「大丈夫か」
 掛けられる声。差し伸べられる手。無理はするなと言いながら抱き上げてくる腕。抱え上げながら頬に触れ汚れを指でぬぐい取りどこかに歩きだす。そのまま置いていってください。一人で帰れますから。強がった言葉には福沢は歩いていく。
「こんなお前を置いておけるわけないだろう。どうせ帰らずこの場で夜を過ごすのが分かっているのだから。そんなことしたら風邪をひいて明日動けなくなるぞ」
「大丈夫ですよ。明日の仕事にはいくつもりですから」
「別に仕事には来なくていいがな。しんどいのであれば一日ぐらい休め。お前が倒れないか心配だ」
「そんなにやわじゃないので心配しないでください」
 福沢の言葉には可愛くない答えを返す。そっぽを向いて顔を見ないのに福沢は口元を少しだけ歪めていた。

 そんな日の事を思い出しながら、太宰はあの頃のままであったのならよかったのにとそっと息を吐き出していた。あの頃のまま福沢から与えられる優しさのことなどどうでもよいと思えるようなそんな自分でいられたらよかったのにと。福沢からのやさしさがあの頃は鬱陶しいとすらも思っていた。
 それが一番良かった。
 大丈夫か。お前は思っていたよりずっと不器用だったのだな。もっと器用に生きてもいいのだぞ。もっと周りを頼れ。私は傍に居るよ。そう傷つくことばかり考えるな。お前はもっとお前が楽しく生きられるよう考えた方がいいな。周りのことなど忘れて居間は自分の事を考えていろ。大丈夫だよ
 思い出す福沢から掛けられ続けてきた言葉の数々。穏やかな声。優しい目。時折微笑んで言われた言葉は太宰にとって何時しか大切なものになっていた。大切で失いたくないもの。それを告げてくる口も、ともに向けられる目も。差し出される手も。
 ずっとずっと傍にあってほしいものになっていて、だからこそ傍にあってほしくないものになった。いつか手のひらから失われていくそんな未来が見えたから。
 自分のものであってほしいから告白しようと考えているつもりで太宰はずっとどうやったら自分が諦められるのか、何をしても無意味だと、失って当然だと思えるようになるのか考えていた。
 男で同じ同姓だから無理。いつかどこかの女に取られる。その前に諦めた方がよい。そう考えたけれど、諦められず、ぐだぐだと福沢を思ったまま。だから女になればいいと思った。いっそ女になってしまえば告白できる。そう思う裏ではどうせ女になんてなれない。もしかしたら薬はできるかもしれない。でも百パーセント体のどこかしらに異常ができる。動けなくなる場合もあるかもしれない。そうなったら誰かを思っているどころではなくなる。
 いつもの自分を保つのに必死になってそんな思いにかまう暇なく諦めることになるだろう。
 そうやって自分が諦めることのできる、手には入れようとすらも思わなくなる方法を探していたのに結局どれも無駄だった。
 女にまでなって体調も崩して、毎日生きているだけで苦しいというのにそれでも福沢の事を思ってしまった。太宰として何とか振る舞う。それだけで容量が一杯なのに福沢の事を考えては一喜一憂する。姿を見たら嬉しくなって、その目が他のを映すことに悲しくなって、話を聞いては会いたくなって、自分のものにならないことに悲しくなる。
 諦めたかった。
 手に入れるだなんて無理だ。馬鹿げた話だ。嫌いになってしまった方がいいと思えるぐらいに諦めてしまいたかったのだ。
 

 横になっていた太宰はゆっくりと起き上がった。何処かに行こうかと思った。何処にいくかなんて考えられてはいないけど、とにかくここでないどこかに行きたかった。
 そこは福沢が絶対に来られないような場所だ。会うことが絶対にできないような。
 そこまで考えて立ち上がろうとしていた体は止まった。布団の上にただ座り込む。それは嫌だなと思ってしまっていた。福沢に会えなくなるのは嫌だと。だけど、それでも
 考え込んで動かなかった太宰の耳に人の足音が聞こえた。玄関から入ってきた足音は真っ直ぐに太宰がいる部屋まで向かってくる。はっとしてもう一度布団の中に寝ころび直した。
 開く襖。
 太宰と福沢が呼びかけた。具合はどうだと聞いてくる声。布団をかぶり福沢とは反対の方向も向いているが、起きているのは分かっているようだった。答えないのに福沢が太宰の隣に座り込んだ。少しはよくなったかと聞いてくる。夕食は食べるか。何が食べたい。何でもいいぞ。薬とかはいるか。何か必要なものがあれば言ってくれ
 すべての言葉に答えないでいれば、福沢の声がやんだ。いなくなるかと思ったけれど、福沢が動くことはない。座ったままになるのに太宰は布団の中で息をひそめる。
 どれぐらい時間が経っただろうか。
 とても長いように感じた。
 十分とか二十分とかそんなものじゃなく一時間、もっと無言のまま過ごしていたように思った。
 いつまでこうしているのかと思う反面、すぐそばに福沢がいると言う事が嬉しくもあった。
 愚かだと思うのにやっと福沢が口を開いた。
 太宰と名前を呼んで、それで口を閉ざす。また何も言わなくなったけれど、今度の無言はそれほど長くなかった。唾を飲み込む音と共に福沢の声が聞こえる。
「少し確かめてみてもよいか」
 主語のない言葉。何の話だと布団が少し揺れる。福沢が腰を上げてその手を布団の中に入れてきていた。えっと見開いた太宰の目。手から逃れようと布団の中でもがいたのに、福沢の手は太宰をとらえて、その腰辺りを触ってから、上にまで上がってきていた。ぎゅっと胸元辺りを触れて、さらに服の下にまで手が侵入してくる。胸元をまさぐる手に太宰ははっと息を飲んだ。
 青ざめていく顔。唇が震えた。
 福沢の手が何をしようとしているのか太宰は気付いてしまった。胸元を触っていた福沢の手が下に向かう。それはより確かなものを求めていた。止めてくださいと悲鳴じみた声を上げて太宰は福沢の腕をつかんだ。
 バクバクと鳴り響く心音。それは体から外にまで漏れてしまいそうな元激しく大きかった。
「やはりか」
 太宰の力など福沢の前ではたかがしれている。それなのに止まった福沢の腕、そして福沢からこぼれていく声は呆然としたものであった。はっと乾いた声が後ろから聞こえる。それはまるで笑い声になり損ねたようだった。
「女になったのか」
 福沢から確実な声が聞こえて、太宰は息を飲んだ。体が震えるのに弱まった拘束を解いて福沢の手が胸元に触れる。
「ここに連れてきた夜からおかしいとは思っていた。痩せただけではない体格の変化。服などでいつもと変わらぬように見えていたものの骨格そのものが変わったようだった。
 まさかとは思っていたものの本当に女になっていたのか」
 福沢の震えた声が太宰に聞く。聞くというより自分に言い聞かせているようでもあった。ぎゅっと福沢の腕が太宰の体全部に回った。抱き寄せられるような形になるのにこんな時なのにどきりとした。
 どうすればと考え込むのに福沢は誰のせいだと聞いていた、
「誰に飲まされた。何をされた。何をされそうになった」
 問いかけてくる声は何かに焦っているように荒く早口になっている。まるで怒っているように大きい声なのに、感じるのは怒りではなかった。悲しみ、それよりも深い何か。後ろにいる福沢をつい見ようとするが、力強い腕に阻まれてみることはできなかった。誰に飲まされた。と同じことを問われる。
 勘違いをしているのかとも太宰は思った。だけれど太宰が答える前に福沢次の問いを口にしていた。
「……それともお前が飲んだのか。お前の意思だったのか」
 弱まった声。力なく震えて問いかけてくるのに太宰の目は見開かれて息を飲む。その後ろで福沢もまた息を飲んでいた。そうなんだなと確認してははと声を漏らす。笑おうとして笑えなかった声。
 腕の力が強くなった。
「どうして飲んだ」
 問いかけてくる声は震えることすらもうできていなかった。何とか喉から出ることだけで一杯でそれ以外何もできていないのにどうしてと繰り返す。ふぅと深く息を吸い込んで福沢の口が開く。
「好きな人ができたからか」
 動けないのに福沢はそうなんだなと声をかけてくる。浅いところで息を繰り返しながら福沢が嗚咽を漏らした。私のせいかとそんな声が聞こえてくる。えっとようやっと落ちた太宰の声。
 それを恐らく福沢は聞いていなかった。聞こえてくるのはすまなかったという掠れた謝罪の声。泣き出しそうだなんて感じるよりも前に福沢は泣いていた。背中に濡れた感触がある。
 私のせいでと福沢は呟く。何をと問いかけることもできないのにもっと早くと福沢の声が聞こえた。
「もっと早く、伝えておくべきだった。ちゃんと言葉にしておくべきだった。お前は気付かないようにしているように思えたからそれならばもう少しだけ待っていようと思っていたんだ。お前が受け止められるようになるその日までは待っていようと。
 だけどそんなこと考えずに最初から伝えておくべきだった。お前の思いはずっと分かっていたのだから」
 何の話をしているのだと太宰はずっと思っていた。理解できない話。福沢の言葉がまるで異国の言葉で話されているように理解できなかったのに、福沢が離れて、それで無理矢理に正面を向かせられていた。
 福沢の銀灰の目が飛び込んできた。
 涙で濡れた目は濃い色となって太宰を射抜いた。
「好きだ。太宰。お前がずっと前から好きだった」
 目の前のもの全部が理解できない何かに変わった。福沢どころか福沢越しに見える電灯や天井すらも分からないものになり果てるのに、太宰は何処か真っ白な場所に迷い込んだようだった。
 えっと声を漏らして福沢を見つめるのに、福沢の目は太宰を射抜いては好きだと音を紡ぎ続けている。
「好きだった。だがお前が自分の思いに気付きたくないようだったから言わなかった。今はまだいい。いつか気付けるようになる日が来る。お前が気付いてもいいと思えるようにお前の傍に居てずっと支えていくそのつもりだった。
 もしかしたら気付いているのではないか。そう思うときもあったが言わなかった。気づいていても受け入れられているようではなかったから、私が言えばお前を怖がらせてしまうとそう思ったから。
 それがこんなことになるなんて。すまない」
 太宰の体がぎゅっと抱きしめられた。福沢の胸元に閉じ込められるのに息さえできなくなりながら、太宰はなんでとそれだけを聞いていた。どうしてと隙間から見つめようとするのに分かるさと福沢は答えている。
「お前が私を思ってくれていることなど分かる。
 ずっとお前を見て来たのだ。お前の傍に居続けた。だからお前が見つめる世界が変わっていくのも、お前が私をどんな思いで見つめているのかもすぐに分かった。
 私だけを見つめてくるその目が私は愛おしかったのだ。
 太宰。好きだ。愛している」
 少し離れた福沢が抱きしめながら太宰を見てくる。濃い銀灰が見つめてくるのに太宰は息を飲んだ。
 じっと太宰だけを映してくる目。
強い思いが籠るその目が太宰は怖かったのだと気付いた。
その目に見つめられて、その目に溺れて、その目に捉われる。
飲み干さんとするその目にすべて奪われて、それ以外全部駄目になりそうで。その目が、福沢がいなければ生きていけないようなそんな何かにされてしまいそうで。
愛している。
 福沢の声が囁く。逃げたいと思った。だけど逃げられるような強さはなくて、今目の前に与えられたすべてに縋りたかった。それだけでいいと。これだけでいいと手を伸ばした。
 福沢さえいればそれでいいと。だけど失えば。
 湧き上がる恐怖は飲み込んで。ぎゅっと福沢を抱きしめた。



 ゆっくりと目を開けると福沢の姿があった。抱きしめられているのにじっと太宰は福沢を見つめる。離すのが嫌でずっと抱きしめあってそして知らぬ間に眠りに落ちていた。同じであろう福沢はまだ眠っているようで、太宰の手が福沢の頬に回る。
 触れるのにぴくりと動く瞼。うっすらと開いてから太宰の名前を呼ぶ。太宰を見つめてくる銀灰を見る。
「体は大丈夫か。体力は何処まで落ちている。頭など傷んだりするのか」
 しばらく見つめてから福沢が太宰に聞いてきた。口を閉ざした太宰は曖昧に笑うのに背に回ったままの福沢の腕に力がこもった。
「与謝野に相談した。異能もなく人の性別が変わることなどあるのかと。そんなのまずないだろう。もしありえたとしてもその場合は体には大きな負荷がかかっている筈だ。まともに動くのも難しいんじゃないかと。
 その確認を早急にすべきだったのにすまなかった。自分を抑えられなかった」
 聞こえてくる声は後悔したもの。また泣きそうな気配に太宰は大丈夫ですよと言っていた。一応仕事はできますし、日常生活困るほどのことはありませんから。仕事のことは良いと福沢から聞こえる。
「探偵社にお前は必要だ。分かっている。だけど今はそんなこと良いのだ。ただお前に苦しい思いをさせていることがつらい。
 だから本当のことを言ってくれ」
 福沢の目が見てくるのに太宰は時間の問題だなとその口を開いた

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