「ねえ、もう来ないでくれないかい」
 土曜日。何時も良守と待ち合わせる場所。
 太宰は良守が来た瞬間、挨拶の言葉もなしにその言葉を口にしていた。余計なこのを話す余裕はなかった。何かを話してしまえば流されてしまいそうで。瞼の裏に五人と一匹の影が浮かぶ。朧気な姿はでも最初の頃よりずっと濃くなり確かな輪郭を描いていた。顔は分からない。それでもきっと会えば分かるのだろうと思わせる。
 彼らが太宰を迎えいれるようにそれぞれ手を差し出してくる。鼓膜を震わせるように声が聞こえた。覚えてないはずなのにはっきりとその声は太宰を太宰が知らなかった名で呼んで。
 唇が震えた。
 喉奥から何かが出ていこうとするのを抑え込む。
「え?」
 何を言われたのだろうかと目を見開いて口を開けた理解できないことが分かる顔を良守は見せる。壊れたブリキのようにその首が横に揺れた。嘘だろと聞き間違えたと自分に言い聞かせているのだろう姿。
「私は君の兄ではないよ」
 一つ音を出す度に動かなくなりそうな心臓を動かして正常な呼吸を保つ。指先がぴくりと意思とは違う動きを見せようとするのに体全体に意識を向ける。自分の体すべてを制御しようと……。
 丸くて大きな目が溢れ落ちそうな程大きくなって太宰を見つめる。そのなかに写る太宰が静かで何もない顔をしていないことを確認して僅かだけ息をつく。一回二回ばれないように深呼吸。
 瞼の裏にはまだ家族の姿がある。
 それだけならどれだけ良かっただろう。でもそれだけでないことを太宰は分かっている。家族のその奥には。
 思い浮かべたせいで見えかけたそれを奥に押し込める。瞼にいる家族の姿も銀色の姿に無理矢理に塗り替える。決めたのだ。あの人だけでいいと。それ以外何も求めないと。あの人が与えてくれる優しささえあれば他のものはなくて大丈夫だと……。
「な、何言って……、兄さんだよ!兄さんのこと間違ったりしないし、兄さんだって」
 声をあらげて良守が叫ぶ。目には大きな涙の塊ができている。震えて今にも溢れ落ち泣き出してしまいそうな……。小さな子供が瞼に……、銀色を思い出す。浅くなりそうな呼吸をこらえて……。
「覚えてないのだよ。覚え出せないのだから私は君の知る兄じゃない」
 出来る限り低い声を出す。瞳に移る目が冷たい目であることを望みながら。こんなに演技は下手だっただろうかと己を愚かに思いながら見下ろす。一滴涙が溢れ落ちた。もうわんわん泣いたりしないのだと少し寂しく思う。その気持ちをかき消した。
「それでも……」
「もうこないでくれ。会いたくないのだ」
 冷たい声を出す。良守の姿を視界から消す。答えも待たずにあるき出した。そうしないと耐えられなかった。
「俺来るから、絶対来るから!」
 大きな声が聞こえる止めてくれと思うのに別の思いも沸き上がって泣きそうだった。


 冷たい目で相手を見下ろす。冷たい目になっているだろうかと不安になるのが信じられなかった。今でも自分が自分で信じられない。ここにいるのは自分でないのではないかと、あの日から自分は別の人間になってしまったのではないかとそんなバカなことを思いながら生きている。
「もう来ないでって言ったのに何でくるんだい」
 低い声を出す。相手を威圧するような冷たい声。顰められ睨み付ける銀灰の瞳。対峙する相手を気絶させるような姿を思い起こしてそうなるように。嘗て、マフィアだった頃を思い出したら弟に見せようとするとどうしても出来なくなってしまうから。
「……」
 俯いた黒い頭。旋毛が見える。昔もそうだった。昔もよくこの姿を。考えてしまうのを押し込める。
「こないでくれ」
 俯いた下の顔は泣いているのだろうかと思う。浮かぶ感情を圧し殺して声を紡ぐ。これで最後にしようと決めて、踵を返そうとするのに良守がばっと顔をあげた。大きい目には予想通りうっすらと涙がたまっている。だけどそんなものも気にならないほどその目は意思のこもった強い色を見せていた。一瞬その目に怯んだ。
「じゃあ、何で兄さんここにくるんだよ」
 そして、強い音で言われた言葉に息を飲んだ。
 太宰は良守と会うとき何時も次の約束はしなかった。約束をしてしまえば耐えられなくなると分かっていたから。ただ同じ時間同じ場所にいた。来なくなってもいい。来なくなってほしいと思いながら。それでも良守はき続けて太宰もまたここに居続けた。
 ここにくるなと言ったあの日以降だって。
「ここにいるってことは待っててくれてるんじゃないのかよ」
 良守が怒鳴るように言うのに太宰は咄嗟に言葉を返せなかった。どんな言い訳を重ねても嘘にしか聞こえないことが分かるから。
「そんな……」
 それでも何かを言おうとして言えなくて唇を噛み締める。もう会いたくはない。それは本音だ。間違いない太宰の……。
 だけど……。
「怖いのだよ」
「えっ……」
 自然と太宰の口から言葉が出ていた。誰にも言いたくなかった。何時も来てくれる弟には言えないと思っていた。それでも言わない限り決別ができないと思うから。決別するために。ごめんねと謝った。君をきっと泣かせてしまうね。酷く落ち込ませてしまうねとそれでもう会えないのだと。
 真っ黒な影が幸せの後ろにあるかぎり太宰は手を伸ばせない。
 こんなにも渇望するのに。
「少し場所を移そう」


 最後に会う場所として太宰が選んだのは太宰がすんでいた探偵社寮だった。今日は誰もいないことを知っていて、ボロに見えて安全対策がしっかり取られているから選んだ。きいと自分の部屋の扉を開ける。長らく開けてなかったわりには埃一つ落ちていなくて綺麗な机の前に良守を座らせることが出来た。台所に立ち棚の中を見る。中にあったお茶の葉でお茶をいれ、煎餅を差し出す。長い話になるだろうと。
 良守の目はじっと太宰を見ていた。部屋の中を見渡すことも瞬き一つもせず太宰を見つめる。その目に穴が開きそうだなんてそんなことを思うことも出来なかった。
 目の前においた湯飲みを手に持つ。良守の前においたのと揃いの湯飲みは色だけが違う。ほんのり青みがかった湯飲み越しに伝わる熱に別のものを思い出す。
 触れてくる柔らかな感覚。強く握り締めてくれる固い手。
 恐怖を唾とともに飲み込んだ。震えそうになりながら真っ直ぐ良守を見つめる。
「ねえ、」
 開く口が重い。
「……力を無尽蔵にため、例え肉体が消滅しても甦る存在がいると言って君は信じるかい」
 言葉の途中何度も口を閉ざしそうになった。まだ序奏にも満たない話でもういいたくないと逃げ出したくなる。ぎゅっと瞑りかけた目を見開く前で、良守の目が丸く見開かれていた。唇が太宰以上に震えている。
「それって、たまぐら……の」
 ひゅっと太宰の喉が音をならした。空気を飲み込み喉がつまる。ああと言う言葉さえも出てこなかった。ことじゃないよな良守の声が遠く聞こえない。
 そうだ。
 太宰の中に言葉が浮かぶ。
 そういっていた。
 記憶が形を作る。

「治守。今日はお前に言わなければならないことがある」
 大きな屋敷、その中にある結界術の修行用の道場。そこで幼い太宰と白髪の男、祖父が向かい合っていた。
 真剣な目をした男。正座をした足の上に置かれた拳が強く握りしめすぎて細かく震えていた。
「お前は賢いからもう気づいているかもしれんが、……普通の子供ではない。とても強い力を持った、人の理から足をはみ出した存在だ」
 祖父の言葉に太宰は驚いたりはしなかった。ただ変わらぬ目を祖父に向けてああ、やはりそうなのだと思うだけだった。そんな太宰に祖父はお前は魂蔵と呼ばれる存在だと絞り出すような声で告げてくる。泣き出しそうな声。その声を聞いても太宰はなにも思わなかった。
「自身の事だ。お前は分かっているだろうが、魂蔵と呼ばれる存在はいくらでも、それこそ無限に力を蓄えることができる。その力を持って強力な術を使うことができるだろう。だが本当に恐ろしいのはそれではない。恐ろしいのはその再生力。魂蔵は蓄えた力がなくならない限り例え肉体のすべてが灰になろうとも再生することができる」
 恐ろしい話をされているのだと理解しながらも太宰は恐怖することはなかった。とても恐ろしい話だと解りながらそれでも変わらぬ目をしていた筈だ。悲しげに祖父の目が揺れる。
「やはり恐怖を抱かぬか。それでもいいのだろうな。寧ろ今はその方が……。だがもしお前が恐怖を抱くときが来たとしたらそれは……」
 祖父の手が太宰の肩を掴んだ。その手は強かった。顔が近い。
「治守、お前は強くならねばならん。烏森を守る使命の為だけではない。お前自身を守るためにお前は強くならねばならん。
 お前の存在はとても特別なものだ。
 こうは言いたくないもののお前の力は人には余るものだ。そしてその力を狙い妖や術者、邪な願いを持つものがお前を襲うだろう。そんなものに捕まることがあればお前は……」
 話す声に合わせて少しずつ肩を掴む手は強くなっていた。強く肩に食い込むほどに。痛いと思いながらでも痛いとは言わなかった。今は言うときではないと太宰ですらわかっていた。
「私や守美子がお前を守る。お前の傍には式紙をいつもつけて、何かあれば駆けつけられるようにしている。だがそれだけでは駄目なのだ。それだけではまだ足りないのだ。お前を守るためには……
 お前自身が強くなれ。
 お前は守美子と同じでわしには到底理解できぬ所にいる。お前であれば強くなれる筈だ。だから」
 強くなれ。
 食い込む指も腕も震えていた。
 今も顔は覚えてない。全体の輪郭だけははっきりとしているもののそれ以外は曖昧で殆ど分からないのにその時の表情も声も全部浮かぶ。
 肩を掴む手の強さ。痛み。全部。
 痛みとともに祖父の言葉はあの頃の太宰にすら刻み込まれた。
 だけど。

 痛かった。熱を持ち出しそうな程捕まれた肩は痛かった。でもその痛みを容易く越えるほどに腹を貫かれるのは、全身を噛み砕かれるのは、高熱で炙られ灰になるのは、胃酸にまみれ溶けて消えていくのは…………痛かった。
 痛く、とても痛く太宰の中に刻まれた。

 恐れたことは起きてしまったのだ。そして太宰に恐怖を植え付けた。

「そうだ。私、魂蔵だったんだ」
 脂汗が浮かぶ。思い出した言葉。記憶とともにどうにか封じ込めようとしていた痛みを一度に思い出してあげそうになった叫びを気力だけで押さえ込んだ。動悸が激しい。呼吸を整えようとするのに上手く息ができない。嫌だとそんな声がでてしまいそうだった。
「え、そんな! だって」
 良守が驚いた顔をして太宰を見つめる。信じられないと信じたくないと身を乗り出しあの時の祖父のように近い位置にいるのに太宰は上手く認識できなかった。涙はでていない。そんなものを太宰は流さない。だけどパニックに陥りかけている脳は上手く目の前にある光景を認識してくれなかった。
 荒くなる息を何とか口を閉ざし呼吸を止める事で収める。心拍を正常に戻そうとするもののそれには酷く時間が掛かりそうで、目の前にいる良守を認識した太宰は諦めた。まずは話をするのがさきだと自身言い聞かせる。
「魂蔵と言えどその力は無限じゃない。何度もそれこそ何十回もその力を尽きるまで殺されたら死ぬことだってあるんだよ」
「……」
 見開いたままの目が太宰の前で震えた。恐ろしい話をされるのに聞きたくないと言うように首が振られる。言いたくないとまた太宰も思った。弟を傷付けたくはなかった。でもそれ以上に話すことで記憶を思い出したくなかった。話す度浮かぶ記憶が怖かった。
 それでも話すため湯飲みを握り締める。まだ仄かに暖かい湯飲み。どれを買うか悩んだとき揃いにするかと言ったのは相手の方だった。滅多に来ることはない。寧ろほぼ来なくて……それでも買ったのはお前の家に私のものがあると言うのはお前を独占できたようで嬉しい。それが揃いのものなら尚更と普段見せない照れた顔で普段なら言わない言葉を言ってきたあの人の言葉があったから。その時渡した合鍵は太宰が部屋にいつかなくなった今も相手が持っている。
 青の方がお前らしい色だろう。今でもその言葉を理解しきれていない。それでも嬉しかった。武骨な手が湯飲みを持つ姿に泣きたい気持ちを抱いた。
 ほうと心が落ち着く。手のひらから伝わる熱はあの人のものだった。
「私は昔、魂蔵だった。でももう力は殆どない。良守は幼かったから覚えてないだろうけど昔は本当に強い力を持っていたんだ。それこそ無限と思えるほどの」
「そんな……」
 わなわなと良守の唇が戦慄く。震える目。力が抜けたように畳の上に座り込む。
「魂蔵も何度も死ねば力を失い死ぬ。……私は後数回、下手したら一回死ぬだけで死ぬだろう。
 だとしたら私は一体、」
 腹を貫いた無数の蔓。貫かれながらも体は再生しようとして肉が蠢き何度も何度も同じ場所が切り裂かれていく。口の中から無理矢理中に入り込んだ異物は胃や腸、体の内部あらゆる所で大きくなって内側から肉を切り裂く。切り裂かれた場所はすぐに再生し異物を中に閉じ込める。閉じ込められた異物はまた肉を傷付けて……。
「どれだけの数、死、……殺されたのだろうね」
 燃え盛る炎が肌を焼く。灼熱に焼かれながらも体は再生しようとし、皮膚が肉が戻っていくが焼かれる速度の方が早くやがては灰になる。大きな口が体を飲み込み鋭い牙が肌に刺さる。再生しても再生しても骨ごと噛み砕かれて。
「……覚えてない。思い出したくもない」
 また呼吸が荒くなりかける。脳裏に浮かぶ光景はその時の痛みまでも鮮明に太宰に思い起こさせようとする。今は何もない。良守と二人。太宰を傷つけようとするものはいない。胸にはなにも刺さっておらず、肌は焼けてない。妖の口のなかでもない。なのに全身が痛む。
「兄さん」
「でもね、少しずつ思いだしかけているのだよ」
 良守の声。それにだけ意識を向けようとする。意識を向けられたらと思うのに体を襲う痛みの方が強くて……。
「大きな犬の妖に噛まれて死んだ。火にくべられて死んだ。無数の蔓に貫かれて死んだ。……少しずつ死んだときの光景を思い出し始めている。魂蔵持ちはね灰になっても蘇るのだよ。そして灰になるまでがとても痛い。気を失ってしまえばいいのに、どんな傷をおっても失えないのだ。まず脳が甦り痛みを伝えてくる。噛み砕かれても切り裂かれても全ての痛みを……」
 思い出す光景を痛みを少しでも感じたくなくてなくしてしまいたくて話す声が早くなった。自分ですら何をいっているのか少しの間分からなくなって良守が泣いているのに少し我に帰る。
 良守は泣いていた。
 昔のように激しく泣きじゃくるでもなく静かに涙を流して泣いていた。受け止めきれなかった感情が勝手に涙を流していた。
「ごめんね。君にする話じゃなかった……」
 思い出す記憶に押し潰されそうになりながらそれでも兄としての顔を作った。そんなのとうわ言のように良守が呟く。
「少しずつ思い出したくもないのに思い出し始めている。それが怖い」
 叫びだしそうな程。
 そしてその記憶がまだすべてではないことが。
「君と話していると思い出すんだ。父さんと一緒に料理をしたこと。父さんと父さんの小説の話をしたこと。爺さんと碁をしたこと。修行したこと。兄と学校に行った時のことや君と初めて夜の仕事に出たときのこと。朧気だけど少しずつ家族の記憶が私のなかに戻るのに思い出したくもない記憶も一緒に思い出していく」
 家族の記憶は優しい色をしている。誰かに愛されていたことなどないのだろうと思っていたのに、それとは真逆なほどに家族に愛されてまた太宰も家族を愛していた。
 その優しさを思い出す度、たくさんの幸せが太宰の胸を満たす。マフィアの頃は知らなかった。探偵社に入り初めて知り気付くことのできた感情。それが今までになかったほど沢山溢れて幼き頃のその幸せを全て手にいれたくなる。
「ねえ、怖いよ」
 優しい記憶が浮かぶ。暖かな光景が広がる。だけどそれはすぐに黒い影にかき消されていてしまう。優しさよりも痛みが強すぎる。
「思い出したくない訳じゃない」
 むしろ思い出したい。強くそう願う。だけど
「君は私の弟で私には家族が居た。その事を理解して家族の面影を思い出して……、私は苦しいけれどそれでも、嬉しかった。思い出したいってこんな私でも思ったのだよ。
 でもね思い出そうとする度、思い出したくない記憶のことを思い出しそうになる。脳裏にあの日の記憶が浮かんで……
 思い出したくないのだ。思い出したくなんて……」
 優しい家族の記憶。だけどその奥には何度も死んだ、殺され続けた日々の記憶が埋まっている。
 それを思い出すことはできない。恐いじゃない。できない。思い出したら太宰は……。
 今思い出しているのは全て欠片にしか過ぎない。痛みも恐怖も全部朧気な記憶の欠片。家族の顔が形しか見えていないようにそれらもまだ形だけ。そして思い出した記憶は半分にも満たず、思い出しているよりも何十もの数太宰は殺されている。
 それら全てをもし思い出す日が来たら……。
 太宰は知っている。知ってしまった。優しい記憶を思い出したとき、知ってしまった。太宰が記憶を消したのは己を守るためなのだと。抱えきれない痛みと恐怖から逃れるために優しく大切ないとおしい記憶も犠牲にしたのだと。
 だからその記憶を思い出したとき痛みもまた思い出す。
 なくした記憶は封印なのだ。太宰を壊す記憶の封印。
「兄さん……」
 涙がボタボタと机に溢れ落ちた。小さな海が机の上に出来るのを眺める。
「ごめ、俺が、……俺のせいで」
「君は悪くないよ。君と話すのは楽しかった。私を見付けてくれて……嬉しかったよ」
 思い出すべきではなかった記憶は良守とさえ出会わなければずっと思い出すことがなかったのだろう。出会ったとしてもあの一時だけで終わっていれば太宰は家族の優しさを知らずすぐに忘れてしまえた。
 その事がわかるから良守は涙をこぼす。ごめんと何度も言葉を口にする。悲痛な目が机を見ていた。顔をあげられる筈もない。
 太宰からは優しく柔らかな声が出た。
 痛みの記憶が太宰を襲う。



 本心だった。知らないままの方が幸せだった。それでも知らなくて良かったとは思えなかった。
「……ごめんなさい」
 良守の声が耳に響く。これが良守の声を聞く最後になるのかと思うと悲しかった。せめて思い出すのはもっと良守らしい声が良かったのに。
「もう君には会えない」
「……」
 声は聞こえなかった。










部屋の前に誰かが立つ気配がしてびくりと肩が震えた。爺ちゃんか父さんか。どちらにしても会わす顔がなく頭からすっぽり被っていた布団をさらに強く被り直した。濡れた感触が手に広がる。
「良守どうしたんだい。何か……」
 ああ、父さんだったかと口から細い息が出る。父である修史は治守のことが好きだった。子供の頃は良く良守が分からない話を治守としていた。修史の小説の話だったらしい。治守は毎日のように修史の本読んでいた。
『面白いの?』
『読むかい』
 幼い頃そんな治守に問いかけたことがある。答えの代わりに差し出された本には漢字が沢山書かれていて読めなかった。
『こんなの読めないよ』
『……そう、なの』
 んーーと暫くの間治守の動きが止まった。黒い目で良守を見つめながらそうだと薄く声をあげる。
『じゃあ、読んであげる』
 良守の手から本が離れ治守に渡る。表紙と一頁目を捲った治守は静かな声で音読をし初めて。分からない言葉も多く、そして話の内容もさっぱり理解出来なかった。面白いの? 読み聞かせている途中の治守に聞く。治守はなにも答えず良守を見てそれから読み聞かせを続けた。むうと口を尖らせる。もう本など聞きたくなく何処かに行ってしまいたかったが良守が言った手前言えずにこれも修行だ。修行だと己に言い聞かせていた。そうしているうちにいつの間にか寝落ちしてしまっていて。
『良守が面白いのかって聞いてきたから……』
『だから読み聞かせをしていたの』
『うん。僕の感想より読んだ方が分かりやすいでしょ』
『でも良守には早すぎたと思うよ』
『つまらなかった』
『そうだね。良守にはね。でももう少し大人になったら面白いと思うかもしれないね』
『ふーーん』
『治守は、治守は面白いかい』
『…………ん、』
『僕が読んでも面白いかは分からないよ。君の感想だから』
 微睡みの中でそんな二人の話し声を聞いた。ふわふわと大きな手が頭を撫でていてふと、その手を真似るように小さな手が添えられた。
 つきんと鼻の頭が痛む父さんと話す兄さんは何時もとそんなに変わらなかったけどでも楽しそうに見えて、良守には入ってはいけない話をする二人によくむくれたものだった。
「兄さんが……」
 声が震えた。でも話をしていたときの兄の声はもっと震えていた。苦しいと泣いてないのに泣いていた。
「治守、に何かあったのかい」
 聞こえてきた声が揺れている。ひきつり恐怖の覗く声に兄の事を思い出す。兄もずっと瞳孔が開いた目をして強い恐怖が見えた。ずっと恐怖を抑えて良守に会ってくれていたのだろう。それを考えると気づけなかった自分か情けなくて、同時に何で言ってくれなかったのかと兄に対して思ってしまうのが嫌だった。
「もう来ないでほしいって」
「……」
 兄の声を思い出す。とても冷たい声。そんな声を出そうとして失敗していた。
「お、俺、兄さんにひでぇことしたかも。でも、でも……」
 それでも家族でいたかったのだ。沢山傷付けてしまった。それでも今だって家族でいたいのだ。
 よしもり、修史が躊躇いながらも良守の名を呼んだ。なんと言えばいいか二人の間にあったことを知らない修史には分からなかったが、それでも何かを父として言ってあげなくてはと。部屋の前に立っていただけだったのが襖に手をかける。そっと開けようとする腕を別の手が掴んだ。
「お爺さん」
 ぴくりと先程よりも大きく布団の中で良守の肩は跳ねた。治守の所には行くなそう言った繁守の事を思い出す。爺ちゃんは治守兄さんに帰ってきてほしくないんだろう。そんなわけないじゃろう! だが……。何時になくあの日の繁守の声は弱く頼りなかった。
「良守とはわしが話をする。すまぬが修史さんは向こうに行っていてくれないか」
「……分かりました。でも……」
 大丈夫。修史が良守にとうが何も答えることが出来なかった。手が震える。もう一杯泣いたのにまた目には涙が浮かんでいた。もう泣かないって決めたのに。泣いていいのは自分ではないのにそれでも止められなかった。
 ばんと襖が開いた。修史はもういない。 
 勝手に入ってくるなよ。繁守に何時も言う言葉をかけるもののその声は小さかった。
「良守。出てこい」
 何時もと変わらぬ険しい声が良守に向けられる。ぴくりと手は動くがそれは言われたことと反対の動きをした。布団を強く掴んで己の体に引き寄せる。ますます丸々のに痙攣する繁守の眉間。青筋が浮き上がるほど強くしわくちゃの手が布団を掴む。
「でてこんか! このたわけ者が」
 ごろりと良守の体が布団の中から転がり出てきた。濡れた痕が目に写る。
「良守」
 転がる体を見下ろす。見上げてくる目は真っ赤になっている。
「んだよ」
 いつもの不機嫌そうな声は揺れて泣き出しそうだ。修史との話を聞いていた訳ではないが良守の様子を見るだけで何が起きたのか分かってしまう。多分そんなことが起きてしまうと分かっていた。
「だから言ったじゃろ」
 行くなと。ぎゅっと良守の手が握りしめられる。歯を噛み締める音がした。良守の唇が震えて歪んだ。目からまた涙が溢れた。
「……爺ちゃんは兄さんが魂蔵持ちのこと知ってたのか……」
「治守から聞いたのか」
 ん、と頷く良守。俯いた顔。手は細かく震えていた。
「だから、俺に……」
「ああ」
「思い出したくねぇって、俺たちのことは思い出したいけど、でも思い出したら辛いことも思い出すから、だから」
 良守から兄を見つけたと聞いたときの事を繁守は思い出した。生きていたと知った衝撃。そうであってくれればと願っていたが、だが生きてはいないだろうと思っていた。そしてそうであってほしいと心の何処かでは思っていた。生きていたとしたらそれはどれだけ辛い思いをした後なのか。どれだけの痛みを抱えながら生きているのか。忘れていたけどと良守から聞いたときホッとした。
 良かったと。
 苦しかった時のことも忘れてくれているのだと。
 家族の事を覚えていないのは悲しかったが仕方のないことだ。それよりもあの子が生きて苦しい思いをしていないのならそれでいいと思おうとしたのだった。
「何で兄さんが……」
 どうして、良守が喉から絞り出すような声で問いかけてきた。なんでとゆらゆら揺れる目が見てくる。
「ずっと、」
 繁守から言葉が落ちる。
「あの子が生まれた頃から心配していた。烏森を守る番人の家に生まれた魂蔵持ちの子供。魂蔵持ちを狙うものは多いがあのこの場合は烏森の変わりにしようとさらに多くのものが狙うだろう」
 治守が産まれた時の事を思い出す。小さな体。片手でさえ持てるのではないかと思うほど小さくてふにゃふにゃしていた。その小さな体から信じられないほど多くの力が溢れていて。
『ねえ、父さん。この子は産まれてはいけない子かもしれないわ』
 そう言った娘の顔を思い出した。まだお腹もでてない時期。その頃にはすでに分かっていたのだろう。
『それでも私、この子を産もうと思うの。私と修史さんの子供だから……。でも……きっとこの子はその事を恨むわね。その時私どうしたらいいのかしら?』
 事情を知らなかったその時、繁守は馬鹿な事を言うなと言った。産まれてはいけない子供などおらんし、産まれたことを恨むとしたらそれはお前が母親として何もやらなかった時だけだ。そんな事を言った。だけどそれは間違いだったのだろう。
 産まれてはいけなかった子。そんな子がいるはずがない。だけど不幸になることが決まっていた子供がいたとしたらそれは産まれなかった方が良かったのではないだろうか。そんなことはないと信じたかったけれど
「何だよそれ。そんな……」
「ずっと守ろうとしてきた。産まれてきてからずっと。守美子もいつも気を張ってあの子を守ろうとしていたが、だが守れなかった。守ることが出来なかった」
 守ることができれば、ずっとあの子の傍にいてやることができれば不幸にしないですむ。不幸になることが決まっていた子ではなくなると思っていたがそれは叶わずにさらわれて……。そしてあの子の力を自分のものにしようと何度も……何度も殺されたのだろう。
「浚われた後どんな目にあったか想像にかたくない。だがきっとこの想像の何倍も辛いことを体験したのだろうと思っている。
 だからあの子の記憶を思い出すようなことはしてはいけないと……」
 殺される感覚など繁守には分からない。死んだこともない。死にそうな目に遭ったことならば幾らかあるがその痛みや恐怖などきっと非にもならないのだろう。それを何度も何度も味わったのだ。忘れるのは正しい選択だった
「もっと強くいってくれよ」
 良守の声が聞こえる。そうするべきだったのだろう。治守が思い出す前に、そのせいで傷付く前に。良守まで傷つけてしまう前に。もっと前に言うべきだった。
 だけど……。お爺ちゃんと繁守の事を呼んだ治守の姿を思い出す。薄く笑ってるような顔は娘によく似ていて。
『楽しいか』
『……お爺ちゃんは?』
『楽しいよ』
『そっか。……僕も楽しいよ』
 どの孫とも違った治守との時間。気を使ったものだがそれでも愛おしかった。大切でないはずがなかった。お爺ちゃん。そう呼ぶ声は当たり前だが特別だった
「……わしも、あの子が、好きなんじゃよ。あの子の祖父だ。あの子を十年ずっと見てきた」
「……しってんよ」
 良守の目は相変わらず潤んでいる。繁守の視界もまた少しぼやけていた。
「兄さん、思い出して嬉しかったって……見付けてくれてありがとうってきっと凄く苦しかったはずなのに」
「……」
 それを言ったときの兄の顔を良守は思い出す。とても苦しそうだった。顔は青褪め脂汗をかきながらそれでもその顔には笑みが浮かんでいて。無理矢理浮かべていた訳ではないと思う。浅く浮かんでた笑みは兄が自然と浮かべたものだと。
 つーんと鼻の奥が痛むのを繁守は感じていた。幼き治守が浮かぶ。あの彼がそんなことを口にしたのだと思うとそれだけで胸が一杯になった。
「治守は横浜にいるんだったか」
「そうだけど……」
 良守に聞いても行くことはなかった。行きたいと一目で良いから会いたいと思いながらあってしまえば己も良守と同じようなことをしてしまうと思っていたから。だが、一度は見ておくべきだろうか。あの子自身を見なくてもいい。せめてあの子の傍に誰かがいてくれるのかを確かめるため。
「治守が何をしているのかは知っているか」
「いや、……それは。兄さんの話はあんまりしなかったけど。あ、でも名刺貰ったんだけ……」
「名刺?」
「初めて会ったときに……」
 良守が近くに投げ出されていたリュックの中を漁る。学校にも持っていているはずの荷物からはスイーツの作り方だとか枕とかがでてきて頬がひきつる。お前は何をしに学校に行っているのだと怒りたくなる衝動が繁守の中にわいた。それが限界に届く前に良守は目当てのものを見つけることができていた。
「あったあった。これ……」
「どれどれ……」
 差し出されぐちゃぐちゃの紙。これが本当に名刺かと思ってしまいながらも受け取った。鞄の奥にでも押し込まれていたのかぐちゃぐちゃではあるが読めなくはなかった。
「ん!」
 見た瞬間目が見開く。まさかと唇がおののいた。
「どうしたんだよ」
「いや、何でもない」
 否定する声が震えた。
 小さな紙には武装探偵社と書かれている。その名前を繁守は聞いたことがあった。


 

[ 221/312 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -