黒い髪が顔の上にはらりと落ちる。美しく能面のような顔がどこか哀しそうにみえて

……いだわ。あ……、……たしに……いるから

 はっと目を見開いた。起き上がれば嫌な汗がつぅと漂っていく。
「夢か……」
 無意識に呟いた一言が聞こえて、ああ、夢だったのだと確かめる。悪い夢を見ていた。悪夢と言うには優しい。だが良い夢と云うこともできぬそれは悪い夢。目を閉じれば顔も覚えていない相手が見つめてくる。誰かの声が聞こえてくる幼い声は記憶のなかで形を変える。泣き顔が笑顔になり、拗ねたものになりそれから強い意思を込めたものになる。険しい顔が浮かんでだらしないものに変わり、優しい笑みを思い出す。穏やかな声を思い出せば、思い詰めた顔がうつる。もみじのような手を思い、それからきゃんきゃんと騒がしい声が聞こえて……黒い……。
 はっとして頭を振った。酷い動悸がする。なんて悪い夢なのだろうか。そこにあるのは柔らかでとても美しくきっと私が求め続けたものなのに、その先に待つのは耐えられない痛み。暗闇。
 すべての記憶が絶望に塗り替えられる。
 故に思い出せない記憶。思い出したくてだけど思い出すのが怖い。辛い。
 黒に塗りつぶされた朧気な記憶なかで彼らが笑った。

 思い出さなければ私は寂しさなんて感じなくてすんだのに。



「太宰。大丈夫か?」
 覗き込まれたのに私は僅かに肩を揺らしてしまった。どくどくと鼓動が嫌な音をたてる。大丈夫だとはすぐには云えず乾いた笑みを浮かべた。唾を何度か飲み込んでやっと大丈夫ですよと云えることができる。そんなのだから覗き込んできた目から心配が消える筈もなく、本当かと問いかけられてしまう。云えるのは本当ですの一言だけ。
 大丈夫でないことは私が一番良く分かっているけど。
 ここ暫くまともに眠れていない。ご飯も殆ど食べれていない。どうにかしないとそのうち倒れるかもしれないほど体の調子は悪い。だけどどうすることもできない。原因は分かっているけれども私にはその対処をすることができないのだ。
「……あんまり無茶はするな」
 笑顔を浮かべ続けていたら根負けした福沢さんが最後に呟いた。その言葉にそうだったら良かったのにと思わず呟いてしまう。これが無茶した結果とかだったらまだやってられたのに。そうではないのだ。そうではなく精神的に追い詰められた結果こうなってしまった。何と情けなく、それだからこそ救いがない。
「太宰」
 名を呼ばれるのに大丈夫ですよと言った。何でもないですからと。何でもないことなんてないのに。今酷く重い問題が私にのし掛かっている。だけど私はそれは言えない。笑みを浮かべて黙るのにふわりと手が肩に触れた。ぎゅっと抱き寄せられて頭を撫でられる。
「何かあれば私に言いなさい」
 告げられるのに心が震えた。ああ、誰かの言葉を思い出した。

ささえそ……るひ……をみつ……い。……たら、きっ……じょう……。

 途切れ途切れ穴だらけの言葉。黒に覆われた真っ黒な顔。覚えてるのは酷く美しかった長い髪。それなのに何故だかとても泣きたい気持ちになった。
「……、……福沢さん」
 呼びたい言葉が呼べずに抱き締めてくれる福沢さんの名を呼んだ。暖かな手が私をさらに抱き寄せてくれる。


 ことの始まりは数ヵ月前、横濱の町を歩いていた私の肩に置かれた手。治守お兄ちゃんと私を呼んだ一人の少年との出会い。
 その出会いが忘れていた愛しい過去と忘れ続けていたかったおぞましい過去を連れてきた。

 ●

 ほら、泣いちゃダメだよ

 差し出された手は小さい。だけどそれを掴む己の手はもっと小さくて。
『またお爺ちゃんに怒られるよ』
『だって』
 優しい声と泣いて嗄れ果てた幼い己の声。
『大丈夫だからね。ほら良守、立って』
 表情の乏しかった顔がふんわり優しく笑うのに誘われて立ち上が「ら!……墨村!!」
「うぉおおお!!」
 自分の声と共にがたんと椅子の倒れる大きな音が聞こえ、自分が今いるのが何処で何をしていたのかを思い出していく。
「全くお前はまた居眠りか!」
「……すいません」
 目の前にいるのはかんかんに怒った先生。今は授業中。そして俺は何時ものように居眠りをしてしまっていたのだ。怒っている先生に取り敢えず謝る。先ほどまで眠っていたせいで欠伸があがった。

 懐かしい夢を見た。とても懐かしい夢。
 俺がまだ五歳になるかならないかの頃。うちにはもう一人家族がいた。俺と利守のお兄ちゃんであの糞兄貴の弟。俺が五つのころに十一とかだったから俺とは六歳さぐらいだろうか。兄貴とは一つ差。年齢が微妙に離れている兄弟だが上二人だけはかなり近い。糞兄貴とは違い優しくて良いお兄ちゃんだった。何考えてるか分かんないところはあったけどそんでも優しかった。
 だけどもそんなお兄ちゃんは今はもういない。
 死んではいないと思う。俺がそう思いたいだけだけどそれでも死んでなんかいないと思う。だけどいない。何処にいるのかも分からない。十二年前、妖に浚われた。烏森を守っていた時じゃない。昼間に突然襲われパニックになった俺を守ってお兄ちゃんは……。
 それ以来お兄ちゃんの居場所は分かっていない。爺や父さん、母さんだって探し回ったがそれでも見つからなかった。
 俺はまだ兄ちゃんを探している。当然だろ。だって兄ちゃんなんだから。大切な家族だからあれから何年経とうとこれから何年経とうと俺は探し続ける。きっと何時か見つかると信じて。


 そうやって探し続けた背を見つけたのは偶然だった。嘘みたいな奇跡だった。
 その日、俺は横浜に出掛けていた。横浜にあるケーキ屋が売っている幻のケーキが目当てだった。ケーキは買えなかった。俺の家から横浜まではかなり遠くて今日だけは早起きし始発ででたのに間に合わなかった。そんでも上手いものが多いと評判の横浜。幻のケーキは買えずとも美味しいケーキを求めてその辺をぶらぶらしていた。
 その途中で兄さんを見付けた。
 人混みのなか漫画みたいな再開だった。肩と肩がすれ違ってごめんなさいと謝れば向こうからもごめんねと柔らかな声を掛けられる。前に進もうとした足が止まった。声は記憶にあるものとはもう随分違ってしまっていた。記憶の中の姿は今の俺よりもだいぶ小さいのにその姿は俺よりとても大きかった。
 それでも一瞬だけみた横顔にお兄ちゃんの姿が重なり、後ろ姿はもうそれにしか見えなかった。
 前を行く兄の姿を追いかける。
 その背に手を伸ばした。
 何年も呼びたくて呼べなかった名前を声にした。
「治守兄ちゃん」
 肩に触れた手。立ち止まった背中。ゆっくりとお兄ちゃんが振り返る。
 きょとんとした顔をしていた。

 ●

「君は誰だい」
 それが最初の台詞だった。
 太宰は見知らぬ少年を見つめる。黒髪の頭。素朴な顔をした少年。記憶力には自信のある太宰は断言することができた私はこんな少年知らない。会ったこともないと。
 肩に置かれた手を見る。目の前の少年は自分ではない誰かの名を呼んでいた。見間違えたのかと判断を下す。だけど少年は太宰を真っ直ぐに見ていた。
「俺だよ、俺! 良守だよ! 治守兄ちゃん!」
 叫ぶように名前を言われ、また呼ばれるのにきょとんと首が傾く。はぁと口が開くのに相手はそれでも治守兄ちゃんと聞き覚えのない名を太宰に向かって呼び掛けてきた。
「もう随分前だからわかんねえかもなんだけど、俺なんだよ。治守兄ちゃん。良守だ。弟の良守」
「おとうと」
「そう! 弟の良守!」
 不思議な言葉に反応してしまうのに相手は明るい笑みを浮かべた。きらきらとした眼差しが太宰を見るのを見つめてしまう。全く理解のできない言葉だった。太宰には弟などいない。気付いたらずっと一人で家族など知らなかった。
「何を言っているのだい。君は。私に兄弟などいないよ。そんな言葉で私を騙そうとしてなんのつもりだい」
 冷たい声が太宰から出た。
 騙そうとしているのだとは思わなかった。それにしては少年の目は純粋すぎて太宰と違う目をしていた。どちらかと言うと探偵社のみんなに近い目。それよりもさらに純粋な裏の世界を知らない者の目。それでも太宰がそう言ったのは本気でそうだと信じ込んでしまっている子供に現実を突きつけるためだった。己は君の兄ではないのだと言う現実を。突き付け諦めてもらうためだった。少年が絶望した目で太宰を見た。何故かその顔にちくりと胸が痛みながらそれでも良かったと息を吐き出した。これで少年は勘違いを終えただろうと。
「私は君の兄さんではないけど、これも何かの縁だ。何か困ったことがあったらここに来るといいよ。格安で引き受けよう」
 何となくこのまま別れるのも可哀想かと一枚の名刺を差し出す。武装探偵社と書かれた名刺。何かあれば来るかもしれないなとその程度の思いだった。その手を少年が掴んだ。それは存外強い手で一瞬だけ太宰は警戒心を抱いた。
 ただの少年だと思っていたのにその手は固いたこのできた戦うものの手だった。
「違う」
 少年の声が町の中に響いた。
「あんたは俺の兄さんだ! 俺幼かったけど、兄さんの姿なんてもう朧気だけどそれでも兄さんの姿を間違えたりしねえ!
 兄さんなんだ。あんたは俺の兄さんなんだ」
 泣きそうな声が耳元で聞こえた。少年の頭が太宰の肩に押し付けられた。見上げてくる目は涙で歪んでいて……。その顔を見たとき太宰の脳裏に何か奇妙な影が写った。殆ど朧気で形の曖昧な影。人の姿に見えるそれが何故か泣いていると太宰は判断できた。何も分からないような影なのに。
 目の前の少年を見る。全く見知らぬ少年だ。一度も会ったことはない。だけど何処か今の太宰は懐かしさを感じていた。
「おとうと」
 一度口にした言葉をもう一度口にした。少年の目がすがるように太宰を見る。
「そうだよ。覚えてないのかもだけど俺は兄さんの弟なんだ。兄さんは十数年前に浚われてそれでいなくなって」
「十数年前……」
 口にした言葉。太宰は己の幼い頃を思い出す。気付けば路地裏にいた。ボロボロの姿で路地裏に。あれは森に拾われる少し前。……十は過ぎていた。それ以前の記憶は太宰にはない。気付けば一人で何一つ覚えていなかった。覚えていない記憶のことなどどうでも良かった。気にしたこともない。きっとずっと一人だったのだろうと勝手にそう思っていた。
 だけどそうではなかったのだろうか。
 こんな己にも家族が……。
 少年を見る。己とは似ても似つかない顔をしていると思う。だけどそう思うのは自分だからだろうか。他人がみたら何処か似ていたりするのだろうか。何かの影が太宰の中を蠢く。
 知らないはずが知っている気がした。
 太宰の口が開いた。何かを言おうとして少しだけ悩む。詳しく聞かせてくれ? それともそんな話は知らない。どちらを言えばいいのだろうと。後者を言った方がいいことを太宰は知っている。己の今までやその他のことを考えると家族なんていない方がいい。だけど……何故か後者を言うことを躊躇った。
 朧気な靄。言えば泣いてしまうと思った。泣き顔は見たくないとそんな感情を見知らぬはずの少年に抱いた。
 だけど……迷って太宰は口にした。
「ここではなんだ。何処か落ち着いて話せる場所に行こうか」


 墨村良守と名乗った見知らぬ少年は太宰の知らぬ家族の話をした。お爺ちゃん、お父さん、お母さん。お兄ちゃんに弟と弟。馴染みのない言葉。どの話を聞いてもしっくりこない。それなのに懐かしく感じる不思議な感覚。斑尾と言う犬の話を聞いた。犬は嫌いなのに不思議とその名前は嫌いではなくその話は聞きたいと思った。
 知らない話。だけど知っていた。
 太宰が理解することのできない何処かが知っていた。


 俺がする話を兄さんは何処か不思議そうに聞いていた。知らない話を聞くように何度も首を傾けながらへぇと声を落としながら聞いていた。覚えてないかと問い掛けると残念ながらと返ってくる。
 悲しかったけどでもそれでもいいやと思えた。
 だってずっと探していた兄さんに会えたから。時間をかければ思い出してくれるだろう。ゆっくりでいい。きっと何時か家族の時間が戻るはずだから。それが間違いだった事を気付くのはだいぶ後になってからだった。

 

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