伍
「福沢さんと別れたの」
はっ? と声がでたことすら坂口は気付かなかった。突然太宰に呼び出されるのはいつものこと。暇じゃないんですけどと三徹目の体を引きずっていけば聞こえた言葉。それはまた何時もの愚痴を聞かされるのだろうと思っていた坂口の予想とは大きく外れたものだった。処理できずにフリーズする。太宰がもう一度同じことを言う。
「福沢さんと別れたんだよ」
はっとまた同じような声がでてから坂口はやっと何でと多少はましな言葉を言えた。だかそれはかなりふるえたものになっていた。確かに色々やらかしてはいるが別れる様子なんてなさそうだった。どう見ても福沢さんは太宰君の事ベタぼれだったじゃないですか。なのに何がどうしたら。何をやらかしたら……そんなことに。
そう考えてからいや、違うのだと坂口は思い直した。やらかしたはやらかしんだろうがそれで嫌われたとかではなく
「だって私女の子なんだもん……。福沢さんとは最初から付き合えなかったんだよ」
太宰君の方が振ったのだろうと。
やっぱりかと太宰を見る。女の子なら普通は付き合えるんですけどねと深いため息をつきそうになってしまった。机の上で泣き出しそうな太宰があのねと言う。
「森さんにあったの」
成る程とその言葉だけで坂口はすぐにそう思ってしまった。また何か余計なことをやってくれたのか。頭を抱えるのに坂口は携帯を取り出し、太宰に見えない位置で最近良く連絡を取る尾崎に連絡していた。手綱をしっかり握って置いてくれ。そう思い飲み込みきれなかったため息をつく。
「綺麗なドレス着せてきてさそろそろ女の子であることを受け入れるべきだって言われたんだ」
そのときの事を思い出して太宰が鼻をならした。
突然拉致され無理矢理着せられたドレス。似合ってるなんて大袈裟なまでに誉められて君は女の子なんだよなんて太宰が否定し続けたい事実を突き付けてきた。男のふりをするのも良いけど、それは何時までもできることじゃない。そろそろ止めないとね。君だって一生一人きりで生きる訳じゃないだろ。誰かと共に暮らすようになったとき、性別を隠し続けるなんて絶対できやしないよ。気付かれて離れられるのが落ちさ。そうはなりたくないだろう
痛いところをつかれる。そのとき太宰は何も言い返せなかった。
「森さんの話聞いてると確かになって思っちゃったんだよな。一生自分の性別を隠して付き合うことなんてさすがに不可能でしょ。触れたいなんて思うようになればそれこそ地獄だ。それならそうなる前に別れた方がいい」
「本当の事言えば良いんじゃないですか」
「……無理だよ。性別教えたら嫌われるもの。こんな一番大事なことを隠してたなんて絶対恨まれるし、何より福沢さんは男が好きなんだから」
机に伏せる太宰に坂口は思ってることを口にする。それだけですべてうまく行くと思うんですが。そういう思いだったけど太宰は緩く首を振った。その唇が小さく尖る。その姿に坂口はため息をついた。これは一度ちゃんと言うべきなのではないだろうか。決して福沢はゲイなどではないと言うことを。悩みながらまあ、それは任せてしまえば良いかとちらりと後ろをみた。
太宰の細い指が置かれたグラスに振れる。つんつんと冷たい水滴に振れて泣き出しそうな顔をした。
「それに、言いたくないもの。
嫌われるのが嫌とかそんなことじゃなくて私が言うのが嫌なの。女であることを知られるのが怖い」
「太宰君……」
ならなんで僕にはあんなあっさり教えたんですか。僕が知っていると思った理由は何ですか。言いたくなりながら坂口は口を閉ざす。言っては行けないことだと分かっていた。
グラスを指先で撫でる太宰は暗い顔をしていた。なにも見ていないような瞳でなにかを睨み付けている。
「女なんて性は醜悪以外の何ものでもないよ。女だって知られるだけでどんな目に遭うか。女だからってだけでみんなが私を下に見てくる。私を都合の良い道具として見てきて、それで……。
女は子供を産めるからね。男も産めるけど女用意して腰を振らせてて考えたら、自分の腰振るだけですむ女はやっぱり楽なんだよね。子供が親と似たような異能になることはあるというし……
女なんて嫌いだ」
ぐらりぐらりとグラスが揺れた。太宰が指先でつつくグラスは今にも倒れそうな不安定なバランスを保っていてまるで太宰の心境のようだった。かけられる言葉もなく坂口は少しだけ太宰からはなれた。僕はまあ、ただの飾りにでもなりましょうと太宰を見守る。
かつりと足音がひとつ響いた。
「それでも私はお前が好きだ」
低い声が二人だけだと思っていた場所に響く。それは福沢の声で。太宰は肩を震わせ後ろを振り向いた。大きく見開く目。何でとその口が開いて逃げようとした体が椅子から崩れ落ちかけていた。そんな太宰に福沢が近付いていく。
「お前が自分の性を嫌っていることは知っている。だけどそれでも私はお前が嫌いなものを含めてお前が好きだ。太宰治を愛しいと思う」
「いつ、から」
福沢の目がまっすぐに太宰を見つめそれからふんわりと目元を緩ませていた。お前が大切なのだと一言一言音にのせる。太宰は恐怖でひきつった声をだす。怯えた目で太宰が福沢を見る。ほんの少し目元を歪めながらも福沢は優しい顔をしようと勤めていた。
「最初からお前が女であることには気付いていた。ただお前が知られたくないことを分かっていたから今まで言わなかった。言えば傷つくと知っていたから。すまぬな。最初から知った上で私は女のお前が好きだった。
だけどお前に酷いことをするつもりがなかったことを知っておいて欲しい。私はこれから先もお前がずっと男のふりをしていくのだとしてもそれで良いと思っていた。無論言って欲しいと思う気持ちはある。お前が私に言っても良いと、私になら言ってもいいと思える日が来てくれたらとそう思いもした。
だけど、ただ手を繋ぐだけのような些細な触れ合いだけでも私は満足していた。これから先もお前がそれ以上先を望まないのであれば、それで満足する。例えば女だと言ってもらえたとしてもお前が望まぬ限りこれまでと同じ距離感で付き合っていくつもりだった。
お前に酷いことをするつもりだけは絶対になかった。お前には優しいものだけを与えていきたいとそう思っている」
ゆっくりと福沢が言葉を紡いでいく。滅多にないほど雄弁に語る福沢はずっと太宰を見ていて、恐る恐るその頬に手を置く。優しく振れる手から太宰は逃げようとはしなかった。ただ福沢を見つめてはその口許を歪めている。
「好きだ」
福沢が太宰に向けて告げた。太宰の肩が跳ねる。
「お前が怖いと思うなら答えてくれなくて良い。もう一度振ってくれても構わぬ」
離れていく手。福沢は太宰を見ている。
「今すぐ答えなくとも良い。私はずっと待っている。
もし振られたとしてもすぐには諦めぬ。お前に好きになってもらえるよう、お前が全部をさらしたとしても大丈夫と思えるようにこれからも努力していくつもりだ」
だから太宰あせる必要はない。
こくりと太宰の首が縦に動いた。福沢の手が最後に太宰の頭を撫でてその場から去っていく。坂口にありがとうと太宰を頼むの言葉を残していく。坂口は横目で太宰を見た。俯いた顔。でも横から見える頬は赤く口許は引き結ばれてはいるものの何処か弛んでいる。
「太宰君、悪い子にはならないでくださいよ」
思わずいってしまった。そうすると無理だよ。悪い子になっちゃうと声が聞こえてきて坂口は深いため息をついた。
「ま、あの人も相当ずるい人ですから良いのかもしれませんけどね」
「ね、何だかんだ言ってたけどあの人私に本当の意味で振られるなんて思ってないんだよ。私に好かれてる自信があるの」
「鴎外殿。太宰に男のふりを止めるよう言ったそうじゃの。一体なんのつもりじゃ」
「ああ、その件か……。いや、なに最近太宰君と福沢殿の仲がどうにも怪しいからね。手を打っておこうかと思ってね。あ、もちろん福沢殿がゲイなんて勘違いはしてないから。その目は止めたまえ。
ただ福沢殿はノンケではあるけどいざとなれば性別など気にせず踏み込んでいくだろう。だからそうならないように太宰君を結婚させようと思ってね。性別は気にしなくともそう言ったことは福沢殿はかなり気にするからね。決まった相手のいる者に手をだすことは絶対にしないだろう。いくら気持ちが通じあっていたとしてもだ。その為にもまずは太宰君に女性だとカミングアウトして欲しいんだよね。そうでなくとも結婚するよう準備は進めているけどね。あ、でも安心したまえ。私だって太宰君は可愛い。ちゃんと太宰君に手をだすことが絶対にない、それこそゲイの男を用意しているよ」
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