そろそろ皆が帰った頃かと思い社長室からでた。明かり一つない社内は暗く静かだ。誰一人いないようにさえ思えるが、そこにはそれでも一つだけ人影がある。それが誰か声をかけなくとも知っている。そこにいるのは太宰だ。
 暗闇のなか一人ぼんやりと座り込んでいる。月に一度か二度あるかないかぐらいの頻度で見るようになった姿。私が来たことが分かっているだろうに太宰は何も言わず座り込み続ける。暗闇のなかでその表情は見えない。私は静かに太宰のもとに近付いた。声を掛けることなくすぐ隣に腰かける。反応はない。魂を何処かに置いてきてしまったかのように動かない。
 聞こえてくる息遣いだけが今ここに太宰が存在しているのだと教えてくれる。
 数時間暗闇のなか過ごした。その間身動ぎひとつしない太宰の傍で私はずっと太宰を見つめる。かたりと太宰が座っていた椅子が音を立てた。ゆっくりと動き出した太宰は緩慢な動きで立ちあがり私を見つめてくる。いつもにこにことあがっている口角はぴっくりとも動かない。
 真っ暗な目が私を見下ろす。何の感情も乗ることのないその姿はまるで無機物のようだった。何処か不気味でぞくりと肌が粟立つ。気付かれないように歯を噛み締め溢れる思いを圧し殺す。太宰の口許が何かを云いたげに動いて何も云わずに閉じる。帰るかと私が口にするとぴくりと肩が跳ねた。立ち上がり差し出した手を暗い瞳が見つめ、苦し気な息を吐き出した。垂れ下がった手。指先が小さく動いたが持ち上がることはない。その手を掴む。
 手はひんやりとした冷たい。包み込むように握りしめ、ゆっくりと歩き出す。ぴんと腕が伸びる。つっかえたような感触の後、重たい足が歩き出した。

「今日は家に帰るか」
 問い掛ければ立ち止まりそうになった太宰が浅く首を振った。


 ○


 私は何をしているのだろうと考えながら目の前の相手を見つめる。気づいた相手がどうした。美味しくないかと聞いてくるのにただ首を振った。止まっていた箸を動かして口のなかに放り込む。適当に噛んでから飲み込んだ。味なんてものは正直分からない気付いたときには何かを美味しいと感じることがなくなっていた。どれを食べても同じようなものでまるで砂を食べているかのような気分になる。だからと云うわけでもないだろうが食に関する興味は極端に薄い。普段ですら一日一食食べたら良い方だった。誰かと一緒に食べるのは苦手。味も分からないのににこにこ笑って美味しいなんて口にしなくちゃいけないのが面倒だから。息苦しく時々死にたくなる。
 今はそう云った気持ちはわかない。何も考えずもくもくと口にいれていくことができる。笑うことを止めてしまっているからだろう。目の前の相手も笑わない私を気にしてはいない。それが気味悪くだけども居心地はとても良かった。
 笑わなくても良いのだと思うとそれだけでホッとした気持ちになる。笑うことにさえ疲れていたのだ。気付いた時、己を愚かに思った。笑わなければと目の前にいる相手の前でも無理矢理に笑おうとしたこともあったが、どれだけ頑張っても笑うことができずに止めてしまった。笑わなくて良いと云われたならそれでいいやと諦めた。
 今も能面のような顔をして箸を動かし口にいれていく。会話をすることもなかった。膳の中にはまだ半分以上も残っているが食べるのが苦しくなって箸を置く。
「もう終わりか」
 問い掛けられたのに今度は頷いた。心配を掛けることがないよう普段であれば強引にでも胃の中に詰め込む。それで後から吐き出したりするのだけど、そう云ったことをするのも止めてしまった。ぼんやりとまだ食べている相手を眺める。何をしているのだろう。幾度目かの問いを自分に問い掛ける。答えが出ずに考えるのをやめた。食べ終わった相手が立ち上がるのに続く。
 料金を払う相手を無言で眺める。財布をだしても無駄だと悟っているのでもう何も云わない。差し出された紙袋を受けとる。ずっしりと重いそれを重苦しい気持ちで受け取ってありがとうございますと感情の乗らない声で返した。歩いていく背を追いかける。家は此方ではないでしょう。私はもう大丈夫ですよと云いたいのにそれだって無駄だと分かっているので口を閉ざす。私の寝場所である探偵社の寮に辿り着く。ありがとうございますともう一度礼の言葉をのべる。気にするなと相手が云う。遅くまで付き合ってもらって悪かった。ゆっくりと休めと云われるのに返事はしなかった。階段を登り部屋まで向かう。扉に手をかける。部屋にはいる時ちらりと外を見ればまだ相手はいた。じっと見上げてきている。
 ぱたんと扉を閉めた。手の中にある紙袋を見下ろす。中に入っているのは持ち帰り用の料理。冷蔵庫などと云う気の利いたものすらない部屋。それを知っている訳ではないだろうに常温で保存しても大丈夫なものだけ。その辺に放置して敷きっぱなしの布団の上に倒れ込む。明日食べれる気力があれば食べてなければ棄てようと考えながら形だけ眠ろうとする。


 あの雨の日から早半年近く経った。相変わらず私はどう生きたらいいのか判らずにさ迷い続けるばかり。一つの進歩もない。ただ変わったことはあって何故か社長と過ごす時間が増えた。雨の日から半月後ぐらいたったある日、入水をし自力に岸に上がった私を社長が迎えに来た。手にはタオルを持っており、それで濡れた髪を拭かれる。呆然と見つめてからへらりと笑おうとした。上手くはできなかったが形だけならば何とか笑えていたと思う。そこに聞こえた笑わなくても良いと云う言葉。
「私の前では無理に笑わなくともいい」
 真っ直ぐに見つめてくる社長の目を見つめた。何かに怒っているかのように皺の寄った険しい目元。だが銀灰の目に宿るのは怒りの感情ではなかった。突き刺すように鋭いがその奥から感じ取れるのは温もりであった。それが不思議で問いかけた。
「気味が悪いでしょう」
 返事が一瞬なかった。見つめる先でぴくりと震えた瞼。わずかに深くなる目元の皺。その反応にああ、やっぱりと思ったのに一拍後何の話だと口にされた。だってと声が震える。
「笑わなくていい。苦しいのならせめて私の前でぐらいは笑わないでいろ」
 告げてくる目は何処までも真っ直ぐに澄んでいて嘘はなかった。本当に分かっていないのだと思い、なら余計と笑わなければと口角をあげ目元を下げようとすると頬がひきつる。ぴくぴくと筋肉が震えるだけで一つの笑みも作れなかった。社長の手が私に触れた。笑うなともう一度声が聞こえる。笑わなくてもいい。笑わないでくれ。言葉が降ってくるのに浮かべようとしていた笑みを消す。髪を拭いていたタオルが頭に被せられる。帰ろうと手を引かれ私は重たい足を動かした。端から見たら変な光景だっただろう。だがその時の私にはとてもありがたかった。人に見せられない顔をしてしまっていたから。
 辿り着いたのは誰もいない探偵社でそこで服を着替えさせられた。面倒に思いどうせ後は寮に帰るだけなのですから良いですよと言ったのだが聞き入れてもらえなかった。ほぼ強引に着替えさせられた後、寮に帰るはずが気づけば料亭にいた。
 ほぼ流されるまま、手を引かれるのについていてたのでどうしてそうなってしまったのか覚えていない。
 困惑しながらも考えるのすら億劫になって出てくるものを口に含んだ。会計は社長が払った。幾らなんでも社長にこれ以上の迷惑をかけるのは、と財布を取り出そうとしたがそのときは川に流されてなくなっていた。社長は気にしなくていいと云ったがそんなわけにはいかないだろう。金額を覚えて後日返そうとしたら、それは受け取ってもらえなかった。
 その数日後にようやっと届いた着物に挟んで、菓子おりもつけて渡したのだがすぐに見破られる。着物はあの雨の日にダメにしてしまっただろう着物のお詫びの品だったのに、それすら気にする必要はなかった。そう言われてしまう始末。まあ、それが予想できていたから最初から着物にしたのだけど。なのに礼をと云われてまたも料亭に連れていかれる。今度は抵抗したのだけど良いからと押しきられてしまった。詫びのつもりがまた奢られる。金を払おうとしても払わせてはくれなかった。気にしなくていいとそればかりを口にされる。
 モヤモヤしながらも日々を過ごしていたが、耐えきれずにまた入水を繰り返す。何度目かの時にまた社長が迎えに来た。手にはタオル。その時も一度探偵社に連れていかれそこで着替えさせられた後、また夕食を共にしていた。駄目だとは考えて抵抗しようとするのだけど、入水後はどうにも判断が鈍って上手くできなかった。
 動くのすら億劫に思ってしまったのが敗因だろう。
 その日の後に社長に云われた気にしないでくれの言葉。私がお前と共に食べたいと思ったから誘ったのだ。私の我が儘に付き合ってもらったのだから私が払うのは当然だろう。むしろ払わせてくれ。お前と共に食事ができてとても嬉しかった。そうやって告げられる。嘘であることは分かっていた。能面のような顔をした男と食べて楽しいはずがない。私が気を使うことがないように云ってくれただけ。そう分かりながらも頷いたのは面倒だったから。
 後から我に帰って悩んだが、それも面倒になってもういいやと考えるのを止めた。それからも何度か同じことが繰り返された。
 どうにかした方がいいのではないかと思いながら入水をすることをやめることができず、社長にたいしても何かを云おうとして云わせてもらえない上、云うこともできなかった。月に一、二度の頻度でその不思議な日は訪れた。

 何度目かの日、迎えに来た社長を見て私の口から乱歩さんと言う言葉が漏れた。無意識の言葉だった。社長が首をかしげて乱歩がどうかしたかと云った。ずぶ濡れの髪を拭く手はただひたすらに優しくタオル越しにも暖かさが伝わってきた。その目を見つめて社長が本当に何も分かっていないと気付いて私は細い息を吐き出していた。
 乱歩さんから聞いている訳じゃないんだ。思ってそれから意識した。何処か遠くでぼんやりと思っていたことをはっきりと認識した。社長が入水後、迎えに来るときは私がどうしようもなく駄目になって死にたい気持ちが何より強くなってしまった時なのだと。苦しくてもう生きていけないと思った時に現れる。
 社長が迎えに来なければきっと私は何処かの時で死んでいただろう。それほどに危うい時やって来る。社長がこなければもしかしたら死ねてたのかと考えながらも恨む沸き上がらなかった。
 今の私はこの人に生かされているのだとその思いが胸の底で沸き上がる。
 何となく髪を拭く手に頭を擦り寄せる。ふっと驚いたような顔をしながらも社長の大きな手が私の頭を抱き寄せた。暖かいぬくもりに包まれる。ぽんぽんと優しく撫でてくる手。それらを感じながら少しの間目を閉じた。


 それから半月ぐらい経った日。私はまた飛び降りたい衝動に駈られた。もう嫌だ。死んでしまいたい。なぜ私なんかが生きているのか。私が生きていることに何の意味があるのか。私が生きて何が救える。善い人でなどあり続けられる筈がない。それならいっそ。胸の奥で轟く言葉たち。みんなの前で笑うのが辛く吐き出してしまいそうだった。
 だけどこの日私は川に向かわなかった。
 飛び降りたい。死んでしまいたい。思いながらも何故か仕事が終わる最後まで探偵社にいた。そしてみんなが帰っていくのを見つめる。いつも最後まで残り社長に声を掛ける役割の国木田君が早く帰れと云ってくるのに、溜めっていた仕事を片付けたいからなんて信じられない言葉を口にしていた。何もかもが億劫で、なにもしたくないと思いながら、疑う国木田君を帰らせるためにあれやこれやと言葉を重ねていた。
 そして社内に一人残る。そうしてまで一人になって私は椅子に腰かけてぼんやりと何処か遠くを見つめた。
 見つめながらも景色なんてものは何一つ見えていない。
 ただまとまらない思考を繰り返すだけ。考えることすら放棄したい。そう思いながらも溢れる言葉たちは消えてくれず、追いかけては掴まえ一つ一つ纏めながら形にならずにばらけさせていく。そんなことを何度も繰り返していた。
「太宰。どうした」
 驚きを含んだ声が鼓膜を打った。聞こえたそれに思考が霧散しハッと我に帰る。社長室にこもりまだ帰っていなかった社長が怪訝そうな顔をして私を見ていた。その姿さえもぼんやりとした目で見つめてしまう。口を閉ざした社長が私のもとに近寄ってきた。何も言わずに少し離れたところに座る。離れてはいるが充分近く息遣いの聞こえる距離。それを見つめながら私はまた何処か遠くに思考を飛ばした。
 鬱々とした思考が私を呑み込もうとしてくる。底のない暗闇に囚われて溺れそうになる。それを引き留めたのは聞こえてくる息遣い。すくそばにある気配が私をこの世に押し止めた。
 ほぅと息が漏れた。
 思考の渦から抜け出して社長を見つめる。何をするでもなくそこにいた社長が視線に気付いて私を見た。
「帰るか」
 問い掛けられるのをぼんやりとして聞いた。返事をしなければと思いながらも声は出ず、首を振ることすら出来なかった。じっと社長を見つめた。立ち上がった社長の手が私の手に触れる。
 帰ろう。
 促されるままに歩いた。探偵社をでて歩きながら時々立ち止まりそうになる。そんなときは社長が軽く手を引いた。それにまた促されて歩き出す。帰ろうと云う話だったのに入水後の時と同じで気づけば料亭に着いていた。注文を頼む社長を見つめながら今、私は社長に生かされたのだと気付いた。少しだけ楽になった呼吸。私の中で暴れ押し潰そうとしていた言葉たちが消えていた。通らなくなっていた食べ物も喉を通りぬけ胃の中へと落ちていく。消化され栄養になるのだろうと思うとこの行為もまた私を生かすための行為なのだと気づく。
 生かされていくのに何かから人に変わっていくように思えた。
 日常に人として帰ってきた。
 その後寮に送られてすぐに横になった。いつもなら横になれば濁流のように押し寄せてくる思考がその日は押し寄せてこなかった。何時もより少し眠れた。

 それからはまた同じことを繰り返すように。駄目になったとき一人探偵社に残る。そしたら社長が傍にやってくる。そばにある社長の気配によって沈みそうな思考から後一歩のところで逃げ出せる。笑うことを放棄して考えることすら投げ出すと呼吸が楽にできて、そっと握られる手は私がここにいることを教えてくれる。取られなくなっていた栄養を取り、生きていくために必要なことを思い出していく。
 そうすることで私はなんとかこの世界で生きていくことができた。
 そうやって社長に生かされることに戸惑いこれでいいのかとも思いながらもそれ以外の方法を探すことは出来なかった。



  ●


 扉の向こう側に消えていた背を見送ってからほぅと息を吐き出した。見送った後ろ姿がまた一段と細くなっているような気がして胸が痛む。ずっしりと重いものが押し寄せてくる。いつもへらへらと笑って、それなりに元気な姿を装いながらも、実際は笑う気力も失いそうなほど疲弊している。太宰が日々重い体を引き摺るようにして過ごしていることを知っている。
 もう笑わなくてもいいのだ。苦しいのなら苦しい。声に出して回りに弱音を吐いてもいいのだ。伝えたくなりながらも口を閉ざす。
 太宰の心はそれができるほど周りに開けてはいなかった。自分のことすらもそんなことが出来るものとして見ていない。
 伝えても伝わらない。伝えることそのものが重荷になる。
 だから固く口を閉ざした。それでも一人苦しみ傷付きながらもがく姿を見ていられず、せめて私の前でだけは笑うなと笑わなくてもいいと口にした。それに対して気味が悪いでしょうと返ってきた言葉。
 その時は意味が分からなかったけれど、後から考え何を云いたかったのか理解することができた。できてしまった。理解したとき落雷に撃たれるかのごとく激しい痛みが襲い掛かってきた。焼き付くされ、さらにその上から幾重もの刃が突き刺さる。やっと分かった事に何かを言いたくなりながらも押し止めて口を閉ざす。私の前でだけは笑うのをやめるようになったから今はそれでいいのだと言い聞かせた。
 太宰のことは注意深く観察していた。社の長として一人だけにあまり気をとられ過ぎるものではない。思いながらも目を離すことが出来なかった。元元ふらふらと何処かへ行ってしまいそうな男ではあったが、今は目を少しでもそらしてしまえばすぐにでも消えて居なくなってしまいそうな危うさがあった。それでも必死に地に足をつけ踏ん張っているから普段は見守るだけに撤する。もう駄目だ。これはやばいと思うときになって太宰を探しに行くように努めた。そう言うとき太宰は大抵川べにいた。入水をしそして助かって苦しそうな顔で川のなかを見つめる。
 幽鬼に見間違えてしまいそうなほど生気がなく、今にも川の中に飛び降りて今度こそ帰らぬ人となりそうな姿に声をかける。見つめてくる瞳は心をなくしたかのように暗く光を通さない。そんな目が動くことなくじっと見つめてくる。社長と名を呼ぶ声ものっそりとして重い。濡れた髪を拭くと云う名目で世界から彼を隠すためのタオルを掛けたときにほぅと吐き出される少しの吐息だけが人らしいものだった。
 太宰がどんな場所にいようとも必ず探偵社に連れて帰った。そこで少しの時間を過ごし、その後探偵社の寮に送る前に料亭に連れていく。とにかく栄養のあるものを食べさせるようにしていた。

 太宰を迎えにいくたび掴む手はいつも冷たく痩けている。日を重ねるに連れて肉が減っていき、今では骨に触れているのではないかと思うほどに固い。骨の感触が手全体から伝わってくる。その手だけでなく他の色んな所をみても痩せすぎているのがわかり、まともに食事を取っていないことは容易に想像ができた。だから少しでも太宰が食べるようにと料亭に連れていく。
 だがそれも上手くは行っていない。最初の頃はすべて食べていたのだが、無理に詰め込み後から吐き出していることに気付いた。食べられる分だけ食べたらいいと云ってからは小鉢一杯分ぐらいの量しか食べなくなった。もっと食べてほしいと思うのだけど食べるときの太宰は口許を歪ませ今にも吐き出してしまいそうな痛々しい姿をしているのに食べさせようとするのは止めてしまった。
 太宰に食べさせるには食への考え方そのものを改めさせなければならないのだろう。だから兎に角食べられる分だけを与えられるときに食べさせることで持ちこたえさせることにした。食への関心を持たせられるような段階ではまだなかった。
 太宰がどうしようもなく駄目になった時、入水をするではなく探偵社に居残るようになって、やっと少しだけ距離が縮まったのだ。すべてを変えるにはまだまだ遠いところにいる。
 二人きりの探偵社で太宰はいつも遠いところを見つめていた。人形のような顔をしてたった一人で何かを考え続けている。考えることに傷付きながらも考えることを止められず苦しんでる。声をかけたくなりながらも堪え、傷付いていく太宰を見つめる。私にできるのは傍にいることだけだった。
 思考をやめ此方の世界に戻ってきた太宰はいつも、私をみて少しだけほっとした顔をする。すぐにそれは消え去るけれど確かにそんな顔をするのだ。
 帰ってきた太宰にいつも帰ろうと声をかける。太宰の手を毎回握りしめる。冷たい手をぎゅっと握りこめば光のない太宰の目が僅かに揺れて、そっと空気も震えないほどの幽かに息を吐き出した。そんな彼を彼が暮らす皆のいる寮まで連れ帰った。


 そんな日々が続いてもう四ヶ月ほどたった。
 太宰は相変わらず皆の前では笑みを浮かべ続ける。体調の方は悪くなっていく一方。それでもまともに仕事はできていて皆がやれないようなことまで完璧にこなしてしまうので誰も何も云えずにいるようだった。
 うっすらと浮かべ続けられる笑みはいつも通り柔らかで軽く何処かだらしないものでありながらも拒絶が見え隠れしている。そんな風になったのはもう二ヶ月も前からの話。太宰自身は気付いていないようだった。それだけなにかに追い詰められ自分自身さえも見失いかけている。早くどうにかしなければと思いながらも私はまた太宰のなかに踏み込めずにいた。一歩でも間違えれば終わりだった。焦りながらも慎重に踏み込むことの許される機会を伺っていた。
 そんなときに乱歩からある頼みを受けた。それは深夜の二時頃に横濱の港にある廃倉庫に云って欲しいと言うもの。何のためにと聞いても答えられることはなかったが、頼んできたその様子から何か大切なことなのだろうと思い云われた通り、その時間その場所に向かった。
 その場所にたどり着いて最初に聞こえたのは銃声だった。幾つもの銃撃音に何人もの人の声。物陰に隠れ息を潜めて伺えば十人近くいる男たちが誰か一人を襲っている状況であることが読めた。襲われている相手を確認しようと、より遠くを覗き込んでみればさぁと血の気が引いていく。気付いたときにはもうすでに体が動き出していた。
 物陰から飛び出して男たちのもとに数歩でかける。銃を撃つことに気が向いている男達の死角から攻撃を仕掛ける。隙だらけの脇腹に拳を叩き込みながら、もう一人の男の脚に足払いをかけ体制を崩させる。その男の手を掴んで近くにいた男に投げつけた。攻撃で此方に気付いた男たちが慌てふためく間にも一人、二人と倒していく。銃で撃ってこようとする男の元に一瞬で詰めより銃身を掴む。無理矢理押し込めば固い鉄が男の胸元に衝撃を与える。乱暴に振り払い一つ処に固まっている数人の元に投げ飛ばした。撃とうして銃口に掛かっていた指が止まる。怯んだ所に投げ飛ばした男ごと攻撃を加えた。
 さっと周囲に視線をやる。立っているものが己しかいないことを確認してやっと息をついた。男たちが撃っていたところを見つめる。ボロボロに崩れた鉄の箱の陰からぎょっとした目で太宰が私をみていた。ふるふると震える口が開く。ぱくぱくと小さく動く口が告げるのは私の名か、それともどうしてと云う言葉か。どちらにしても驚いていることはよくわかる。すぐにでも駆け寄りそうになるのを抑え、大きく息を吐き出す。
 沸き上がる怒りを外に出さないように内側で処理していく。駄目だと分かりながらも怒りを抑えきれずにまだ意識があり呻いていた男を蹴り飛ばした。近くに落ちている銃も遠くに飛ばしていく。そうやって周りに八つ当たりじみた事をしてから太宰に向き直った。
「怪我はしていないか」
 抑えに抑えた声が出た。それにも怒りは混じっていて己にもっと落ち着くよう云い聞かせる。ぴくりと震えた太宰の肩。呆然と見つめながらもへらりと太宰は笑った。
「怪我はしていません」
 すぐにでそうになった手を気力で抑え込んだ。一歩で詰め寄りたい所、数歩で近付いてゆっくりと伸ばした手で太宰の肩を掴む。力を込めすぎないように抑え込みながら物陰に隠れた体を引き摺り出せば血だらけの姿が目に写る。ひくりひくりと震えていた口角が下がる。あっと声をあげた太宰は困ったように眉を寄せてまた笑おうとする。大丈夫ですよと告げようとするのであろう口を手で塞いだ。
「笑うな」
 低い声が出た。太宰の目が震え、あげようとしていた口角が下がり目から光が消える。暗い黒に見えそうなほど暗い色をした褪赭の目が私を見上げた。苦しげに歪められる。どうしてと問い掛けられるのに私は答えなかった。無言で太宰の体にふれる。右肩に脇腹。太股。撃たれた箇所をみて、血が流れているのを止血だけはすませる。そうしてから動けない太宰の体を抱えあげる。
 立ち去ろうとすれば太宰が声をあげた。その声に軍警に連絡するでいいかと問い掛ければ目を見開いた後に頷かれる。悪いと一言声をかけてから太宰の懐を探る。そこから出てきた見覚えのない携帯。それを使い抱えたまま連絡を入れる。詳しいことは何も云わず場所だけを伝えた。元あった場所に携帯をしまえば何か云いたげな目で太宰が見てくる。だけど何も言わないのに私も何も云わなかった。

 
 少し遠かったが探偵社まで帰ってきた。医務室に向かいそこで太宰の手当てをする。手当てをする間も太宰は何一つ言葉を発さなかった。私もまた口を閉ざして何も言わなかった。
 云いたいことなら山ほどあった。何故一人で戦っていたのか。どうして誰かについてきてもらわなかった。その理由を聞きたかった。あいつらが何なのか。どうして戦うことになったのかそう云ったことは今はどうでも良かった。銃を持っている時点で非合法な何らかの闇組織であることは察せられる。軍の組織などでないことも間違いない。だったらもう少し骨があったはず。太宰が社の不利益になるようなことをしていたとも思えない。それなら乱歩だってもっと違う言い方をしたはずだ。今こんな風に治療させたりもしないだろう。
 だから聞きたいのは何故一人で無茶をしたのかと云うその一つ。
 だけど問えなかった。無茶をするな誰かを頼れと云いたいのにそれさえも云えなかった。それを云うには私は太宰のことを知らなさすぎた。
 太宰が今、何に苦しみ、そして今まで何のために足掻いてきたのか私はそれを知らない。知らない以上迂闊なことを口にするわけにはいかなかった。

 言葉とは武器だ。
 言葉は人の思いや気持ちを伝え、人と人の架け橋になる。言葉があるから人は意思を通じ会わせることができ、その言葉によって多くの人を救うこともある。この世になくてはならない大切なもの。
 だけど、いやだからこそ言葉は武器にもなり得るのだ。
 言葉は人を救い人を傷付ける諸刃の剣だ。
 太宰が探偵社に入ってからと云うものずっと何かに抗い続けていることを知っている。それは己のなかにある何かで彼は必死にそれと戦いそして光の中で生きていこうと藻掻きながら歩き続けている。そんな姿を見てきて、そして壊れ始めた太宰の近くにいるようになって何となく分かってきたことがある。
 太宰が抗い苦しみ血を吐きながらも光の中で生きて、この世を歩もうとするのは誰かからの言葉があるからだ。何と云う言葉だったのかは分からないけれどこの世界で生きるように誰かが太宰に告げたからだ。それは闇の世界にいた太宰を、そしてその心を確かに救ったのだろう。だけれどもそれは同時に重しとなって太宰の心を苦しめるものとなった。
 言葉とはそう云うものだ。一つを救えても別の何処かで苦しめる事になる時もある。
 だから人は言葉を告げる時慎重になるのだ。
 云いたいことはたくさんある。もっと皆を頼れと云いたい。皆を信じてやって来れと云いたい。だけど今の太宰にそれは出来ない。周りから聞こえてくる声も言葉も太宰の過ごした今までの人生やその中で培われてしまった価値観が邪魔をして届かない。仮に届いたとしても太宰の胸、一番奥にある大きな言葉の固まりにぶつかる。それと反発しあうことなれば太宰は血を吹き出し壊れ、重なりあってしまえば重みに潰されて消えてしまう。
 今、太宰はぎりぎりの所で生きている。
 それを壊さずに生かすためには言葉を云ってはいけない。言葉は人の気持ちや思いを今あるものを一番に伝えるものだ。言葉が示す割合は大きい。不用意な言葉は太宰を壊す。
 私に今出来るのは寄り添うことだけだ。
 言葉では無理だ。太宰に言葉を届かせるため、そして届いた言葉を噛み締めることのできる余裕を持たせるため、また太宰を傷つけないですむ言葉を探すためにも今は言葉以外のものが必要だった。言葉よりも不確かながらもある意味では言葉よりもたしかな行動で示していくしかない。
 大丈夫なのだと。頼っていいのだと。ここにいてもいいのだと少しずつ行動で教え込んでいくしかない。
 大体の手当てを終えてそっと太宰の体から離れた。手当てをしている間もぴくりとすら動かなかった体は今もなお動かない。聞こえてくる息遣いは一定のテンポを刻み、深く慎重に吐き出されていた。まるで生きているのだと確かめているような呼吸の仕方。
 そっと手を伸ばした。頭に触れる手。それでも動かない太宰。焦点のあわない目が何処かを見つめる。抱き寄せてもなんの反応もない。その体を抱き締めた。



 ほぅと吐き出される吐息。僅かに体が震えたのは一時間は軽く経った後だった。



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