低い声がずっと続いていた。
 ベッドに横たわる太宰の耳元に顔を寄せて福沢が囁き続けている。太宰はぼんやりとした目でその話を聞いていた。何度かその目が閉じて開く。福沢の声が止む。口を閉ざし太宰を見て福沢はそっと笑った。眠いのかと穏やかな声が聞き、目元に手がのせられる。太宰はこくりと頷くと眠りだしていた。
 蓬髪を撫で起き上がる福沢は机に向き直る。



 太宰が倒れてから一ヶ月近く経った。
 太宰はある程度までは回復してきているが、症状がまだ安定せず退院できる目処は一切立っていない。それどころか退院できるかすら怪しいと言う有り様であった。だが太宰は特に困った様子はなかった。
 こんな生ぬるい状態で生き続けると言うのも馬鹿らしい話ではありますが、どう頑張ったところで元には戻りませんし、まともに生活できるようにはなりませんからね。それなら、まあ、どうでも良いんじゃないでしょうか。
 このままでも私に支障はありませんよ。
 そう言って笑っていた。
 その言葉に福沢は何も言葉を掛けなかった。良くなろうと言う気もなく、治療にも消極的な太宰に対して何かを言うこともなかった。
 ただ太宰の傍にいて、太宰の面倒を見ていた。
 太宰は数十分起きては数時間寝るを繰り返していた。福沢は太宰が起きている間に食事を取らせ、トイレに行かせ、それから体を拭いたりとしていた。やることがない時は太宰の傍にただいたり、調子の良さそうなときは少し話をしたりもした。とはいっても福沢が一方的に話すだけで太宰が何かを言うことはなかった。意識を取り戻してから太宰が話したのは最初の一回目と二回目。後はあの台詞を言った時のみだった。その時に太宰はこうも言っていた。
 ああ、どうも駄目ですね。上手く考えがまとまらなくて言わなくて良いことまで言ってしまいます。今の私には人を傷つけることしか出来ないようだ。それならもう何も言わない方がいい。
 その時、傍にいたのは探偵社のみんなだった。彼らが悲しそうな顔をするのを見て太宰は微笑むように顔を歪めて口を閉ざした。
 以来その口は一度も動いていない。
 僕たちのせいでと敦達は気に病んでいたが気にすることはないだろうと福沢は告げた。太宰はなんでもいいから話さなくていい理由が欲しかったのを何となく気付いていた。口を閉ざす事で会話することから逃げたのだ。
 そうして今は自分の世界にこもっている。
 眠る太宰の横顔を見つめる。
 眠っている顔は静かなもので何の苦痛も感じられなかった。安らかに瞳は閉じられ、その口許からは穏やかな寝息が吐き出されている。無垢な赤子のように太宰は眠っている。寝顔は子供のようだ。
 そんな寝顔を見ながら福沢はもうそろそろかと壁にかけられている時計を見た。ちょっとのことで乱れやすいものの太宰の睡眠時間にはそれなりの規則性があってそれを福沢は把握していた。
 ぴくりと太宰の瞼が動く。
 ゆっくりと開いていく瞼。そして目を開けた太宰は暫く天井を見上げてから緩慢な動きで部屋のなかを見渡す。福沢と目が合い、すぐにそらしていた。移動した視線が天井でとまる。今回はそこを定位置と定めた。横に座った福沢はそんな太宰をただ見ていた。
 今日の太宰は調子があまり良くないようであった。
 何度か起きているが福沢と視線があったのは数回だけ。どれもぼんやりとしており、目を開けていても起きていないような時が多かった。
 ぼぅと動かない太宰。
 その頬を撫でていく。
 太宰の目がぎょろりと動いて福沢を見た。その口許が小さく歪む。笑っているのだろうか。福沢が触れる。その一瞬だけ太宰は、笑うことが多かった。小さく口許を歪めて微笑む。昔見ていた美しいものとは違う。福沢よりも下手と言わざるおえない笑み。
 それでも福沢はその笑みをみるのが好きで、太宰が起きる度に太宰に触れていた。


「どうして」
 一口二口。夕食を食べた太宰が問いかけてくる。
 食べられないわけではないだろうが。なにぶん本人の意思が薄くここ最近の太宰は二口食べれば良い方だった。腕には点滴の管が付いていて、今はその管が太宰を生かしている。
 太宰の体は目覚めた頃よりもずっと細くなっていた。
 何だと福沢は太宰に声をかけた。太宰の目が福沢をみる。調子が良いようだった。その目に僅かな輝きがある。
「どうして私の世話などしているのですか。病院に任せてしまえばいいし、そもそも病院からだって追い出してもいいでしょう
 何もかもが無駄です」
 無駄なものをみるのは苛苛します。
 太宰の目は静かだった。その声も静かなもので何も感じさせることのない声が福沢に問いかける。
「無駄とは私が思っていない」
 問いかけに答える福沢は太宰を見下ろしていた。骨と皮だけになってしまったようにも思える姿。生きることを止めようとしている太宰は福沢の言葉に小さく口元を上げていた。ここ暫くみる笑みとそれは違うものだ。
 普段の笑みよりもずっとうまく笑えている。美しいと誰だって感じるだろう笑みを福沢は感情を圧し殺して眺めた。
「優しい貴方は虫さえも助けるのですね。それならばこんなところにおらずもっと別の所に行けばどうですか。助けを求めている虫は無数にいますよ」
 美しく笑う太宰の言葉。
 福沢は奥歯を噛み締めてその声を聞いていた。静かな声は太宰の感情を感じさせない。疲れたように太宰が目を閉じる。福沢はその手を伸ばしていた。
 あと少しで触れる。
 その時に太宰の目が開いた。じっと福沢の手をみるようにその目が動く。手は動きを止める。
 止めた方がいいと太宰の口が言った。
「今日は少し調子が良いのです。こんな姿になってしまっていると言うのに良くて、……僅かですが異能が発動しています。スプーン越しの短い接触では誰かに影響を及ぼせるものではありませんでしたが、直接触れれば貴方の異能が消えてしまう。
 だから今日は触れない方がいいですよ」
 福沢の手を見ていた目はもう瞼の裏に隠れている。
 ベッドの上、横たわりながらわずかに首を動かした体。揺れた蓬髪を見ながら、福沢はそうかと口にしていた。太宰からの声は何も聞こえない。目が開く気配もなかった。
 福沢の手は動く。
 そして太宰の頬をゆっくりと撫でていた。異能が消える。その感触が福沢にも伝わった。
 ぴくりと太宰の瞼が動いて、そして持ち上がっていた。隠れていた瞳が開いて福沢をみる。何でとその口が動いた。
「触れてはいけないと言うことではないだろう」
 ふわりふわりと福沢の手は太宰の頭を撫でていく。でもとその口が動く。みんなには後で謝っておくと福沢は口にしていた。だからと太宰の頭を撫でていく。
「こうさせてくれ」
 福沢が泣きたいような声でおとを紡いだ。何も言葉は返ってこなかった。


「今日はすまなかったな。何もなかっただろうか」
「いえ。謝ることではありません。何も問題は起きませんでしたから」
 夕方、太宰の病室で福沢と国木田が話していた。太宰を起こさないように小さな声で行われる話。太宰はベッドの上、穏やかな寝息をたてて眠っている。
 横たわっている体を国木田が見つめる。
「また、調子がいいときがきてくれるでしょうか」
「さあな。私には分からぬが、そうあってくれたら嬉しい。今後は太宰の調子が良さげなときは事前に連絡するようにしよう」
 ぽつりと国木田が落とす言葉。深く下がった頭をみ、福沢はゆっくり首を振っていた。その口からでていく声は少し優しい色をしていた。願うように眠る太宰を見つめている。
「はい。その時は敦や鏡花は中の仕事に回していつでも大丈夫なように整えておきます」
 頷く国木田の頭。国木田もまたじぃと、太宰を見ている
「すまぬな」
「社長が気にすることではありません。……誰も気にする必要はないです」
 静かな声で言う。その唇が噛み締められているのを見ながら、福沢は頷いていた。そうだなと口にしてそっと太宰から目をそらしていた。

 ぴくりと瞼が動くのを福沢は見ていた。ゆっくりと開いていく瞼。瞼の裏の目は何かを探すように部屋を見てそれからほぅと息を吐いていた。
「折角国木田が来ていたのだ。起きれば良かったのに」
 震えがちの声で福沢は太宰に向けて話す。福沢を一瞬だけ見た太宰はゆるりと首を振っていた。会う意味なんてありませんものとその口は話す。そうかと答えながら福沢は太宰の頬を撫でていた。



 それから数日、太宰の体調はあまり良くない日が続いた。
 目を開けていても殆ど反応しないような日が続いて、一時期はこのまま目覚めなくなるのではと心配したほどだったが、数日して太宰の体調は皮肉なものでまたよくなり始めた。
 福沢の声に反応を示すようになり、暗かったその目に僅かな輝きが戻ってきた。起きている間、口元には仄かな笑みが浮かんでいた。
 そんな日が数日続いた。

「今日は、調子が良いのですよね」
 太宰がそう言ったのは福沢が触れようとした直前だった。
 福沢が固まる。太宰は興味がなさそうにそっぽを向きながらもう一度調子が良いと繰り返していた。だからと太宰が言う。福沢はそうかと頷いてその頬を撫でていた。
 褪赭の目が丸く見開き、そして、福沢を見ようとした。だけど途中でその動きは終わってしまった。興味をなくしたように太宰は横を向いて目を閉じる。
 頬を撫でた手が頭に行き、その頭を撫でていく。
 異能が消えたのは分かっていた。
「……心配はいらぬ」
 撫でていきながら福沢は太宰に向けて告げていた。閉じられていた目が開いて、福沢を見上げた。すぐに横を向く瞳。
「今日はお前の調子が良さそうだったから、既に社には連絡してこうして触れても大丈夫なよう話しはつけてある。
 問題はない」
 福沢が声を抑えながら告げる。太宰の瞼が震えていた。わずかに見開き、そしてまた太宰の目が福沢を見た。今度はすぐにそらされることはなかった。
 動くことなく見つめてくる瞳。
 その口が開いた。
「何で……」
 それだけ言って閉じていく。何を問いかけたかったのか。それを言わないまま太宰は目を閉ざしてましまう。福沢は太宰の頭を撫でていた。
 そしてこうしたいからだと囁く。
 再び太宰の瞼が動いたが、それが開くことはない。閉じられている。したいまま、気が済むままに太宰の頬を撫でていた。



「それでは、その件はそういうことで頼む。それからもうひとつの件だが」
 太宰の病室。福沢は手にした書類を見ながら携帯で探偵社に連絡を取っていた。ペラペラと書類を捲りながら話していたが途中でその動きが止まった。何かに気付いたように振り向いた福沢。
 その目が褪せた瞳とあった。
 褪せた瞳がじっと福沢をみている。そっとその頭に手を伸ばして触れた。ふわふわと撫でながらすまぬが福沢は口にしていた。
「また後でかけ直してもいいだろうか。ああ。では。また後で」
 ぶつりと切れる電話。ツーツーと音がするのを耳から離して福沢は横たわる太宰をみた。太宰の目は驚いたようにずっと見開いていた。
 おはようと声をかける。
 太宰の唇がわずかに動いた。そしてどうしてと問いかけてくる。わなわなと震えていた口。どうしてと口にした後、一旦閉じてまた開いていた。
「社長はずっとここにいたのですか」
 はっきりと伝わる問い。
 福沢はふっと口元をあげて太宰に優しく触れていく。そうだと福沢が答えた。褪赭の瞳は揺れて、どうしてと口にする。どうしてわざわざそんなことをと。
「お前が大切だから。
 それ以外に理由がいるのか」
 福沢がゆっくりと答えた。
 見開かれた瞳。そのなかに福沢が写る。

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