参
浅い息づかいが一定のテンポで繰り返される。自分の存在を確かめるように息を吐き出しながら太宰は色のない目で何処かを見つめていた。できたぞ。声をかければゆっくりと上がる首。ぎぎと軋んだ音が聞こえてくるように思えるほどの動き。黒に見えるぐらいに光を消した目が焦点を合わせずに見つめてくる。
その頭を撫でる。形を確かめるようにしっかり。両手で抱え込んで少しでも安心できたらと願いながら優しく。
しばらく繰り返していると暗い瞳が瞼の裏に隠れていく。
蒼白く窪んだ顔はそれでも少しだけ安らかな表情をしていた。
「ありがとうございました」
数時間後。のっぺりとした声が礼の言葉を紡ぐ。気にするなと声をかけて立ち上がれば見上げてくる目。何も言わず差し出した手を太宰は掴む。立ち上がらすとすべての力を抜いた体で一度もたれ掛かってくる。それから時間をかけて自身の力で立つ。
そんな彼の手を引いて歩き出した。
「そう。それでその時敦君が」
「ああ、こないだなどは国木田君も」
「そうそう乱歩さんのことなのですけど」
「それで与謝野さんを筆頭に他の女性陣を怒らせた谷崎君が、」
ほんの少し血色の良くなった口から様々な話が飛び出してくる。そのすべては他の探偵社社員達の何気ない日常の話。語る太宰が出てくるものは一つもない。それらに相槌を打ちながら福沢は太宰を見つめた。その手元にある膳は三分の一ほどは食べられている。半年前に比べれば随分食べられている。
そして、太宰はその口元を僅かに上向け形だけはにこやかに笑っていた。
最近になって太宰はこのように私の前でも笑みを浮かべるようになった。初めてその笑みを見たとき、無理をするのは止めろと口にしたのだが、返ってきたのはこうしていないと落ち着かないのですと言う言葉。大丈夫ですからと云った太宰はいつもよりはましな顔色をしていて……。許せば太宰は浅い笑みを浮かべたまま何気ない話を口にしだした。
最初はほんの少しだけだった。一言二言程度の話が終わると太宰は疲れたように息を吐き出して、笑みをその顔から消す。疲れちゃいましたと困ったように呟き、それからすべての感情を感じさせないいつもの表情に戻った。その頭に手をおき無理しなくてもいいと告げる。こくりと頷きながらもその後も太宰は私と二人の時間に笑うのをやめなかった。
いつも見るよりも浅い笑みを浮かべながらたわいもない話を口にする。それは徐々に時間を伸ばしていき、今では一時間ほどなら笑っていられるようになっていた。
「それで……」
太宰の話し声が止む。褪赭色の瞳が困ったように瞬いてそれから光を消した。無表情になった太宰はほぅと息を吐き出す。
「そろそろでるか」
こくりと頷く首は力ない。立ちあがり私は何時ものようにその頭を撫でた。見つめ、目を閉じそれから開いて立ち上がろうと腰をあげる太宰にまた手を差し出す。
この半年、私と太宰がこうして一緒に過ごす機会は格段に増えた。前は太宰が駄目になった時だけだったのが、今はもうひとつ機会が増えている。それは共に横濱にある犯罪組織を潰した後。
半年前に一人で何処かの組織と戦っているのを見付け、さらに太宰がその行為を繰り返していることを知ってから、私もそれについていくようになっていた。一週間に一度か二度、酷いときは三度も太宰は横濱、それだけでなくその周辺の犯罪組織を潰して回る。着いていくようになった当初は乱歩に教えてもらわなければいついくか分かることができなかった。今日行くよと教えてもらうのを繰り返すうちに自分でも分かるようになった。
そうなってから太宰は何時も何か云いたげな顔をして私を見ていた。だが、しばらくは何も言わなかった。だけどある日ぽつりと聞いた。
何も聞かないんですか。と言う言葉。聞いてほしいのかと逆に問い掛ければ間を置いてゆるく首を降られた。それなら聞かん。声に出した言葉に太宰はホッとしたような顔をした。
それから少しして太宰は行く日に自分からやって来るようになった。
言葉を言うことはない。
ただじっと見つめてくる目。それだけでも充分だった。
組織を潰し終えた後はいつも探偵社に帰る。その後にその時刻までやっている飲食店を探して食べにいく。三回に一回は怪我の手当てが間に入ることがあった。基本は太宰は後衛にまわしており、敵の殆どを私が相手にするので怪我をする場面はないはずなのだが、どうやってか太宰は怪我をした。最初は自分の体をもっと大切にしろと苛立ったものだが、そうすることで確かめているのだと気付いてからは好きにさせるようにした。変わりに手当てだけはしっかりと受けさせる。
手当てを受けるとき太宰はいつも人形のように動かない。そして一定の呼吸を刻む。終わった後も動かない太宰の頭を撫でてから抱き締めるのもまた恒例となり、すべてが終わり帰る頃には日が明けているのが常だった。その時は早めに開店している店に入り太宰に食べ物を食べさせる。
回数が増えたお陰で痩せすぎて皮だけになっていた体は少しずつ肉がつきつつあった。顔色も以前と比べると幾分か良くなり、精神的にもすこし余裕を取り戻したように思う。皆の前で張り付ける笑みからぴりぴりとした突き刺すような気配が消えている。以前のものに戻っていた。
いつかはその笑みすらも消え、その心からの笑顔を見せてくれれば。望みながら私は太宰の傍に居ることに徹していた。
「社長」
太宰の声が私の名を呼んだ。
にっこりと貼り付けた笑顔は不自然なほどに動かず褪赭の瞳が私を見つめてくる。まだ日の高い時刻。探偵社の社長室に私達はいた。太宰の手に握られているのは前の仕事での報告書。前まで太宰は報告書を自分で出しに来ることをしなかった。国木田や敦が持ってくる報告書の中に上手いこと紛れ込ませて避けていた。それを持ってくるようになったのは共に夜出掛けるようになってから。
じっと見つめてくる瞳はその合図。
最近になって報告書の中に今夜行く場所や相手の人数、武器の数。さらにそれがどう云った組織なのか等が事細かに書かれた作戦書が挟まれるようになった。
太宰はそれを渡すとき何時もためらう。少しだけ迷い手首を震わせながらゆっくりと渡してくるのだ。貼り付けた笑みは可哀想な程に凍り付きながら、その凍りついた目で私を見つめる。
今日はそれがすこし違った。
何時ものように躊躇いながら渡される。じっと見つめてくる瞳。だけどその瞳は何時ものように凍り付いてはいなかった。何かを迷うようにゆらゆらと揺れて、何かを云いたげに口を開く。
「どうかしたか」
太宰が私を見、それから俯いた。ゆるりと振られた首。いえと音にされた言葉。納得はできなかったが無理に聞き出すこともできず、数分無言で向き合った。
その日の夜もやはり太宰はいつもと違った。敵を殲滅するまでは何時も通りだったのだが、その後はいつも以上にぼんやりとしていた。探偵社への帰り道の途中。何度も足を止めては立ち止まる。表情が消え焦点の合わない目は何時も通りなのに、何時もよりもずっと消えていなくなりそうな雰囲気があった。
恐くなってその手を掴む。冷たい手だった。
握りしめて探偵社までの道を歩く。太宰の歩調は酷くゆっくりとしていた。歩きながらかつて探偵社までの道を乱歩に教え込んだときのことを思い出した。それとは随分と違うと言うのに。
探偵社に辿り着く。鍵をあけ中に入り込めば太宰はそこで立ち尽くした。今日はどちらも怪我はなかった。汚れた着物を取り替え、少しだけついてしまった返り血を拭う。その間太宰はされるがまま。立ち尽くしたまま動かない。何時ものことだ。すべてを終えて終わったぞと声をかければようやく太宰は動き出す。だけど今日の太宰はそれでも動かなかった。
焦点の合わない目で私を見つめ、それから俯く。昼の事を思い出した。
迷うように揺れていた目は今も揺れる。不意に着物の裾が何かに引っ張られるのを感じた。下を見やれば太宰の親指と人差し指が爪先だけで裾をつまんでいる。
「……す」
小さな声だった。物音ひとつしない暗闇のなかでも聞こえないほどに小さな声。返事ができないでいると再び太宰は声を紡ぐ。
「眠れないんです」
聞こえた声に目が見開くのが分かった。太宰を見つめるも見えるのは旋毛だけだ。その下の顔を見ることはできない。
「最近、眠れなくて……」
紡がれていく声は小さく迷い続けている。本当に云って良かったのか間違ってしまったのではないかと迷う声に声を重ねる。
「そうか。なら今日は私の家に来ないか」
何度かしたことのある提案。その度に首は横に振られてきた。旋毛が動いた。見上げてこようとしてその途中で止まり、下ろされる。
「人の温もりと言うものは存外悪くない。安らげるものだ。だからお前がよければ今日は共に寝てみぬか。丁度私も人恋しく思っていた頃なのだ」
長いこと太宰は動かなかった。その動かない頭に手をおき撫でていく。そうしていると何十分後かに動く。
こくりと小さく縦に。
気のせいかと思うほど微かなものではあったが、それが太宰の返事であった。
「では、帰ろうか」
裾をつまんだままの手を取った。
目覚めたのは何か暖かなもののなかだった。
全身が暖かいものに包まれ、何かふわふわ、いやぽかぽか……見知らぬものが胸の中を満たしていた。目覚めたくないと思いながらも目を開ける。
そして目を見開く。
目に入ったのは黒い着物に包まれた誰かの胸板。すぐ傍に人がいたと言う事実に愕然としながら私は昨夜の事を思い出した。
昨夜私が社長に自ら眠れないと告げたのだ。こうなるであろうと予測した上で。想像通りの展開。だけど予想外だったのは私が寝てしまっていたこと。眠れるなんて思ってもいなかった。それが……。
眠れてしまった。
すぐ傍に誰かがいるなぞ絶対に無理だと眠れるはずなどないと思っていたのに。やはり私は……。
「太宰」
声が聞こえてきたのにハッと顔をあげた。思考に沈んで社長のことを忘れていたことに気付く。
「おはよう。もう起きれるか」
見上げる社長は寝起きのためか、いつも眉間に刻まれている皺が消え、普段よりも穏やかに見えた。その印象のままの声が問いかけてくる。頷けば起き上がった社長が手を差し出されて。迷いながら掴んだ手は大きく、簡単に私を起き上がらせる。朝食を共に食べようと云われるのに少し考えてから頷いた。
社長の家の朝食は焼き魚におひたし、卵焼き、お味噌汁に漬物、それに白米と云うよくテレビで見るようなものであった。私自身は初めて目にする。それがきっと普通の家庭の朝食なのだろう。そう思いながら口の中にいれた。私の家の朝食はと思い浮かべてみたが、そもそも朝食と呼べるものを食べたことがなかった。最近たまに行く社長との食事ならば時間的には朝食と呼べるのだろうか。
「旨いか」
もそもそと口にしていれば社長が問いかけてきた。いつもとは違い何処か窺うような視線を感じていたので何だろうとは思っていた。問われて納得する。そうだ。普通は人に自身の手料理をご馳走するときは感想が気になるものなのだ。この人もそう言うことが気になるのか。少し驚きながら美味しいですよと口にしようとした。
だけど言葉は出ようとしなかった。喉元で固まって音になることがない。何とか言おうとしたが言えずに変わりに別の言葉が出ていく。
「私に聞いても無駄ですよ」
視線をはずしてしまいそうになりながらも見つめた先で社長は訝しげに目を細める。眉間に皺が集まるのを見つめる。
「私昔から食べ物の味がわからないんです。何を食べても味がしなくて同じようなものにしか思えません。なので私に味の感想などを求めても意味はないのです」
普段違いの分からぬ瞳が見開かれるのがよく見えた。それを見ながら口にはこんだ焼き魚はかろうじて熱いことだけは分かる。だが、それ以外は何もわからなかった。
「そうか」
数分ほどして社長の声が聞こえた。幾分か固いそれにええと返しながら私は終わったことを悟った。
何故云ってしまったのだろうと後悔染みたことを思いながら仕方なかったのだと私は心のなかで自分に言い聞かせた。仕方なかった。
でないと私は勘違いしてしまうから。
私は今まで誰にも自分に味覚がない話をしたことはない。森先生にだって話したことがない。だってそれはおかしいことだと分かっているから。だから口にしない。代わりに美味しいと口にして味覚があるようなふりをする。それが人としての普通だから。それなのに社長に云ったのは私が間違えないため。
辛いと思った時社長が傍にいてくれるようになり、社長に今の私は生かされているのだと理解した。
それだけならまだ良かったのにその後も社長は私にずっとよくしてくれて、襲い来る暗闇から逃げるため一人続けていた犯罪組織の壊滅にまで付きあってくれるようになった。初めて見つかったときは驚き、その後の行動にも困惑した。だが何も聞いてこない社長が手当てをしてくれ抱き締めてくれたのに、何処かが楽になるのを感じた。ついてくるようになってからも社長は何も聞いてくることはなかった。
聞かないのですかと聞いた。聞いて欲しいのかと聞き返されたのに何も答えることができなかった。聞かれたくなかったから。
手当てをしてくる手はいつも優しかった。
社長が共に来るようになってからは後衛に回るようになった私が怪我をするような事態には殆どならない。それでも私は無理矢理怪我をした。そんな私に呆れている筈なのに社長はただ優しく手当てをしてくれた。心配するように怪我をした箇所に触れながら、過剰なまでの処置を施す。
それが終わった後社長はいつも頭を撫でてくる。まるで親が子にするように撫で、そして抱き締めてくる。
暖かな体温に包まれ社長の鼓動を聞いた。
とくとくとリズムを刻みながらなるそれに、この人は生きているのだと思い、同じ音が自分からするのも耳をすませて聞いた。
それが終わると社長はどんな時刻であろうと私を食べに連れていた。胃に食べ物を流し込む作業を繰り返し、落ちてきた栄養を必死に消化し、体に回そうとしているのを感じて人となっていく。
そんな日々を続けていると私はある日不意に思ったのだ。
暖かな腕に包まれ、鼓動を聞いている時、まるで許されているみたいだと。そう思ったのだ。
生きていることを許されているみたいだと。
その事に酷く狼狽しそして私は納得した。
ああ、そうか私は許されたかったのだと。誰かに生きていることを許されたかったのだと。だからこそ大切な友であった織田作が最後にくれた言葉に執着した。彼が、友である彼が云ってくれた善い人になれと云う言葉。善い人になったら許される気がした。他でもない彼に生きていることを許されるきが……。ああ、そうか。ここでもまた思った。納得した。私は彼に許されたかったのだ。だが許されずに逝ってしまったから彼の残した言葉をなすことで許されようとしていたのだ。
だけど、私は未だなれきれてはいない。許されていない。そんなときに優しくされ生かされて私は許されている気がしてしまったのだ。
そんなはずないのに。
善い人にもなれていない私が誰かに許されるはずもないのに。
だからわざと口にした。人ではないのだと言葉にした。これでもうきっと社長は私に手を伸ばすことをしなくなるだろう。それを少し悲しく思うけれど必要なことなのだ。勘違いして間違いを犯さないために。
………その筈だったのに。
数日後、私は信じられない思いで目の前の人を見た。もうついてくることもないだろうと思い一人で行こうとした夜中、現れた社長。何も聞くこともなく行こうと口にする。呆然としながらそんな彼についていた。そして犯罪組織をひとつ潰した後は何時ものように探偵社へと連れて帰られる。服を着替えさせられ血を拭われるのを見ていた。怪我は今日はしなかった。その事を注意深く確認しながら終わった後社長は私を見つめた。
夜の闇のなかで銀灰色の瞳は不思議に輝く。
「 また、今日も私の家に来ないか」
掛けられた声に目を見開いた。どうして聞いたような聞けなかったような。
「人寂しいのだ。こないだのように共に寝てはくれまいか」
重ねられる言葉に驚き首を振ろうとし、止まる。頭が重く下に落ちた。社長の手が私の手を握りしめる。
そして朝、こないだのように社長の腕のなかで目覚めた。自分の体温よりも暖かなそこはまた私に奇妙なものを抱かせる。前の時と同じで優しく社長に起こされてそれから朝食を共にと誘われる。奇妙に思いながらも頷いた。
今回の朝食は前回とは違うものだった。食べてもほぼ同じものを繰り返す私は良くできるものだと感心してしまう。今日は肉じゃがにカボチャの煮物、ひじき、漬物、味噌汁、それから白米だった。席について口に運ぶ。
「今日は全体的に甘めに作ってあるのだが、どうだ」
運んでいるとちゅうに問い掛けられて固まる。何故そんなことを聞くのだろうと思いながら社長を見つめた。
「そう云われても私には分かりません」
「ああ、でも甘めなのだ。匂いなどはどうだ」
におい、ぼんやりと声がでた。そう言えば何だか甘めの匂いがしているような気がした。社長を見つめる。それから膳を見つめる。何でと云いたくなってやはり声にはできなかった。
[newpage]
「太宰、どうだ。今日は酢を使った料理を多くし、全体的にさっぱりとした味付けにしてみたのだが」
聞こえてくる声に私は僅かに首をかしげすんと匂いを嗅いでみた。確かに酢の匂いがする。口に入れても味は分からない。鼻に突き抜けるような匂いだが酢とはさっぱりとした味のものだろうか。そもそもさっぱりとした味とはなんだ。さっぱりは爽やかなとかそう言った感じの意味だろう。爽やかな味……、わからないな。
「歯応えなどはどうだ。今日は噛みごたえのあるものにしてみたのだが、」
今度はそちらに意識を向ける。確かにいつもより少し固いような気がする。口の中でこりこりと音のするような感じ。こう云うのを楽しむ人もいるのだろうが、私は面倒だな。すぐ飲み込めるのがいい。
「やはりお前は好かんかったか。お前はもう少し食べやすい方が好みか」
問われた意味が分からず呆然と固まってしまった。好みも何も味がわからない私には食べ物に好き嫌いもないのだけど……。強いて言うなら食べること事態が嫌いだ。食べることに意味をみいだせない。
「そうだ。今度は少し面白いものを食べさせてやろう。気に入ってくれるといいのだが」
何も言えずに社長を見つめた。あの日から社長がますます分からない何かになった。味覚がないのだと、まともに味も分かることのできない化け物なのだと私は自らばらしたと言うのに、社長は気味悪がって私を遠ざけることをしなかった。それどころかあの日から出掛けた夜は毎度のごとく自らの家に来ないかと誘いをかけてくる。
そして夜私を抱き締めて眠るのだ。気味悪く思いながらも社長の腕のなかでだと余計なことを考えずに熟睡することができ、それに抗うことができず頷いてしまう。朝目覚めた私に訪れる不思議な感覚もその理由の一つだった。胸のうちに溢れるぷかぷか、ふわふわと云ったような、うまく説明できないが何か地に足がついていないような、浮かんでいるような感覚。何度か味わううちにそれが不快なものではなく心地よいものであることに気付いてしまった。
その感覚を味わいたいとまで思うように。このままでは駄目だと思いながらも流されてしまう。
そして社長は朝になると必ず私に朝食を食べさせた。夜も夜で今まで通りに夕食を食べさせられるのだが、それと朝は違うものだった。
朝、社長が私に食べさせるものはいつも違っていて、甘めだったり、辛めだったり、濃いめだったり、匂いの強いものだったりと色々であった。それをこれはこうなのだと、これはこういうものなのだと説明しながら私にどうだと聞いてくる。いくら聞かれても私には分からぬのに繰り返し繰り返し。料理などに微塵も興味がなかった私なのだけど、それでもそのうち社長がだしてくるものが朝と言う短い時間で作れるものでないことにも気づいてしまった。きっと出掛ける日などはその前に仕込みなどをしているのだろうと思うと、社長が何をしたいのか余計にわからなくなる。
何でそこまでするのか。そうして私にどうしろと求めているのか。川に迎えに来るようになった頃からずっと考えている。
どうしてなのか、何故なのか。それが社長の優しさゆえなのだと、私のようなものでも放っておくことが出来ないのだと分かるけど、でもそれでも……。どうしてここまでのことを私にするのかが分からない。そこに一体なんの意味がある。私みたいなものに優しくした所で何かが返ってくることはないのに。
私には社長が私などよりも余程意味の分からない何かに見えていた。
「おいしーーい!! これ、美味しいですよ。太宰さん」
店内に敦君の明るい声が響く。私はそれをにこにこと見つめた。
美味しい美味しいといいながら目の前にあるものを食べていく敦君を見てると何となく楽しい気持ちになる。
「分かったからもう少し落ち着いてくえ。詰まらせるぞ」
「良いじゃないか。とても美味しそうで見ていて楽しいよ」
「うっ。……すみません」
心から思ったことを云ったのに何故だか敦君は恥ずかしそうにしてばくばくと食べていたのをやめてしまった。それでも食べる敦君の顔はにこにことしていてみていると気持ちいいものであるのに代わりはなかった。
「太宰さんもちゃんと食べてください。凄く美味しいですよ」
「食べてるよ。とても美味しいね」
でしょうと敦君が嬉しそうに笑う。これだから敦君と食べるのは楽でいいなと思う。本当に美味しそうに食べてくれるから判断に迷わなくてもすむ。国木田君なんかは何食べてもあまり変わらないから聞かれたときなどに少し判断に迷う。それで言うと鏡花ちゃんもちょっと分かりにくいところがある。でも美味しいときは瞳が輝くし箸が進むスピードが早くなるからそれが美味しいものだと分かる。与謝野先生なども分かりにくいところがあるかな。でも他の子はみんな分かりやすい。探偵社は素直な子が多いから。
その中でも敦君は乱歩さんの次ぐらいで分かりやすい。味は分からないけど敦君を見てたら美味しそうだと思っちゃう時もあるぐらいで。
にこにことして楽しい気持ちでみていたのだけど、ふと社長のことを思い出してしまった。やはり妙だよなと思ってしまう。どう考えても私のような味もわからないつまらないものと食べるより、敦君たちと食べた方が楽しい思いができるのに。
私みたいに全部食べられず残すことだってなく、ベロっと平らげておかわりだってしてくれるのでは。美味しいって言われる方が嬉しいだろう。
敦君でもなくとも国木田君とかでもきっと美味しいと言って食べてくれるはず。感動して食べられないなんてこともありそうだけど。でも私と食べるよりは楽しめるんじゃないかなと思うんだけど。
「太宰さーーん?」
「ん? 何だーーい。敦君」
「ちゃんと食べてますか? さっきから箸が進んでませんよ」
「食べてるよ、食べてる。ただちょっと考え事をしていてね」
「考え事だと。まさか貴様こんな場所で何かしようなどと企んでいないだろうな」
「企んでないよ。大丈夫。ちょっとしたことを考えていただけだよ。あ、そういや国木田君は社長の手料理とか食べたことあるかい?」
「いや、ないが。何でそんなこと」
「何だ。ないんだ。あるかと思ったのに」
思いたかったのに。手料理を人に食べさせるのが好きなだけなんだって。まあ、それだけだとしたらやはり人選がおかしいか。私しか捕まらないなんてことも社長に限ってないし。でもなら、やはりなんで
「お前まさかとは思うが社長にたいして妙なことをしようなどと考えていないだろうな」
「考えてないよ。ここ最近は私だって真面目に働いているだろう。そんなに疑わないでほしいなーー」
「うっ。いや、しかしだな最近はどうあれ、今までのお前の行いがだな」
国木田君が何かぐちゃぐちゃ言い始めたので取り敢えずシャットアウトすることにした。手が止まってしまっている敦君にも食べるよう促しながら、妙なのは社長の方なんだけどなと考えてしまった。
「料理の味見??」
こくりと頷いた後にダメと聞いてくる声。思わずだ目ではないけどと口にしてしまうのにいや、ダメだろうと自分で自分にツッコミを入れてしまう。味など分かりもしないくせに何を引き受けているのか。
ただ純粋な目で見上げてくる鏡花ちゃんを納得させるだけの断る理由がないのも確かでここは受け入れるしかないのだけど。まあ、何とかなるか。
「でもなんで味見なんて。鏡花ちゃんは料理できるんじゃないかい? 敦君から鏡花ちゃんが作るものは凄く美味しいと聞いているよ」
「レパートリーを増やしたいの。似たようなものしか作れないから」
似たようなものでも作れるだけマシ。むしろ毎日作ってるだけで凄いと思うのだけど。鏡花ちゃんは真面目だな。
こんなの適当に選んでしまえばいいのに、やはり鏡花ちゃんは真面目だな。暇ででそうになった欠伸を噛み殺しながら適当にとった一冊を鏡花ちゃんに見せる。これなんてどう? と差し出した本を手に取ったかと思うと、鏡花ちゃんは真剣な目で中身をみて値段を確認する。腕に持った本と見比べてからごめんなさいとしょんぼりとした声で戻してきた。
「気にしなくていいよ。それより鏡花ちゃんはどんな本がほしいんだい」
「できるだけ色んな料理が乗っていて安いのがいい」
「なるほどね。んーー、なら」
どれかよさげなのがあるだろうかと少し真面目になって本棚に目をやる。レパートリーを増やすために料理の本を買いに来て早三十分以上。きっと敦君に美味しい料理をたくさん食べさせてあげたいのだろう鏡花ちゃんには悪いが、私はそろそろ帰りたかった。なので眺めていただけなのをやめ手伝うことに。
こうしてみてみると、悩むのもわかるぐらいたくさんあるものなの。んーー、と探して私は固まってしまった。
きょとりと目が瞬いてしまう。美味しいおかず百選。簡単料理集。手軽に作れる本格イタリアンだとかが並ぶなかで異質なものが見えた。
味覚障害のための料理本。味覚障害でも楽しく食べれる料理。食事で味覚障害を治す。他にも数多く並ぶ味覚障害者用の料理本。つい目を奪われてしまっていると裾が引かれた。ハッとして見下ろすと鏡花ちゃんの目が真っ直ぐに私をみていた。
「貴方も味覚をなくしたことがあるの?」
「え?」
鏡花ちゃんが私がみていた場所をみる。異質に見えてしまうその場所をじっとみてから、また私をみた。
「私も少しだけなくしたことがある。濃いものとかならぼんやりと味が分かるけど、でもほとんどは分からなかった。その間は食べるのが凄くつまらなかった。たまに好きな物を食べる時は昔のことを思いだして美味しく思えたりもしたけど、後から凄く寂しくなった。食べるのが嫌いになった。
でもあの人と暮らすようになってから変わった。何でも美味しそうに食べるから見てるだけで楽しくて私も楽しく食べれたの。美味しいって思うようになってた。味覚も戻っていて今はちゃんと味が分かる。だけどたまに不安になるの。
私の味覚がおかしくなってないかって。だから味見を頼んだの」
彼女が話す内容になるほどと思った。新しい料理を作るからと言ってもわざわざ味見など頼まなくともと思っていたのに納得がいた。同時に鏡花ちゃんも味が分からなくなっていた事があったのかと少し驚いた。だが……。
「貴方もあったの?」
見つめてくる目。言葉にはしないけれど同じ存在が居たことにホッとしているのが分かる。
でも……。
「うーーん。残念ながら味覚をなくしたことは私はないね。ただ私の知り合いにそう言う人が居たからつい目がいってしまっただけだよ。それにかなりの量並んでるからね」
鏡花ちゃんが残念そうなホッとしたような顔をする。きっと私が自分と同じような苦しみを味わってこなかったことに安堵してくれたのだろう。探偵社の人間は基本的に優しい。私のようなものにすら優しい。
私は味覚はないけれど失ったわけではない。最初からなかった。何かを美味しいと思ったことも、食べることを楽しいと思ったことも産まれてから一度もない。最初から機能としてなかったのだから私と鏡花ちゃんは違う。だが鏡花ちゃんと同じような存在を幾人か知っているのは本当だ。マフィア何て血生臭い場所だと鏡花ちゃんでなくとも味覚をなくす人の一人や二人はでてくるのだ。大抵そうなった人間は心を壊し悲惨な死を遂げていたから敦君に会えた鏡花ちゃんは幸運だろう。
「確かに凄く多い。こんなに並んでるの初めてみた」
「ねぇー。私はあまり本屋に来ないからよく知っている訳じゃないけど、こう言う本は一二冊並んでるようなイメージだったから驚いたよ」
何となく一冊だけ手に取りパラパラと開いてみた。ただの興味本意で意味なんて全くなかったのに捲っていた手が止まってしまう。僅かに手が震えてしまった。
「どうかしたの」
「いや、中々興味深い内容だと思ってね。それにしてもやはり量がおおいね。普通の料理本よりも多いんじゃないかい」
かけられた声によって我に返った。私は誤魔化すように笑い誤魔化すように話した。笑い話にでもするつもりだったのにそれな出来なくなったのはそうでしょうと言う店員の声が聞こえてきたからだった。丁度近くまで来ていた店員に話の内容が聞かれていたようで、半笑いを浮かべながらその店員は話してくれた。
「最近味覚障害者の本を色々注文してくるお客さんがいて、ご贔屓のお客さんだからって店長が注文されてない分まで大量に発注しちゃったんですよ。一々注文をとらせるのが悪いからとか言って。まあ、買いに来てくださるからいいんですけど。でも今のところそのお客さんしか買っていかなくて」
お客さんもどうですか。買っていきませんか?
最後にかけられた言葉はもうほとんど聞こえていなかった。それでもなんとか言葉を返せていたと思う。頭の中がほぼ真っ白で覚えていない。いつの間にか鏡花ちゃんとも別れていたけど、ちゃんと彼女に謝れていたのか分からない。
何が何だか分からないうちに……私は、社長の家の前まで来ていた。その玄関を前にして立ち尽くす。何度か呼び鈴を押そうとしてその手が下に落ちた。持ち上げるのも出来なくてぶらりと手が垂れ下がるだけになる。
どうにかしなければと思うのに何もできずにそこに居続けている突如、玄関の戸が開いた。
見えたのは小さく目を見開いて驚く社長の姿だった。
「太宰どうかしたのか」
声をかけられるのに何も言えない。言いたいことがあるのに声にならなかった。固まったままでいると社長の手が垂れ下がっていた手を握り締めてくる。
「中にはいれ」
促され手を引かれるのに間をおいてから足が動いた。今になってこんな時間に来て邪魔になってしまったかと考えが浮かんだが、帰るとは言い出せなかった。
居間に案内されて座らせられる。待っていろと言った社長が戻ってきたときには、その手に湯気のたったコップがあった。コップを置いた社長は少し迷ってから隣に座った。飲みなさいと言われるのにゆっくりと頷く。手を伸ばし触れれば指先にぬくもりが伝わる。口に含めば丁度いい温度だったそれを飲んでいく。胃の中に暖かなものが広がっていく。体がほんわりとしてくるのに長いこと外にいて随分と冷えていたことに気付いた。飲み終えてコップをおけば社長の手が伸びて私の頭に触れた。
優しく撫でそれから扉の方に引き寄せられる。子供をあやすようにぽんぽんと触れられるのを感じてそんなに酷い顔をしていただろうかと今更ながら少し気になった。問いかけたいことがあって口を開こうとした。だけど薄く開けた隙間はそれ以上開かず、言葉を口にすることができなかった。
見上げると社長が私を見つめていた。柔らかく優しさと心配の混ざった目をしていて言葉が余計に出なくなる。胸が苦しくなって目を閉じた。
まるで寝なさいとでも言うようにぽんぽんと触れていたのがゆっくりと撫でる形に変わっていく。
目を開けると随分と時間がたっていて部屋の中が真っ暗になっていた。身を離せば立ち上がる気配。部屋の明かりがつく。
「夕食を共にどうだ」
第一声はそれだった。頷けばでは、作ってくると社長は厨房に向かう。その背を見送ってから私は気配を出来る限り絶ち、部屋の中を動き回った。音をたてないように引き出しをあける。戸棚の中をくまなく探す。目につくところすべてみて、それから押し入れに目を向けた。気付かれないようにそっと開けて中を覗く。手前の方に大きな箱があるのが目についた。気になってそれに手を伸ばす。蓋を開け中に何が入っているのかを確かめる。
入っていたものはたくさんの本であった。本屋で見た味覚障害者のための料理と言ったものから、医学的な専門書までがずっしりと詰め込まれている。
数秒凍りつき動けなくなりそうになりながらも蓋をし元あった位置に戻した。元いた場所に戻りながら呆然と机の上を見つめる。またも真っ白になった頭。考えることを放棄しようとする。
だけども、二人分の膳をもって社長がやって来るのを見つめたら急速に動き出してしまう。
そして一つの答えをだす。
この人は私を人間にしようとしているのだと。
そんなの、そんなの。
出てきそうになる言葉をなんとか飲み込んで、考えてしまいそうになるのを食べることに集中して打ち消していく。そんなはずはないのだと。
「太宰さん、大丈夫ですか?」
聞こえてきた声にハッとした。意識が落ちかけていたことを認識する。
「大丈夫だよ」
返事をするのが少し遅くなってしまった。そのせいで敦君の顔がますます心配そうなものになる。それにもう一度大丈夫だと繰り返す。
「最近寝不足でね。でもそれも今日で終わるから心配ないよ」
ならいいんですがと聞こえてくる声に大丈夫ともう一度。それは敦君にいつと言うよりは自分に言い聞かせるためのものだった。
社長の家に言ったあの日から一週間。私はもうずっと眠れずにいた。ご飯さえまともに食べれない。だけどその理由は今までのものとは大きく違っていた。気づけばずっと考えてしまうことがある。思ってしまうことがある。
明らかに間違いなのにそうではないのかと考え思ってしまうことが。
だから今日はそれを終わらせるつもりだった。
「社長」
仕事終わりの帰り道。一人で帰っていた社長に向けて声をかけた。振り向いた社長がどうしたと聞いてくるのに今日社長の家にお邪魔させてくださいと口にする。社長は驚きながらもいいぞと云った。夕食を食べていくかと云うのに迷った。
本当はもっと早く云うつもりだったのに云えないまま時間だけが過ぎて夕食を共にすることになった。
社長の作った料理。
社長が私を人間にするために話しかけて来るのを聞いてやっとのこと喉が動く。
「社長」
呼んだ声が震えていた。恐れていると感じながらそれでも口を動かす。
「かつて私は人を殺しました。それもたくさんの数殺しました。自分で殺したこともあれば、部下を使って殺させたこともあります。数百人いた組織を一晩で殲滅したこともあります。幼い子供を殺したこともあります。まだ五六歳の子供の前でその両親を殺しそして泣き叫ぶその子供を殺したことも。部下に殺させた人の中には身籠っていたものも多くいました。嘘の情報を流して自分達で殺し会わせたこともあります。助けてと泣き叫ぶ者を何人も何人も殺してきました」
言葉に出し終えると息を漏らしそうになる。それを耐えて社長の反応を待った。口を閉ざした社長は下を向いていた。その顔が今どんな表情をしているのか分からない。話している間に見ておけば良かったと思った。声に出すので一杯で社長がどんな表情をするのか見れていなかった。だけどいいやと思った。どうせ結果はひとつだけだ。
そう思って待っていたのに。
「そうか」
しばらくして聞こえてきたのはその一言だけだった。その後に続いたのは冷めてしまうから早く食べなさいそんな言葉。予想とは違っていた。
見える社長の様子も悲しげでこそあるものの穏やかなものだった。
その後は呆然としてしまい一口も食べることができなかった。私に社長は何も云わずただ気づけば風呂に入れられ、そして社長の腕の中で眠りにつかされていた。
暖かな腕がただ優しく私を包んで安らかな眠りの世界へと誘った。
「騙したやつらが後から気付いて騒いでくることもありましたが多くは無視しました。たまに面倒なのがいて、そう言うのは口止めに殺しました。中には騙されたせいで家族も何もかも失って身を投げるものも多くいましたね。騙されたものの家族の中にも身を投げたものは多くいました。彼方の世界に身を落とすものもいましたね」
「拳銃を突きつけて脅せば大抵のものは何でも言うことを聞きましたし、そうでないものも家族や他の大切なものに銃口を向ければ簡単にこちらの好きにさせてくれました。やはり拳銃は強い。引き金を引くだけで殺せてしまいますからね。他には社会的地位なども脅すにはよく使えましたね。泥の中に落ちてしまった人間は中々立ち上がることができませんから。ちょっとしたネタを掴んでしまえば何でもこちらの願いを叶えてくれます」
「体を開いて好きにさせてちょっと声をあげてあげればいい。高く甘く。それで少し笑ってやったりするとね男と言うのは馬鹿な生き物ですから喜んであっさりと隙を見せてくれるんですよ。その首をちょいと刃物で切りつけたこともあれば、べらべらと情報を喋らせるときもありましたね。どちらにしても最悪ですよ。
情報を喋っただけの者だって機密情報を漏らしたと言うことで仲間からリンチされ殺される。そうならなくとも結局自分がばらしたせいで組織は潰れ殺されるのですから」
一週間私は社長のもとに通った。そして私がマフィアでやって来た犯罪行為の数々を語った。それで苦しんでいた人々の話をした。だけど社長はいつもそれに対して何も言わなかった。何も云わず私に寄り添い、そして私を人間にさせようとしていた。
言葉が出ていかなかった。
今日も社長の家に来た。今までよりももっと酷い惨たらしいまでの話をしようと色々考えてここまで来た。
なのに言葉が何も出ていかない。
夕食を食べる社長をただ見つめる。云わなければ、話さなければと思っているのに口は開かず、手足も動かなかった。石化したかのように固まってしまっていた。
食べ終わった社長が立ち上がる。膳をそのままにして私のもとまで近付いてくる。隣に座り込んだ社長は私の頭に触れて抱き寄せてくる。泣く子供をあやすように両腕で抱え込まれるのに肩が震えた。
何故。
小さく言葉が落ちた。やっと何かを云えるようになったのに出てくるのは私が言いたいことではなかった。
「どうして。何故私に優しくするのですか。分かったでしょ。私がどれ程酷いか優しくする価値などないことが分かったでしょ。
なのに何故」
包み込んだ手が私の頭を撫でる。しばらく沈黙が続いたけれどそれは破られ社長の声が聞こえる。
「太宰。私とてお前と変わらん。お前が酷い人間だと云うなら、私もお前と変わらん酷い人間なんだ。私もまた人を殺した。刀を握りその刀で幾人もの人を切った。人の命を奪った。教えるのも馬鹿らしくなるほど殺した。その中には勿論家族のいる者もいた。家族ごと殺したこともある。お前がしたように幼い子供の前でその両親を殺しそして子供を切った。
私もお前と変わらないのだ」
聞こえてきた言葉。だけどと声が震えた。そんな話をされるとは思っていなかった。私と社長ではその意味もその重さも違うのに。それと同じと言われても……。
「貴方は、貴方がそうしたのはこの国のためで……」
「やはり知っておったか」
「少しだけですけど」
声を出したのに社長が悲しげに笑う。それをみて酷いことをしてしまったと罪悪感がわいた。社長の過去は何となく知っていて、そしてそれを誰にも知られたくないと思っていることも知っていた。
ごめんなさいと口に出そうとしてふと止まった。ならなぜ社長は私にその話をしたのだろうと
「ああ。確かに。私はこの国ために刀を握り人を切った」
答えにたどり着く前に社長が話し出した。
「そうすることでこの国に平和が訪れるのならばとその為にやってきたことだ。だけどお前とて同じであろう。お前も同じで他の何かのためにそうしてきたのではないのか」
えっと声が落ちた。何を云われているのかわからなくなった。何の話をしていたのだったかと考えた。
「お前は自分がしたいからお前が云ってきたことをしてきたのか。自分のためだけに? 違うだろう。太宰。お前はポートマフィアのためにやってきたのではないのか。お前自身がやりたかったわけではないだろう」
社長の声が聞こえた。理解するのに長く時間をかける。途中分からなくなりながらそれでも理解して分からなくなる。
「でもポートマフィアにいたのは私の意思です」
「そうだな。それはお前の意思だ。だけど太宰。もうお前はポートマフィアではないだろう。今のお前は探偵社の太宰治だ。
もうかつてのように人を殺すことはない。
今のお前は探偵社のために、いや」
そこで社長は言葉を切った。何かを考えるようにしてから一つ頷き息をはく。
「武装探偵社の社員として人を守り人を救っていく。もう誰かを傷付けることはない。かつてのことをなかったことにするのは無理だが、今はそれだけあれば充分だ。
大切な社員が傷付いているのであればそれを守るのは私の役目だろう」
ぎゅっと抱き締められ暖かなぬくもりが強くなった。目頭が熱くなった。喉が震える。意味のない音がでそうになった。
何度も考えてはそんなはずがないと打ち消してきたことが私の中で言葉になる。
貴方は、唇が震え声が出た。それに続いてでそうになる声を必死になって飲み込む。
ああ、それでも唇が震えた。
●
すやすやと安らかな寝息が聞こえだしてきたのにつめていた息が吐き出された。寝入っているのを確認して抱いた腕に力を込める。寝入る前に聞こえてきた言葉が何度も私の中で繰り返される。
「貴方は、……許してくれるのですか。私が、私が……生きることを許してくれるのですか」
その言葉を聞いたとき今まで太宰と過ごしてきた日々のすべてを思い出した。そしてわかった。腕の中にいる幼い子供はずっとただそれだけを求めていたのだと。生きることを許される。それだけのことを求めていたのだと。そんな誰にも……求めなくともいいようなものを。そんな、求めなくともあるようなものだけをずっとずっと求めて傷付いてきたのだと。
抱き締める腕に力がこもり過ぎないように気を付けながら、それでもぎゅっと抱き締めた。
幼い子供が安心して眠れるように。
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[mokuji]
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