりと笑う太宰の幻が頭の中浮かんでいた
「君のおかげで命拾いした。今日は本当にありがとう」
「仕事ですので」
依頼人の家の傍、まだ顔色は悪いものの気持ちも一時的に元に戻ってきた依頼人が太宰の手を握りしめて礼を言っていた。また今度礼をさせてもらうからと強い声で言われるのに太宰は気にせずにと首を振っているが、依頼人は強く首を振った。
「いいや、必ず礼をさせてくれ」
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