***

「そんで糞爺の奴が」
 聞こえてくる声に頷きながら太宰はぼうと目の前の相手を眺めた。良守。数ヵ月前にあった少年は毎週のように太宰のもとに来るようになった。太宰のもとに来てはさまざまな話をする。それは太宰の知らない話でだけど懐かしい話。
「そう。変わらないね」
 ぽつりと溢した言葉に良守は驚いた目で太宰を見つめる。思い出したのか。嬉しそうなキラキラとした声。涙が混じりそうな声に太宰は緩く首を振る。
「残念ながら」
 だけど……
 太宰の瞼の裏に靄が写る。ぼやけたそれはでも良守に初めてあった時よりも鮮明になっていた。そして随分と影が小さな姿なことに気付く。幼いそれはきっと目の前の彼なのだろう。それを囲むように少しずつ人影が増えていて。人影が動きを持つようになり……。
「ねぇ、母さんは……母さんはどうしているの」
 複数いる靄のうち誰が誰かは分からない。一番小さな姿が目の前の相手だとだけ知っている。だけどもうひとつ朧気な靄の中、他より鮮明な姿があって黒い髪がふわりと舞うその人は……。
 太宰の問いに良守は息を詰めた。
「母さんは何かすげぇ人でそんでどっか変わった人だったんだ……。変な人でさ」
 すらすらと話したいことがたくさんあると言いたげに話していた声が変わってしまった。話が別の方向に変わっていく。他の人の話はたくさんしたのに。前に聞いた時もそうだった。良守は母の話だけ言葉を濁す。
 それはつまり……。
 瞼の裏側で黒い髪が舞う。長い髪。ぼやけた白い顔。その中に浮かぶ黒い目が太宰を見ている。
 あの人はもう……。
 何も覚えてなどいない。最近やっと良守の話す話が本当のことで彼が話す家族が自分の家族なのだと理解してきた程度。だけどその人の姿だけは他よりずっと覚えていて、その人の手が伸びるのが、冷たいようで暖かい手が触れる感触を少しだけ……思い出して。
『治守』
 声が聞こえた。ぼんやりと考え込んでいた太宰の耳に声が。冷たくて少し柔らかい。
ささ……れるひ……をみつけ……い。そした……。
 何かを囁く声。見つめてくる目。ああと息が漏れた。
「ねぇ、私の名前、治守何だけ」
「え?」
 話していた声を遮って太宰が問い掛けた。良守の目が見開きそれからああと強く頷く。
「兄ちゃんは治守って名前でそんで」
「今の私は治だよ。太宰治」
 また遮って言葉にした事に良守の顔が悲しげなものになった。知ってると小さな声が聞こえる。最初にあったときに言われた。名刺にもそう書かれていた。今の太宰には昔の記憶は何もなく良守の兄であった墨村治守ではなく太宰治と言う人だった。
「だけどその名前にも凄く親しみを感じてしまう。確かにそれが私の名前だったのだろうね」
 あの人がその名で私を呼んだ。

 心配だわ。貴方は私にとても似ているから。治守。
 心配げな黒い目が見つめてくるのを思い出した。ああ、確かにあの人は変な人だったのだろう。


「良守。兄さんの所行くんだろこれ持っていてくれないかい」
 両手にかかったずっしりとした重みに体制を崩しながらも良守は差し出されたものを見た。風呂敷に包まれた大きな重箱。中身は父親の修史が作った数々のおかず。
「分かった」
 元気に答えて良守は兄のもとに行くために駆け出した。

 兄にであってから毎週のように良守は太宰のもとに通っていた。思い出してほしいと言う望みを込め、それから十数年ぶりにあった兄にただ会いたくて。兄のことは好きだけど実はあんまりちゃんとは覚えていない。それでも頭を撫でてくれた手や大丈夫と言ってくれた優しい声は覚えていた。それがとても好きだった。今の兄は頭を撫でてくれることもなければ優しい言葉をかけてくれることもない。それでも良守は兄が好きだと思う。見知らぬものを見るような目で良守を見るけれど時折昔と同じ目で良守を見ることがある。その度にとても懐かしい泣き出しそうな気持ちになるのだった。
 大好きだと思った。思い出さなくても良いから兄の傍に居たかった。兄に家に帰ってきてもらいたかった。
 だけどそれを何故か良守の祖父である繁守はよしと思っていなかった。毎週のように兄の元に行く良守にあまり兄の元には行くなと忠告してくる。忘れるほどの苦しいことがあったのだ。それを思い出させるべきではないと。
 繁守の言い分が分からないほどもう子供でもないけれど、それで納得できるほど大人でもなかった。父の修史はそう言う良守の気持ちを分かってくれ、そしてまた彼も息子に会いたいという思いを捨てられず後押ししてくれていた。弟の利守は兄が居た頃のことを知らず兄のことで家の中がぎくしゃくとした空気になるのを奇妙な思いで見ていた。自分が知らない。出来るなら一度ぐらいは見てみたい。でもと……。
 複雑な状態の家。祖父とは冷戦状態。そんな状況でも兄の元に行った。
 約束は特にしていないが毎週土曜日の昼、最初に再開した場所に太宰は居た。待っていた訳ではないというが待っていてくれたのだと良守は思っている。それが嬉しかった。
「兄さん! ごめん。待たせて」
「別に君を待っていた訳じゃない。たまたまここに居ただけなのだよ。後前も言ったけど私を兄と呼ばないでくれ」
 今日もいつものように太宰はそこにいて良守は嬉しくなって駆け寄る。兄と呼んだのに太宰の眉が少しひそめられた。低くなった声が良守に向けられて悲しい気持ちになる。わりかし濃い眉が下に向くのにうっと変な声を太宰がだした。最近、気付いたが兄は良守が悲しげな顔をするのに弱い。気まずそうにして何処かに歩いていくのをついていきながらやってしまったと肩を落とした。弱いと分かっているからあまり兄の前で悲しい様子を見せないようにしたいのに何時も兄に拒絶の言葉を言われるとそんな顔をしてしまう。それに罪悪感を覚えたように俯く兄の姿など見たくないのに。
 ぎいと俯き太宰の足元を見て歩いていた良守の耳に扉の開く音が聞こえてきた。何時のまにやら人通りの多かった場所から離れて人の姿の見えない小さな路地に入っていた。そこにあるこじんまりとした店の中に太宰は入っていく。
 太宰と良守が話をするのは何時も喫茶店だった。場所は決まっておらず太宰がそこまで連れていく。一度でも同じ店であったことはなく人の多い人気店だったり、今日のように閑古鳥が鳴いていそうなこじんまりとした小さな店だったりと様々だ。決まっているのはどの場所の食事も美味しいことぐらい。
「おや、お久しぶりですね。太宰さん」
 店の中には客が一人もおらず太宰の姿をみた店長らしき人物が声をかけてきた。その言葉にここは兄がよく来る店なのだろうかと良守の胸が期待に膨らむ。最初、喫茶店に連れられた時、密かにここに兄はよく来て時間を過ごしているのだろうか。ここの味が兄は好きなのだろうかと考えていたが、その後沢山の喫茶店に連れていかれよく行く場所という訳じゃないよ。ただ話をしやすそうな場所を選んだだけだと言われてなんだとがっかりしたのだった。
「久しぶりだね。マスター。奥の席いいかい?
 それと悪いのだけど、ちょっと持ち込んだものここで食べても良いかな」
「別に大丈夫ですよ。飲み物は何時もので」
「うん。よろしく。ああ、後彼には……コーヒー牛乳でもだしてあげて」
「かしこまりました」
 別に牛乳いれなくとも珈琲ぐらい飲める。何時も兄の注文の後口にする言葉を言うことができなかった。えっという表情で太宰を見つめるのに、むぅとほんの僅か口を尖らせて太宰が良守をみた。
「それ、私にだろ」
「何で」
「君を見ていたら分かるよ」
 指差した良守が背負う黄色のリュック。こんもりと膨らんだリュックを背負った良守はその瞳をきらきらと輝かせた。すげえと声をあげる。
「名探偵みてぇ!」
「……そんな凄いものではないけどね」
 真っ直ぐな目に浮かべられる笑みは口元が僅かに歪んでいた。えっと固まるのにほらとさっさと相手は席に行ってしまって……。狭い店内だが置いてかれないよう後を追った。椅子に座れば早くだしたらとぶっきらぼうに声をかけられる。
 リュックを机の上に置いた。チャックを開ける手が緊張で震えてしまう。兄に食べてもらいたい。喜んでもらいたいと食べたときの兄の反応を楽しみにしてもって来たものだがいざ食べてもらえるとなると不安が沸いた。美味しいと言ってくれるだろうか。修史が作るご飯は最高に美味しい。お弁当だって勿論美味しい。だけど記憶のなくした兄の口にはあってくれるだろうか。それに……。
 不安になる良守を太宰はじっと見ていた。リュックの空いた口から覗く緑色の風呂敷。それだけがぱんぱんにつまっているのにうっと太宰の顔がしかめられた。それは見せないように隠しながらまだなのかいと柔らかな声がとう。
「これ」
 どんと目の前におかれたのは重箱三段ぐらいはありそうな大きさのものとそれよりは小さめのサイズのものが一つずつ。
「これ父さんが兄さんに食べてほしいって」
 はらりとほどかれた風呂敷からは予想通り三段の重箱がでてくる。口元の表情筋が僅かに上がる。それと共に太宰は奇妙なことを思っていた。相変わらずだなと。何が相変わらずかは分からない。ただだされた重箱を見てそう思った。重箱が、ではなさそうで……。ぼんやりとしてしまうのに父さんは料理上手なんだと重箱が並べられる。三段ともぎしり中身が詰められていた。
「ほら、うまそうだろ! 昔兄さんが好きだったもんばかりだぜ」
 良守の言葉にそうなのだろうかと重箱を見つめる。どれもこれも今の太宰が好きかと聞かれたらそんなにと答えるものだろう。食べてくれと期待と不安を織り混ぜた目で見つめる。差し出されている箸を手に取る。選り取りみどりのおかず。洋食から和食までなんでもある。どれから食べるべきなのかと考えたのは僅かな間。何となく太宰は綺麗な焼き目のついた美しい見た目の卵焼きに伸びていた。箸で半分に割る。柔らかくほろりと少し崩れた。少し固めの卵焼きを思い出した。あまり作ってくれないが卵焼きならあれが好きだなとそんなことを思う。
 ぱくりと口に含む。
 口の中でほろほろと崩れていく。噛み締めると広がるしっかりとしながらも優しいだしの味。美味しいと太宰の口から自然に出ていた。良守が満面の笑みを浮かべる。
「そうだろそうだろ! 父さんの作る卵焼きはサイコー! なんだ! 俺は砂糖の入ってるやつの方が好きなんだけど、糞爺や兄さんたちはだしの方が好きなんだよな」
 へらりと崩れた相貌。眺めながらもう一口を含む。卵の素材の味にだしの味が絶妙に絡んでいる。好きだと思った固めの卵焼きを思い出す。卵焼きなら一番あれが好きだったけどこれもかなり……。そう思ってしまうことが嫌で、でもそう思うことは仕方のないことだと思ってしまうのが一番苦しかった。美味しいともう一度言葉がこぼれる。
「だろ! あとな、これとかもすげえ美味しいんだぜ! それからこの唐揚げ! これは兄弟全員大好きなんだ。他にも」
 良守の声が沢山聞こえてくる。これがあれが美味しい。それはと何十もある料理を指差しては語る。言われるままにそれらを口に含んだ。どれも美味しかった。一流の料理人が作ったのではないかと思うほど美味しくて……、でも胸に広がるものは美味しいからわくものでないことに何となく太宰は気付きだしていた。
 半分ぐらい種類を食べた。その先からは動かなかった
「兄さん」
 キラキラとしていた目が不思議そうに太宰を見つめてくる。食べたのは重箱の一つその半分にも充たない。子供用の小さなお弁当箱よりも少ないぐらいで……
「お腹、一杯になっちゃった」
「えっ。でも……」
 信じられないという目で見られるのにまあそうだよねと思いながら同じ言葉を口にする。ごめんねと最後に付け足して。
「……あんまり食べないの」
「そうだね……」
 食は細い方なんだ。口にした言葉は確かに本当だがもう食べられないというのは嘘だった。まだ余裕はあるし、細いと言えど普段はもう少し食べている。止めたのは食べたくないと思ってしまったからだった。
 美味しかった。
 とても美味しかった。
 けれどこれ以上は食べていたくなかった。一つ食べていくたびに何だか奇妙な感覚を抱く。どれも初めて食べる味。なのに何処かで知っているような懐かしい……。泣けないのに泣いてしまいそうになるほど……。
 胸が一杯でこれ以上はもう食べたくなかった。食べてしまえば変になる気がして。
「そっか」
 良守が悲しそうな顔をするのを見ないように俯いてごめんねと言う。慌てて良守は首を振った。
「良いんだ。どうせ全部食べきれるような量じゃなかったし、また後で食べてくれよ」
「……ごめんね。折角だけど受け取れないよ。この量を私一人で食べることはできないからね。無駄にしてしまう。申し訳ないが持って帰ってみんなで食べてくれ」
「そんな……」
 重箱の中に入っているのは卵焼きなどを覗けばそれなりに日持ちするものも多い。食べきれないことを考えてのことなのかは分からないが、冷蔵庫などにいれておけば数日は持つだろう。その間に食べきることは多分できる。良守だってそれぐらいのことは分かるだろう。分かるから俯いてしまった黒髪を見つめる。
 食べてあげたいとそう思うけどそれより、食べたくなくて。食べたいと想う気持ちより食べることへの恐怖が勝っていた。
「美味しかったよって伝えてくれるかい」
「うん」
 ごめんねと言う思いを込めて今言える精一杯を口にした。こくりと頷く黒頭。泣いているのかな何てそんなことを考える。大きな目に涙を一杯にためて。男が泣くなどみっともないと怒っていたのは誰だろうか。また泣いてるのと呆れたような声を出していたのは。泣いてるの? 頭を撫でたのは私だった。目の前に手を差し出して……。でもどうして泣いてるのかは……
 頭がずきりと痛む。黒い靄が押し寄せてきてこれ以上の考えてはダメだとストップをかけるのに泣いている姿は消えてくれなくて……。
「……懐かしい味がしたよ」
 泣き顔を止めたくてそんなことを口にしていた。懐かしい味。知らないのに変な話だ。それでも記憶が揺さぶられてしまうようなそんな味がして。
 俯いていた顔が上を向いた。泣いてはないけど泣きかけていたのだろう顔にはうっすらと水気ができている。潤んだ目で笑えば睫毛をほんの僅かに濡らして
「そっか」
 悲しそうでそれでいて何処か良かったと言いたげな顔に良かったと思ったのは太宰の方だった。泣かせないですんだと。
「父さんは料理上手なんだね」
「おう! 父さんは主夫だかんな!」
「しゅふ?」
 よく聞くだが、あまり聞かない音に耳を傾けた。主婦であれば聞くが父の話だからそうではないだろう。それはどういう意味なのだろうか? シェフを聞き間違えたわけではないだろうし。
「母さんいねえから父さんが家のこと全部してるんだ。まあ、いても母さん家事下手だったから父さんがやるのは変わりないんだけど」
 ああ、成る程。そう言うことか。確かに父さんがいつも……台所に立っていた。洗濯物をしていたのも父さんだ。母さんはたまにしていたけれど、でも母さんが畳んだものはぐちゃぐちゃで箪笥に入れられんと誰かがいつも言っていた。
 私と一緒だったんだ。そんな所も似て……
 胸に沸いたものを何と表現したら良いか太宰には分からなかった。嬉しいとは違う。切ないも違う。悲しいでも苦しいでもなくだけど息が僅かにしづらくなったようなそんな感覚もあった。
「ふーん」
 思わず反応の薄い声が出た。もっとなにか違う反応をするべきだったかと後悔したが良守は気にした様子はなく、気付かなかったのだろう自慢げに話を続けていた。
「ピンクのエプロンして家事する父さんすげぇ似合ってんだぜ」
 にかっと笑顔で言われた言葉。ピンクのエプロンが思わず浮かぶ。どう考えても男が似合うとは思わないけどそうなんだろうなと思ってしまった。ピンクのエプロンの紐が揺れる後ろ姿が朧気な形を作る。その姿が何かに似ていると気づいた。銀色の後ろ姿が重なった。襷をつけた姿。浮かべた瞬間ふふと笑みが漏れてしまう。成る程。主夫か良い言葉を知った。
「兄さん?」
 突然笑みをこぼした太宰を奇妙に思ったのだろう。首を傾けた良守が見上げてくる。
「いや、知り合いにそんな人がいたなと思ってね」
「へぇ、でも絶対俺たちの父さんの方が似合ってから」
「それは、どうだろうね」
「まちがいねえよ!」
 あの人が一番似合ってると思うけどそんな思いで口にした言葉に思ったよりも強く良守は反応してきた。むぅとした顔を見せるのにくすりと笑みが出た。
「良守はお父さんが好きなんだね」
 丸く見開かれた目。うんとすぐに頷かれると思っていたから予想が外れて太宰の目も少しだけ見開かれた。首を傾ける。
「そりゃあ、まあ、ずっと育てて貰ってるし、上手いご飯だって毎日食べさせて貰ってるから……。でも兄さんも好きだぜ。すげぇ、大好きだ」
「そっか」
 何となく言いづらそうにそれでも好きだと言う姿にああと息が出る。成る程思春期と言う奴かと。最近敦君もなり始めているやつだ。微笑ましい気持ちがわくのについで続いた言葉に少し固まってしまった。反応が少しだけ遅れてしまう。
「父さんもさ、兄さんのこと大好きでだからすげぇ張り切って作ってた。兄さんが喜んでくれたらって」
「そう、だろうね」
 何となく目に浮かぶような気がした。花を飛ばしスキップを飛ばしながら作るピンクのエプロンをつけた後ろ姿が。大きなリボンをしたそれは確かに思い浮かべた相手よりずっと似合っているのかも……。
 そこまで思ってからふるりと首を振った。胸が痛いほどに苦しい。
「兄さんの好きなもの沢山詰めてたんだぜ」
「うん、美味しかったよ」
 最初に同じことを聞いたと思いながらそんなことは口にしなかった。詰まっていたものを思い出す。どれも美味しかったけどピンとは来ない。どれが好きとかは考えられなかった。
「兄さん、父さんの料理が一番好きだった。祝いの時とか、父さんがお寿司頼もうかって話したのに父さんの料理がいいって兄さん頼んでたんだ」
「美味しかったからね。きっと好きだったんだろう」
 その次の言葉には何となく納得した。
「家族みんな父さんの料理が好きなんだ」
「そっか」
 広い畳の部屋。大きい机を囲む大人数の姿。上座に一人、その左側には小さい影が三つ。右側には二人。机の上には沢山並べられていて。……みんな美味しそうに……。ああ、そんなことが……。
「そういや、兄さん斑尾も食べられたらいいのにねって斑尾に少し分けてあげてたりしたけ? そんで斑尾のやつ俺にあんたにはこの優しさが足りないんだよって言ってくんだ」
「そんなことが」
 白いふわふわの影が浮かぶ。宙に浮かんぶそれに幼い手が伸びて……。
「兄さん、斑尾になついてたから」
「そうなんだね」
 首? だろうか? 何かアクセサリーがついている部分に幼い腕は手を伸ばす。暖かそうな見た目なのにそれほど暖かくはなかった。むしろ少し冷たかったような……。記憶が少しずつ形を作る。話が変わるごとに場面が切り替わり知らないものが流れる
「糞爺にもなついてたけ? 二人でよく碁とか何時間も打っててさ。今でも碁とかやってんの?」
「いや、今は殆どしてないかな。たまに指すけど……」
 かつんかつんと碁を差す音がする。そう言えば碁は誰に教わるでもなくできていた。トランプやチェスは森に教えられたが碁などは森は教えなかった。碁をしようと言う話もなく……、初めて碁をした相手は先程思い浮かべた襷姿がよく似合う相手。初めてだとも思うことなく自然と打っていたのは子供の頃、何度も打っていたのを覚えていたからだ。家族の記憶はないのにそんな記憶だけ。
 かつんかつんと打つ音。白と黒の盤。譜面が変わっていく。黒を動かすのはしわくちゃの手で。相手を見ようとするのに良守の声で我に返った。懐かしそうに目を細めて良守が話す。少しだけ躊躇うようになるのに……。
「でも一番なついてたのは母さんだよな。母さんの後ろずっと歩いていたイメージがある。……よくなつけたよな。俺母さんも大好きだったけど、でも……」
「……違うよ」
 少し強い言葉がでてしまう。記憶のなかに長い黒髪をたなびかせる母の後ろ姿。その顔が振り返る。靄がかった顔。いつも変わらぬ顔が見下ろしてきてその眉が微かによる。頬に触れる冷たそうに見えて暖かい手。大丈夫と掛けられる声。心配だわと少し高い声が……向けられて……。
 なついていたわけでも、後ろをずっと歩いていた訳じゃない。気付けば母が前にいただけで。
「え」
 不思議そうな目が己を見ているのに気付いた。幼い良守は気付かなかったのだろう。
「何にもない」
 ふるりと首を振った。その動きで緩く感じていた頭の痛みがずきりとしたものに変わる。鋭く突き刺すような痛みに止まりかける動きを動かした。右肩がもがれるように痛い。大きな牙が頭のなかに焼き付いてきて……
「今日はここまでにしようか」
 もう無理かと判断して終わりの言葉を口にする。嫌だと言うように見開いた良守の目。
「え! でもまだ」
「ごめんね。今日は用事があるんだ」
 もっと話したいと机の上に手をついてくる。笑いかければすぐ諦めるように席をついた。長く話し続けることは出来なくて毎回最後はこの方法で終わらせていた。嫌がるもののごめんねと言えば良守はすぐに諦めてくれる。無理させていると思っているからだろう。
「……君はここでゆっくりしてくれて良いから。私は帰るね」
 罪悪感じみたものを抱きながら立ち上がる。黒い頭の旋毛。そう言えば昔も何度も見たことがある気がする。いつも庭先で俯いていて……。
「うん」
 頷いた姿をみて行こうと足を動かす。ふわふわとした記憶のなかに黒い欠片が滲み出す。早く出ようとするのに良守が声をあげた。
 ばっと差し出される白い箱。
「そうだ。これだけ! これだけもらってくれよ」
 小さな箱はケーキ屋とかで渡されるお菓子の入った物だ。中にドライアイスが入っているのか冷気が少し漂ってくる。
「私はもう」
「でも……兄さんが食べなくてもいいから。他の人に渡してくれてもいいから貰ってくれ……。俺が作ったケーキで……だから……」
 ぼそぼそと聞こえてくる小さな声。不思議なことが聞こえてきたのにん? と首を傾けた。
「ケーキ? 君が作った?」
 驚いて男を見てしまう。ケーキって作れるものなのだろうか。でも、そう言えば……。
「お、おう。俺ケーキ作るの好きなんだ。将来はお菓子の家を作るのが夢で」
「そう……」
「だから、その」
 もじもじと差し出してくる箱。甘い匂いがする。少しだけ考えてから箱を受け取った。
「うん。分かった。これはありがたく貰うよありがとう」


「ただいま、帰りました」
 ふっと、言葉の途中で一瞬つまってしまった。最近良守とあった後は何時もこうだ。なんという事もない言葉を口にするのがとても苦しい。私はあの大きな家に帰るとき同じ言葉を口にしたのだろうか。そしてそれに対して彼らはなんと言ってくれたのだろうか。そんなことを思ってしまう。
 沸き上がった思いを打ち消すように首を振って家の奥へと向かう。この時間ならばと厨に向かえばそこに求めていた後ろ姿がある。銀色の髪を一つに結び襷をつけた男の姿。思い浮かべたものと寸分違わぬ姿にふふと笑みが出る。やはり似合っているなと。
「お帰り」
 振り返った男が柔らかな出迎えの言葉を口にして……。一瞬だけその姿が誰かの影と重なった。胸に何かが詰まる。笑みを浮かべるのが遅れてしまった。
「どうかしたか」
 遅れたのは僅かなのに心配げに見つめてこられその優しさが嬉しいのに今は苦しかった。何でもないですよ。嘘の言葉を口にする。言えたなら楽なのだろうかと時々思うがどう言っていいのかも分からなかった。
「なら、良いが……。もうすぐ夕食ができる。居間で待っているか」
「……お邪魔じゃないならここに居たいな」
「邪魔なはずがないだろ。ほら」
 奇妙な問いに意図を理解してああと胸が表しがたい気持ちで一杯になる。嬉しくて幸せで、でも……。居間に行こうかとも考えたが一人になるのが何だか嫌でそれを選べない。声が小さくなりながら問いかければふっと普段あまり笑わない男が笑みを浮かべる。どうぞと隣を開けられるのに悩むより前に引き寄せられていた。福沢の隣に並ぶ。社長と小さな声で名前を呼ぶとどうしたと優しい声。ふわりと右手が太宰の頭を撫でる。作業していた台をさっと見つめる。まな板と包丁は乾燥機の中。鍋がことことと火に掛けられている。片手は菜箸を持っていて……。
 これなら良いかなと肩に寄り掛かれば福沢は許してくれる。ことことことこと煮込まれる音がする。良い匂いが漂ってくるのにふっふと口の端があがる。
「今日は肉じゃがですか……」
「ああ」
「私、福沢さんの作る肉じゃが大好きです」
「お前は私が作るものは何でも大好きだろ」
「うっふふ。社長が作るもの何でも美味しいんだもの」
 柔らかな声。ふわふわと撫でる手。とても幸せな空間。暖かなものを感じるのにだけどひっそりと冷たいものも押し寄せていた。それから逃れるように福沢の肩にさらにすり寄せる。頭を撫でる手が少し強くなった。
「どうした」
「何でもないですよ」
 ただ、少し……。途中まで口にしようとしてやはり何も言えなかった。甘えたいだけですよってそんなことを言いたかったのに。目を閉ざせばより柔らかな手の感触を強く感じた。優しい時間が流れる。
 かつんとコンロの火を止める音が聞こえて目を開く。柔らかな銀灰が目に写る。
「終わったんですか」
「ああ。皿を出したいから少しだけ離れてくれるか」
「はい」
 名残惜しく思いながら離れる。かさりと足になにかが触れた。ああと音が出る。白い箱……。
「そうだ。これ……」
 受け取ってしまったもの。でもやっぱり受け取らなかった方が良かっただろうか。良守が作ったものなら大丈夫だろうと思ったもののこれもまた懐かしい味がしてしまえば。ぐしゃりと持ち手の部分が潰れるのを見下ろした。腕の感覚がなくなって強い力が入ったことに気づかなかった。
「ん? それは」
 福沢の目が手持ちの部分が少し潰れた箱を見下ろす。ああ、と声が出た。むうと口が尖る。
「ケーキ貰ったんですよね……。食後に後で食べましょう」
「ケーキ……」
 出る声はぼそぼそとしたものになってしまった。捨ててしまおうかでも……と思いながら気付いたら言ってしまった言葉。不可思議そうな声に少し肩が揺れた。
「嫌ですか」
 逃げたくなって福沢の肩に顔を埋める。下から見上げた福沢は眉をほんの少し寄せながら太宰を見ていた。その手がふわふわと太宰の頭を撫でる。
「いや、お前が貰い物を貰ってくるのはあんまりないから驚いただけだ」
「……美味しそうだったから」
「そうか。冷蔵庫で冷やしておこう」
 福沢の手が太宰が握りしめていた箱を奪い取っていく。福沢の手に渡ったそれを見つめながらそう言えばと思い出した。
「…………クリームもしかして溶けちゃいましたかね」
 長いこと火を使う傍にいたから。悪いことしたかな。溶けたら食べられなかったりしないかな。そんなことが浮かぶのに溶けていてくれてもいいのにと思いながら、溶けていて欲しくはないと思った。
「いや、そんな長い時間でもない大丈夫ではないか。心配なら見るか」
「いえ」
 箱を差し出されるのに首を振る。ホッとしたような、ああと言うような気持ち。冷蔵庫にしまわれる白い箱を収まった後も眺めてしまう。


 きょとりと首を傾けてしまった。
 目の前に並ぶ夕飯を眺める。ほかほかと湯気をたてる料理は美味しそうな匂いや見た目で太宰の食欲を刺激する。栄養バランスもしっかり考えられているそれは福沢が太宰のために毎日作ってくれるもの。太宰が食べるのが苦にならない量にも調整されていて……。
 じぃと眺めて今度は反対側に首を動かす。
「? 今日はいつもより量少ないんですね」
 福沢よりも少な目なのは何時ものことだが……それにしても。隣に並ぶ福沢を見る。福沢は少し困ったような顔をした。迷ったのだがと本当に迷ったように今でも迷うように話してくる。
「お前が折角貰ってきてくれたからな。食べられなくなると駄目だろう」
 太宰の目が少し大きくなる。お腹一杯になったから食べられない。そう言おうかと考えていたのが封じられてしまい苦しくなるのに、心遣いには嬉しくなる。読まれてしまったのでは。思うのに福沢の方に少し身を寄せた。
「……そうですね。でも社長のご飯好きなのにな」
 どうにかもう少しだけでも食べて食べる量を少なくできないだろうかと声をかける。下から見上げるようにして福沢が好む顔を作る。ぽんぽんと撫でてくれる手。
「私のご飯ならまたこれからも食べられるだろう。明日お弁当作ろうか」
 今日みた重箱が思い浮かぶ。それから黄色い風呂敷に包まれたそれより少し小さめなお弁当の姿。兄さんは父さんのご飯が好きだったと言った良守の声が思い出されて、首を横に振る。
「お弁当……。魅力的ですがそれは良いです」
「そうか」
 梅干しが真ん中に置いた白いご飯。おかずに黄色い卵焼き。思い浮かべてしまおうとする弁当の姿を打ち消した。そんなものより今大好きなものを食べようとそちらに意識を向けた。箸を持った手が震えた。


 まだまだ余裕のある腹を抑える。もう少し多くても良かったのにそれこそお腹が痛くなるぐらい。そんなに福沢がいれることはないと知っているのにそんなことを思ってしまう。まだ食べることを躊躇していた。もう今日はこれ以上思い出したくなかった。
 そんな太宰の前に白い箱が置かれる。
 見つめるのに福沢の手が箱を開けていく。取り出されたものをみて太宰と福沢は驚きの声をあげた。
「これは……」
 随分な量だな。呟かれるのにそうですねなんて呆然とした声が出る。白い箱の中から現れたのはクリームに飾られた大きな円。太宰が予想していた三角の小さいのとは違っていた。作ったって言ってたもんね。それはそうかと思うのに……でも流石にこれはと今までと違う意味で頬がひきつった。
「食べ、きれないですね……」
 どうしましょう? 明日探偵社にでも持っていきますか。問い掛けるのにふるりと福沢は首を振った。太宰とケーキを交互に見つめる。それから重くなる口を開いた。
「……何、今日すぐに食べなくとも明日も食べたら良いだろう」
「……そうですね」
 それでも食べられないのではと思いながらその事は口にはしなかった。包丁で切り分けていく手を見つめる。綺麗に八等分に切り分けられた一切りが小さなお皿に盛られる。もう一つ福沢の分も盛り付けられて、そこから一口切り取られたものが太宰の口許に運ばれた。
「ほら」
「あっ」
 あーーんと慣れたような手付きで口の中に放り込まれる。甘い味が広がって……。太宰の目が驚きで見開く。嫌がっていたとは思えないほど熱心に噛み締めるのに福沢も一口口に含んだ。
 甘い味。だが仄かに苦味を感じる。くどくはなくスッと消えて行くような
「これはうまいな」
 一口飲み込んだ太宰が何かを言いがたそうにして口を閉ざすのに福沢の方が先に感嘆の声を出した。もう一口と口に含む。甘いもの、特に洋菓子系は苦手とするところだがこれは自然とうまいと思える味だった。
 甘過ぎない程よい苦味でバターのくどさもない。
「そうですね。美味しい……」
 福沢が三口目を含んだところで漸く太宰は口を開いた。ぼんやりとした眼差しでケーキを見つめながらもう一口を食べる。美味しいと小さな声が零れるのを福沢の銀灰の目が眺めた。
「どうかしましたか?」
「いや、なにも……」
 どうした。問いかけようとする前に太宰に問い掛けられて首を横に振る。そこに拒絶を感じた。薄く張られた膜、触れれば簡単に壊れてしまうだろうシャボン玉のようなもの。だからこそ壊したらダメな気がして触れられなかった。
「美味しいな」
「ええ、とても……」
 一言呟けば泣き出しそうな声で太宰が同意を示した。ぎゅっと肩に寄ってくる。
 黒髪の女性と小さな子供。差し出された歪な……ふわふわとした記憶。手を伸ばそうとすれば黒いものが傍にやって来て咄嗟に手を引っ込めた。何もない手に虚しさが広がる。


「ケーキ美味しかったよ」
 土曜日、良守と共に喫茶店に入り暫く話を聞いていた太宰は、話が一度止んだときにそう言葉にしていた。本当はもう少し早く言うつもりだった。それこそあった時にでも言えなかったのは怖かったから。
「本当!!」
「ああ」
「良かった……」
 きらきらと輝いた大きな目が太宰を見つめ、そしてほぅと息をつく。嬉しいと笑みを浮かべる顔。
「兄さん甘いの好きか分かんなかったから少し苦めにしたんだけど……どうだった? もう少し苦めとかがいいかな」
 キラキラとした目はまっすぐに太宰をみて聞いてくる。どんな味がいいかどんなのが好きかとそれに続く言葉は容易く予想できて目が泳いでしまう。
「丁度良かったよ」
 答えたくないと思いながらも口は答えてしまって。心と体がバラバラででも一致してしまっていた。
「また作ってきても良い」
 予想していた言葉がでた。駄目だとごめんねと言おうと思った。黒く長い髪が目の前に映る。細い糸のように消えるそれを必死で追いかけた。……える人を…。耳の奥で声がする。何度も何度もきっと聞いた。何度も何度も言われた。心配だわ。貴方は私にとても似ているから。顔も見えないのにその表情が変わらなかったことは覚えている。
「……ああ」
 細い音が太宰の喉奥からでた。引きずり出すような声はそれでも求めていた。ぎりりと奥歯がなる。駄目だと分かっていたのにそれでも。
「じゃあ、また」
「うん」
 ぱああと輝く顔を見つめる。今駄目だとい言ったら泣くのだろうなと考え、そうでなくとも言えないくせにと自嘲の笑みが浮かんだ。そうだと良守が声をあげる。黄色のリュックに手をかけるのに何を言われるのか分かった気がして目を細めた。
「父さんがまた弁当作ってくれたんだけど」
「ごめん。今日はもう昼食べてしまったんだ。お腹すいてなくて」
 用意していた言葉を口にする。ピンクのフリフリエプロン、大きめな台所に立つ姿。治守は何が食べたいか問い掛けてくる優しい声。何でもいいと答えれば……。思い出しそうな記憶に蓋をする。追いかける記憶。ごめんね父さん。口が小さくそんな風に動いた。
 これ以上は思い出せないの。私はあの人のことを……
「そっか……」
 悲しげな声が聞こえてくるのに視線を下に落とした。
「もう帰ろうか」
 まだ会ってそんなに時間は経っていない。一時間もいてないだろう。それでも今日はこれ以上は無理だと思った。これ以上いたら。えっと言う顔を良守はする。まだ、そう言いたげな顔。何時ものようにもう少しと引き留めようと机に手を置いて乗り出してくる。まだ、いいかけるのにごめんねと太宰の口が動いた。そしたら諦める。
 椅子に座り込んだ良守は悲しそうに俯く。それを見下ろしてから立ち上がる。いつも変わらないそれに変化が生まれたのは良守が立ち上がったからだった。
「俺も! 俺も今日は帰るから……途中まで一緒に……」
 どんどん言葉尻は小さくなっていた。良いだろうと掴んでくる手。それを振り払う術は持たなかった。兄さん。幼い手が小さな腕の裾を掴む。涙をためた目が泣いてねえもんといいながら見上げてきて……。
 だってあいつら、兄さんを
 ああ、あれは何でだっただろうか。
 ぎゅっと目を瞑ると記憶は何処かに消えている。探そうとしてしまう意識をこらえて良守を見る。
「……ついてくるなら勝手についてきたらいいよ」
 酷い言葉を言った。温い言葉を言った。言葉が出たときどちらの思いも沸き上がった。こんなのでは駄目だと思うのにそれ以上は出ていかなくて、少し怯んで捕まれていた手は離れていく。それでもこくりと黒い頭は頷いて。踵を返した。後ろをついてくる気配がある。
 帰り道、何かを話してくるかと思っていた良守は始終無言のままだった。何も言わずに後ろをついてくる。別に小さな見た目な訳でもないのにピヨピヨと言う擬音語が浮かぶ。それが似合うとしたら太宰の部下の敦や鏡花、賢治だろうにと思いながらも消えることはなかった。ぴよぴよぴよぴよ。
 何でついてくるんだい
 だって……
 ほら
 手を差し出したのは多分誰かがそうしていたのを見たからだ。こうしたらいいのかと。
 記憶の中の光景に合わせるように右手が動きかけて、気付いたそれを抑えた。あれは暗い夜の……。
 わんと記憶を遮るように音がした。びくりと大袈裟なまでに太宰の肩が跳ねる。ひぃとでかけた声。音が聞こえた方向を辿ると見える三角の耳。足が止まってしまう。
「あ」
 小さな声がでてしまう。震えた声に駄目だと思うのに体は言うことを聞かなかった。ここ最近徹底的に避けてきた存在を前にして太宰の体はすくんでしまっていた。大きな牙が見えた。人を丸飲みしてしまいそうなほど大きな口は恐怖を楽しむかのように体をまっぷたつに…
「兄さん!」
 声に我に返った。はぁはぁと少し荒い息がでる。幻覚だ。何もなかった。痛みなどもう感じる筈もない。もうあれは終わったことなのだ。幻覚。何もない。痛くない。己に言い聞かせ呼吸を落ち着かせてからゆっくりと首を振った。
「いや、なんにもないよ」
 出る声が少し震えていた。出来る限り見つけたものを見ないように前を行こうとしてその前にも同じ存在を見つけてしまう。足が止まりかけてそれでも前に行こうとした。目の前で牙が揺れる。大きなそれを見つめ、逃げることもできないまま。
 ぎゅっと手を握りしめられた。ぎゅううと痛い程強い手。まめのできた固い手にえっと相手を見た。黒い世界で弟だと気付くのに僅かに時間が掛かった。あっと現実だと思い出すのに手を掴んだ良守が後ろに向かって走り出した。遠くからきゃんきゃんと声が。
「あっち」
 視界のなかに突然走り出したものを追いかけようとする姿が写った。どきりと胸が跳ね上がった。
「結」
 動悸が増すなかで追いかけてこようとしたものが何もない場所で転んだ。何もない、でも青い箱のようなものがその足を押さえている。
「えっ」
「兄さん」
 一瞬止まりかけた足。引っ張られることで走ることを思い出す。今の場所から逃げるように走った。


 はぁはぁと荒い息が聞こえてくる。走ったと同時に地面に座り込んだ良守の姿を息を整えて見つめる。
 逃げても逃げても暗い世界。後ろからくる……
 やってくる記憶の影を振り払い疲れたと奇妙な声をあげているところに声をかける。
「あれが結界術というやつかい」
「え、ああ」
 少し固くなった声。震えた手。戸惑いながら頷かれたのに見えた姿を思い出す。透明な青。四角い形。ああ、そうだ。あんな姿をしていた。
「あれで、妖を……」
「…………もしかして、結界みえたのか」
「……ああ」
 震えた声が聞こえた。
 わしら、墨村家は術者の一族。間流結界術開祖間時守より代々烏森の地を守る役目を与えられておる。故に我らは己の力を磨いていかねばならぬ。だが、お前はそれだけでなく……
 知らない誰かの声が記憶のなかで太宰に何かを語りかける。忘れていた記憶のなかで奇妙な生き物たちが踊る。見たこともない生き物たちが妖と呼ばれることを太宰は知っている。
 この世には人には見えぬ存在がいて時には人に害をなすこともある。人に害なすものを滅するのが昔の太宰たちの役割で……。その為の術を幼い頃の太宰は教わっていた。
 良守の話で聞いていた。家族のことは本当だろうが、それでもそれは嘘か妄想だろうと信じずにいた。信じたくなかった。良守は分かっていたのだろうその話についてはしてくることがなかった。それが嘘でも妄想でもなかったことを太宰は思い出す。あれは本当だった。妖はいた。
 そして、あの光景は……。
 黒いもやがやってくる。太宰は首を振ってそれを追い払おうとした。見たくなかった。忘れようと目を閉じる。
 青い箱の姿を思い出す。結界術。太宰が昔使っていた異能とはまた違う力。
「…………兄さんはすげえ術者だったんだ」
 良守の声が耳に届く。悲しそうな声。だけど何処か誇らしげな声は記憶を思い出しているのだろう。懐かしそうに目を細める。
「じいちゃんもお前は凄い。強いって誉めていて」
 本当に誇らしげな声だった。兄さん、凄いと純粋な目と声で回りを跳び跳ねている姿が浮かんだ。幼かった彼にとっては兄は本当に凄い存在だったのだろう。だけど……
「そう」
 それは多分勘違いでしかない。爺さんも、そしてあの人も太宰を誉めたことはない。凄いと口にされた言葉はきっと恐れを伴っていた。太宰に対する戒めだった。
 お前は強くならねばならない。何よりお前を守るために。
 誰かが言う。それが祖父の言葉だとすぐにわかった。こくりと頷く小さな頭。だけど、だけど……。
 もう私には何の力もない。
 私を守ることもできない。あの時できなかったように。
 ずきりと頭がいたんだ。お腹が、全身が痛む。真っ二つに避けて、そして小さく咀嚼されていく。喉奥で恐怖がつまる。外に逃げたい。誰かを求めたいと思うのに良守のもとから離れた。これ以上傍にいると壊れてしまいそうだった。
「今日はもう帰るよ」
 追いかけようとしてきた良守を見もせず告げる。その肩は震えていた。
「ごめんね」
 何時ものように口にした言葉。でも口にしなくともそのとき良守は動けなかった。太宰から流れ落ちた脂汗は地面をてんてんと汚している。


 良守から別れてほぼ丸一日後、太宰はふらりと福沢の前に立つ。床に座り本を読んでいた所を見下ろす。銀色の旋毛。見上げてくる銀灰の目は柔らかく細まり何処へ言っていたのだと優しく問い掛けてくる。心配しただろうと続き、出来たらでいいから連絡してきなさい。今日の夕飯はどうする。すぐにだせるが。
 優しい言葉が降り注いでくる。連絡もなく帰ってこなかった太宰を怒る様子はない。心配しているとその気持ちだけが伝わってきて……。
 ぎゅうっと目の回りに皺ができてしまう。口許が奇妙に歪んだ。
 優しさが嬉しく、この人が傍にいてくれることが幸せだと思い、そして……胸のなかにある不安が一気に押し寄せてきて。すべてを吐き出してしまいたいと衝動的に思うのを飲み込みながら、飲み込めきれなかった思いが太宰に行動を起こさせた。
 読んでいた本を取り上げ、太宰だけを見ていた福沢の膝の上に乗り上がる。本を放り捨てるように横におけばぎゅっと首に抱き付く。泣き声にも似た荒い息が少しだけでた。己のものよりもずっと逞しい肩に額を押し付ける。
「どうした?  太宰」
 大きな手が太宰の癖の強いふわふわの頭を撫でる。大丈夫かと低く柔らかな声。最初その声がどれだけ不器用だったかを知っている。頭を撫でる手こそ慣れたものだったけど泣いている子供をあやすようなその声は震えていた。低い声でできる限り安心させようと力んで逆に少し恐いものになっていて……。それでも安心した。時間を重ねるうちいつの間にかとても柔らかで優しいものが自然とその口から出るようになっていた。太宰はそれがとても好きだった。太宰のためだけではないけれど、太宰のために変わってくれたことだから。
 何かあったのか。柔らかい目が太宰を見つめる。変化に乏しい顔に浮かぶ優しい色。何かお前と付き合いだしてから表情豊かになってきた気がするんだよね。ちょっとムカつく。頬を膨らませ睨まれながら言われたがその言葉を聞いたとき太宰は深く喜んだ。
 何にも……。言おうとした声が消えていく。
 家族のことを話すのは恐怖や太宰に家族がいると知られることで起きる問題を考えれば出来なかった。秘密を守るため例え福沢と言えど話せなかった。
 それでも向けられる優しさのすべてに少しでいいから吐き出したかった。
「……私が恐いなんて言ったら信じられませんか」
 どうしても恐いと素直に口にすることは出来なかった。ぎゅっと首に抱き付きながら福沢を見る。優しかった銀灰の目が少しだけ見開かれて驚きの色を浮かべるのにやっぱりと胸の中に悲しみが掬う。
 怖いと言う感情が己に似合わないことをよく知っている。こんなことさえなければ抱かなかった感情だから。それでも恐いんですと首筋に頭を擦り付ける。ぽんぽんと頭を撫でられた。
「何故?」
「え?」
 頬にはらりと銀の髪が触れた。覗き込もうとしているのか隙間から緑が見えて。聞こえてきた声に少し顔をあげる。とても近くに福沢の目があって、その目は真っ直ぐに太宰を見ていた。
「何故信じられぬと思うのだ。信じぬ訳がないだろう」
「あ」
 嘘のない目。当然とばかり口にされたのに心が震えて声が落ちる。何でだって。そんな言葉が巡るのに頭を撫でる手や抱き締めてくる手が強くなる。優しく大丈夫と言い聞かせるような長い時間をかけて太宰が好む力加減や角度を知り尽くした手。
「何があった」
 静かな声が聞く。
「……何も」
 何もかも言いたいと衝動のようなものが沸き上がるのを飲み込む。言いたい。言って助けを乞いたい。そう思うのに助けを求める声はどうしても出てきてくれない。言うことができない。
「そうか」
 何もない筈はないだろうと分かっているだろうに福沢は頷いてそれ以上は何も聞いてくることはない。だけど手はずっと優しいままでぽんぽんと何度でも撫でてくれる。
「訳もなく恐ろしくなる日だってあるだろう。そう言うときは思い切り甘えてこい。私はお前に甘えられるのが好きなのだ」
 落ち着いた低い声はすっと太宰に入ってくる。抱き付いていた力が少し弱くなった。首に何度も額を押し付けてそれから鼻や口元、全部を押し付けた。もぞもぞと福沢の腕のなかで心地のよい場所を探す。大きくその背が曲がった。
「福沢さん……」
 耳がぴったりと福沢の胸元につく。
 とくとくと心音が聞こえてくるのにほうと息が出る。甘えるようにくっついている距離をさらに縮めた。ぎゅっとぎゅっと抱き付く。それなのに、
「もっと来い」
 そんな声が聞こえてきて、ふふと口許が緩む。
「もうこれ以上くっつけませんよ」
「来れるだろう」
 もう殆ど隙間もない距離。限界少しまで抱き付いていて、これ以上抱きつけば苦しいだろう。それなのに福沢はほらと腕に力を込めて引き寄せてきて、あと一歩距離が残るのにその距離は太宰が縮める。
 福沢の匂いが鼻孔一杯に広がって安心できる感覚がする。
「甘えて良いんですか」
 腕を後ろに回しながらそんなことをとう。答えなど分かっているけれど。
「良くない理由があるのか」
 柔らかな声は心底不思議だと言いたげに問い掛けてくる。ふわふわの髪の隙間から細いわりに固い指が太宰の白い頬を擽る。
「恋人だろう。沢山甘えてほしい」
「福沢さん」
 柔らかな声が落とす言葉に目元が蕩ける。子供にするのとは違う手つきでほほや耳朶を触られて口許が柔らかくなった。甘い声が出る。
「好きです」
「私も愛している」
 ポツリと愛しさを込めて呟けば込めた以上の思いを含んで福沢は答えてくれる。暖かな腕のなかこれさえあればと思った。
「福沢さん、私……」
 貴方の傍にずっといたい。他は諦めるから貴方の傍にだけは。



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