人を好きになった。
 それは太宰治と言う人間からしたら、とてもあり得ないことでバグ以外の何物でもなかった。
 どうしてそんなバグを起こしてしまったのか。考えても分からないが、ただ一つ分かったことがある。それはそんなもの早々に排除して正常に戻らなければならないと言うことだった。
 太宰は太宰治が抱いた恋心を消そうとした。
 正しい太宰治であろうとしたのにその気持ちはどうあがいても消すことが出来なかった。その人を視界の中から消しても、その人との思いで全て思い出さないようにしても、どうしてかその人を目で追いかけていた。
 好きだと思ってしまうのに太宰は正しい太宰治であることを諦めた。
 余計なことに時間はかけられない。正常な太宰に戻れないならせめて無駄なことだけはしないように気を引き締めて生きていくしかない。その為に太宰はなるべく相手に関わらないようにした。相手を見てしまうと好きだとか格好良いだとか訳の分からないことを考える他、話したいとか振れてみたいとかひつようのないおもいをいだくことになるから。
 出来るだけ遠ざかり日々を過ごしたのに、だけどそれを寂しいと感じてしまうようになってしまった。
 他の者からその人の話を聞くと殺意がわき、どうして私の傍にいてくれないのだと馬鹿なことを思う。
 太宰治として壊れていた。
 どうするべきか考えた末に思いを告げるのが良いのではないかと、太宰は思い付いた。
 思いを告げてそれで恋人同士にでもなれたら寂しいと思うことも、周りに妙な苛立ちを感じることもなくなるだろう。
 幸い太宰は美しかった。その気になれば老若男女関係なく落とせるぐらいには美しく、好きにさせる自信はあった。
 告白しよう。
 そう決めた。
 だけど太宰は告白することが出来なかった。告白しようとしてでもと考えてしまったのだ。男同士で付き合うも何もないだろう。何と狂ったことを考えていたんだろう。男同士でつきあっても世間から冷たい目で見られるだけ。良いことなんてない。まして相手は探偵社の社長だ。今は結婚してなくても何時かは圧力に負ける。 
 そう冷静になってしまった。
 冷静になったと思いながら太宰は考えた。
 なら止めるか。でもこの思いを消せない。その人を殺すのも一筋縄ではいかない。
 それならいっそ――
 私が女になってしまえば良いのではないだろうか。
 考えて、考えた末に行き着いた答えだった。
 女になれば男同士の時にある問題はすべて消える。何も考えずに告白できる。そうしようと太宰はマフィアの知り合いに声をかけにいった。渋っていた男を脅して薬を作らせた。それを太宰は躊躇いなく飲んだ。
 どんな副作用があるか分からない。安全性は確保できない処か絶対何かある。そう言われたのすら気にせずに飲んだ太宰は女になった。
 女になった太宰は告白しようとして止めた。
 片方の目が見えなくなったことに気付いたからだ。
 その他にも感じる沢山の違和感。
 五体満足でいられるなんてあり得ない。むしろ動ける可能性は微塵もない。そうさんざん言われていた太宰はまあ、いいじゃないか。困ることをしなかった。少しだけ動く憎くなかっただけ。活動できない程ではなく、今まで通り生活できると判断したからだ。ただばれたら厄介なことになりそうで隠すことを決めた。
 どうにかこの気持ちを捨てられないだろうか。

 太宰はそれを考えることにした。




「太宰さんどうしたんですか?」
 仕事の最中のぞき込んできた瞳にえっと見開かれていた。息まで飲み込んでしまうのにここ数日何だか具合が悪そうですよと共に調査をしていた敦が聞いてきていた。咄嗟に何かを言うことができなかったのにしんどいのなら休みますかと問いかけられる。太宰はその必要はないよと首を振っていた。
 大丈夫と笑う。そうしながら気づかれないように呼吸を整えていた。がんがんと頭の中、鳴り響く鐘を、それより今度は向こうに行こうじゃないかいうのに合わせて大げさに首を動かして追い出す。
 敦は不安そうにしながらも分かりましたと太宰の言う事を聞いていた。資料を片手に敦が聞き込みに行く。なんでだかやたらとやる気になっている背を追いかける。目の前がかすんだのに歩きながら目を閉じた。周りの音に気を配りながらぎゅっと瞼を閉じて深呼吸を繰り返す。心拍数の確認。少し早いのに体の中心、鼓動に意識を向ける。
 呼吸をコントロールして正常に戻していく。体の隅々まで酸素がいきわたるのを確認して太宰は目を開けた。
 ぼやけていた視界がクリアになり。良く見える。敦が女性に声をかけているのに太宰は次の自分の言葉を決める。女性の手の位置を確認し、敦の意識の外にでる。そこから一気に近づいて女性の手を取った。
「美しいお嬢さん。どうか私と心中してくれませんか」
 何十回と口にして慣れた言葉を口にする。えっと固まる女性。あっと口を開けた敦はまたかと言うように肩を落としてから、ちょっと太宰さんそれどころじゃないでしょう。まじめに仕事をしてください。あ、すみません。突然変なこと言ってしまって。僕の先輩で悪い人じゃないんですけど。太宰に怒り、そして女性にフォローを入れる。
 慣れた手つきで太宰の手を引き離して、それでと申し訳なさそうにしながら女性に話を聞いている。可愛げはなくなったが、頼もしく育った後輩を後ろから見ながら太宰はゆっくりと息を吐いた。
 とりあえずはこれで敦の不安も取り除けただろう。やっぱりいつも通りだったと思えてもらえたに違いなかった。そういう所はまだ可愛らしいと思いながら女性の話を聞く。時折相槌を打っていたが、暫くすると耳鳴りが聞こえてきた。
 敦と女性。どちらの話がより重要であるか。すぐに答えを決めて女性の口元を見る。時折聞こえてくる雑音に声は途切れ途切れになってしまったが、口の動きで女性が何を言っているのかはすべてわかる。敦の声は穴だらけだが、それでも大体は掴めた。
 当たり障りのない言葉を紡いで会話を成立させていく。

「ありがとうございました
 重要な情報が手に入りましたね。一旦社に戻って国木田さんに報告をした方がいいでしょうか」
「そうだね」
 仕事の終わりが見えてきてほくほく顔の敦に頷きながら、太宰は探偵社とは別の方向に足を向けていた。ちょっと太宰さんと慌てて敦が太宰を止めるのに、太宰は、私は面倒だからぱーーす。報告は君に任せたと太宰はひらひらと手を振っていた。ちょっとと敦が声を上げる。
「駄目に決まっているじゃないですか。怒られるの僕なんですよ。ただでさえ最近太宰さん探偵社に顔を出していないし、今度こそ連れて帰って来いって僕国木田さんに云われているんですよ」
「それはごめんね。でも私気付いてしまったのだよ。探偵社にさえ帰らなければ国木田君に怒られることがないって。国木田君の怒鳴り声を聞かなくてもいい日々。何て快適なんだろうね」
「怒らせる太宰さんが悪いんじゃないですか!」
 歩く太宰の背中を抑えて敦が叫ぶ。街行く人が不可解そうに二人を見ては眉を顰めていた。ひそひそとした話し声の中にはほら武装探偵社のと言う声も聞こえてきて、敦の脳裏にこの唐変木がと怒る国木田の姿が浮かぶ。
「ちゃんと書類は社に送っているし問題ないだろう。私は今から心中してくれる美しい女性を探して来るから敦君は報告に行きたまえ」
「そんなの言われたら余計いけませんよ。とにかく帰りますよ」
 敦が太宰を引っ張る。ずりずりと引きずられる途中、あ、鏡花ちゃんと太宰は言っていた。久しぶりと遠くの方に向かい声をかけるのに、敦はえ、鏡花ちゃん。何処にと立ち止まっていた。腕の力が弱くなるのに抜け出す太宰。
 あっと敦が声を上げた。逃がさないと手を伸ばすものの太宰はもう既に敦の手の範囲から消えている。追いかけようとしたのに丁度良い感じに人の動きが邪魔をしてくる。あっという間に太宰がいなくなるのに敦はがっくりと肩を落とす。
 しばし立ち竦んでから探偵社の方向に歩いていく敦を物陰から眺めてそっと太宰は吐息をついた。良かったと壁にもたれかかり、そのまま地面にしゃがみ込む。
 ぐらぐらと視界が歪んでいた。鳴りやんでいた頭の中の鐘が鳴り響いて、今度は胃の中までもむかむかと何かを訴えてくる。食道を駆け上がってくるものを飲み込みながら太宰は空を見上げる。
 今日の空は痛いほど青かったけれど、太宰の目に映るのは周りのビルと一緒に渦巻く気味の悪い空だ。ほうと息を吐き出す。ああと零れる声。一度目を閉じた太宰はこれからどうするべきかを考える。
 敦に報告を任せた仕事。今回の調査で必要な情報は大体得られた。終わりの目途もついてきているが、気になるところが一つだけあって、それを確かめなくてはいけなかった。報告を終えた敦から二時間後には連絡が来るだろうから、それまでにしなくてはいけないのだが、今は体が動きそうになかった。
 三十分大人しくしていれば動くようになるだろうが、それでは間に合わない可能性がある。昔の太宰ならば一時間あれば余裕のよの字で終わらせることができる内容であるが、今の太宰には厳しかった。
 ガンガンと耳鳴りがなる。煩いと思いながら太宰は考えを巡らせていく。動けるようになってからまず何をすべきか。最初にやることを終えたら次に何をするか。敦と共にしている仕事以外にも気になることはいくらでもある。その中の優先順位を決めながらどんな流れで片づけていくのが最善かを考える。
 ただそれだけの事をしていただけなのに頭の痛みが強くなって太宰は目を開けた。
 灰色のそら。そろそろ限界かと目を閉じる。今度は何も考えず眠りの世界に落ちていた。

 どうなろうといいやと思った通りに太宰の体は日に日に弱っていていた。何とか周りに隠し通せているが、それもいつまでもつかと思うほど日を追うごとに悪くなっていく隊長に太宰はここ数日悩まされていた。
 どうにかよくできないか。
 考えることへの答えを太宰は知っているけれど実行することはできない。何故ならその答えは病院に行って、大人しく治療を受けるだったからだ。薬を飲んで女の体になったことへの不調をどこの病院で見てもらえばいいのかわからなかったし、何より、そのことを探偵社にばれるわけにはいかなかった。
 特に社長には死んでもばれてはいけない。
 ばれたら太宰の心が死ぬ。それはもう粉々に砕け散る。
太宰はだって未だに福沢への思いを捨てられていないのだ。
 女になってからすぐどうやった捨てられるかを考えたと言うのに良い考えが浮かぶことはなかった。むしろあれだけ考え、捨てようとしたにも関わらず捨てられなくて女性になって告白しようとしたのだ。それなのに捨てられるはずがないだろうと己をバカに思うようにさえなっていた。
 実際太宰はバカだった。大切なことを忘れて行動して、どうしようもなくなってから思い出したのだから。冷静にみせかけてとんでもない自体を引きこ起こしてしまった。後悔こそしてはいないものの己をバカだとは思ってしまう。
 福沢のことを少し思い出すだけで胸が切なくなるような気持ちの悪い感触を覚える。ぎゅうと何かに握りしめられてとくとくと音をたてる。福沢を見たら話しかけたくなって手を伸ばしたくなる。同じように手を伸ばして触れて欲しくなる。
 だから太宰は今福沢から逃げていた。
 余計なことを考えないよう。自分がバカな行動を起こさないよう距離をおき、そうしてあわなくなった時間のうちに抱いた思いなど消えてなくならないだろうかと期待していた。
 そんなことはどうしたってなさそうで、所かあえない分余計に福沢のことを考えて思いは強くなりそうだった。何時も何処かで福沢のことを考えているのに気味が悪いと自身のことを思いながら福沢は今を生きている。

 
「無事終わって良かったですね」
 敦がにこにこ笑うのに太宰はそうだねと答えていた。その手は何故か敦の手に強く捕まれている。所で敦君。この手は何かな。太宰が問うのに国木田さんに言われたんですと敦は答えた。
「今度こそ太宰さんを連れて帰ってこいと。であった瞬間から手を握っておけばあのバカも逃げないだろうと言われたんですよね」
「なるほど。だから依頼人にあうときも手を繋いだままだったわけだね。
良いのかい。敦君。さっきの依頼人、探偵社はホモの集まりかなにかかと勘違いしたと思うけど」
「ホモって?」
「男が好きな男のこと。まあ、簡単に言うと私と敦君が付き合っているって勘違いされたってことなんだけど」
 ええと夕暮れの町に響く敦の絶叫。日射しのせいだけでなく、真っ赤になった顔で敦はえ、そんなと言ってから青ざめていく。ど、どうしましょうと聞いてくる敦は今すぐしにそうで手の力も弱まっていたけれど、逃げようとすれば強くなった。
「どうしたら誤解とけます」
「今さらときにいくのも変だろう。さらなる誤解を招く。それより手を離して歩くのがこれ以上誤解を生まないために良いと思うのだけど」
「それは駄目です」
 ぎゅうと握りしめられる手
「国木田さんに今度こそ太宰さんを連れて来いって言われているんですから」
「別に行かなくてもいいじゃないか。社に行かないと仕事ができないわけでもないんだから」
「駄目ですよ。書類とかは確かに出していますけど、確認したい事があるって国木田さんも言っているんですから」
 話しながら太宰は敦の手を引き離そうと何度か試してみていたが、敦の力は強く逃げられそうになかった。若干痛いぐらいの力で掴まれた手を見つめる。赤くなりかけているのに敦が気付いている様子は今のところなかった。
 これは使えるかなと考えるもののさすがにそれは可哀想だなと敦を見る。とにかく社に戻りますよと声をかけてくる敦は今にも泣きだしそうだった。
 国木田にでも怒鳴られてきたのだろう。もう一か月ぐらいは探偵社に行っていないから限界なんかもしれない。国木田に会えば怒鳴られ面倒なのが見えているので避けまくっているのも原因の一つだろう。
 仕方ないと太宰はため息を吐いた、
「分かったよ。敦君。ちゃんと探偵社に行こうじゃないか」
「本当ですか」
 ぱあと敦の顔が輝く。嬉しそうに見上げられるのに太宰は本当だともと頷いていた。良かったと吐息をこぼす敦の手の力が少し弱まった。その一瞬のスキをついて手を振り払う。
 あっと敦が声を上げて手を掴んで来ようとするので人ごみの中に紛れる。逃げながら太宰はだけどそれは明日ねと言っていた。
「今日はこれから大切な用事があるから探偵社に行く時間がないのだよ」
「そう言って明日も来ない奴じゃないですかそれは」
「ちゃんと明日は行くよ。これは本当信じられないというなら、敦君にこれを渡しておこう」
 敦の手からひらひらと逃げながら太宰は敦に向かってポケットの中から取り出したものを放り出していた。敦から少しそれたところに放物線を描くのに敦はなんなくキャッチする。
 褪せた目が少し開いて宙に浮く敦を見ていた。すっと細められた目はすぐに笑みに変わる。地面に着地した敦からええと言う声が聞こえてきた
「これ財布じゃないですか。え、なんで」
「人質ならぬ物質だよ。それを敦君が持っていたら私は何も買えなくなるからね。明日探偵社に絶対行かないといけなくなるのだよ。少しは安心できるだろう。明日必ず探偵社にいくからそれまで大切に持っていたまえ。なくしたりしたら十倍にして返してもらうからね」
「いや、こんなの僕の方が怖いんですけど。と言うか太宰さん今日はどうするつもりで」
 敦が財布を恐ろしそうに見る。慌てたように声をかけてくるがその前に太宰は人ごみに紛れて消えていた。とにかく明日行くからねと声をかける。
 今日来てくださいよと怒鳴る敦の声が聞こえてくる。それは無理なのだよと太宰は聞こえない距離で呟いて、だって社長がいるだろうと心の中で言っていた。明日の朝から出張に行くはずだからそれまで待っていてねと続ける。
 はぁと歩きながら息をついた。
 どくどくと不規則な音を立てる心臓。金づちで殴りつけるような痛みが襲ってくるのに前を歩いていく。社長にだけは会いたくないともうずっと思っていることを思う。
 だけども人生と言うのはうまくいかないものであった。


「お前はこんなところで何をしているのだ」
 その一週間後に、太宰は福沢に声を掛けられたのだった。
 路地裏の隅、塵に紛れながら眠っていた太宰は掛けられた声にその目を見開いていた。えっと出ていく声。福沢の銀灰の瞳がじっと太宰を見つめている。
 その手がそっと伸びて太宰の髪に触れた。汚れてかピカぴに固まっている髪をほぐす。黄色い粉がぼろぼろと落ちていた。
「吐いたのか」
 問いかけてくる声はいつものものよりさらに低い。酸っぱい匂いと腐った匂い、二つが混ざり合った異臭がするのに太宰はまさかと言っていた。その辺の酔っ払いが私に気付かず吐いていただけですよ。あほらしい言い訳を口にしたのに福沢の目は太宰を見て、それからその口はお前はそれでいいと思ったのかと問いかける。
「どっちにしてもろくなものではないし、他人が吐いたものを浴びてそのままにしている方が、自分が吐いたより質が悪いだろうか」
「そうですか」
「そうだ。細菌感染などもありえるのだぞ。それにそんなことがあっても動けないほどしんどいと言う事ではないのか」
 福沢が答えるのになるほどなと太宰は頷いていた。細菌感染については考えていませんでしたと、答えた後でもと言う。
「しんどいのではなく動くのが面倒であっただけですよ。今日はここで寝たかったのです」
「動くのを面倒だと感じるほどには疲れていると言っているように私には聞こえてしまうがな」
 福沢の手が太宰の髪から離れた。それから触れようとするように太宰に伸びたが、途中で引っ込められる。太宰の目はぼんやりとその手を追いかけた。手は福沢の懐に戻り、そこから手拭いを取り出していた。手拭いで軽くふいた後、その手拭いを持ったまま再び太宰に伸びた。
 汚れた顔を福沢の手ぬぐいが拭いていく。
 そう言う訳ではありませんよと太宰は言うが福沢はそうかと頷くだけでその言葉を信じたようには思えなかった。問い詰める様子はないがそれはきっとどうせ本当のことは言わないと思われているからだろう。
 どうにかしなくてはと思いながらも、ではどうするかと考えることはなかった。太宰はただ福沢を見ている。こんな時だというのにまじかにいる福沢を格好良いと思い、それから好きだと思っていた。
 触れてくる手のぬくもりが、その低いが優しい声が、じっと自分を見つめてくる眼差しが好きだと思い福沢を見てしまう。
 胸がどきどきと音を立てていた。鳴り響いていた頭の音が胸の音に掻き消されて聞こえてこない。かすんだ姿しか見えないのに勿体ないと思って目を凝らしてしまった。
 太宰と福沢が気付き不思議そうに太宰を呼ぶ。どうかしたかと問いかけてくる声。福沢の目が太宰の目を見るのに、まずいことに気付いた太宰は凝らすのを止める。
 福沢の輪郭がぼやけ、二重に重なるがもう一度凝らすことはもうできなかった。ちょっと痛かっただけですよと言うのに、福沢はすまぬと言いながらそれでも太宰をじっと見ていた。どうかしたのかと再び問いかけてくる。
「別に何もありませんが、どうかしましたか」
「お前の様子が少しおかしいように思う。何処か怪我でもしているのか。外傷はないように見えるが、確認してもいいか」
福沢の手は太宰の服に触れる。脱がそうとボタンをはずそうとしてくるのに太宰は駄目ですと答えていた。
「怪我などはしていませんよ。そうですね、少しだけ疲れているのかもしれません」
 福沢の動きが止まり、太宰をじっと見る。そうかと言いながらも福沢は納得できないようでじっと見た後に、全身を舐めるように見て来た。ゴミの山の中に横たわる太宰。薄汚れているのに銀灰の目が細まる。それでもちなどは流れていなかった。吐瀉物は体中にまとわりついている。
「随分盛大に吐いたのだな。やはり具合が悪いのか。熱はどうだ」
「かなり酔っぱらっていましたからね、耳まで真っ赤になって足元もおぼつかない様子でしたよ。意識もほとんどなかったんじゃないですかね」
 太宰の話は聞かずに福沢の手は太宰の頭に触れていた。熱くはないなと言うが、その声は安心しているものではなかった。だが冷たすぎると低くなった声が口にしている。
「まるで体温が通っていないようだ。具合が悪くなるのも当然だな。ひとまずこれを着ておけ。温まりはしないだろうが、何もしないよりはましだろう」
 福沢が肩に掛けていた羽織が太宰の体に掛けられていた。何かなかったかと福沢の手は懐を漁り、それから何かの包み紙を手にしていた。銀色のそれは恐らく菓子の類だろう。乱歩をなだめるための手段の一つとして懐に忍ばせていることは知っていた。腹に何かを入れた方がいいと福沢の手が包みを開け、太宰の口に放り込んでくる。
 甘い味が舌の中に広がっていく。忘れていた苦く酸っぱい味が喉が焼けるような甘さに混じり消えていた。ごくりと飲み込むの見届けてから福沢は腰を上げていた。
 福沢の手が伸びて太宰の体に触れてこようとする。今度の動きはただ頬に触れるだけのものではなく、太宰は私はここで寝たいのですと福沢に向けて言っていた。馬鹿を言うなと福沢が一蹴する。
「こんなところで眠ってよい訳ないだろう。体に悪いし、人の迷惑だ。私の家に連れて帰るから今日はそこで寝ろ」
「私はここがいいのです」
「いくら言おうとそれだけは聞かん。探偵社の寮がいいというのであればそれは聞いてやるが」
 福沢の目が太宰を見下ろす。話している間にも太宰は福沢に抱えあげられていて、福沢の顔がまじかにあった。どうすると見下ろしてくる目に太宰は答えず口を閉ざす。福沢の家に行くのは嫌であった。福沢の匂いが染みついたあの場所は太宰の思いを大きく刺激してくる。その場所にいるだけでおかしくなる。
 だけど探偵社の寮にも帰りたくなかった。帰ったら最後、音で敦にばれる。敦にばれたら翌日には国木田に連絡がいくだろう。そしたらきっと朝迎えに来られる。朝はまともに起きれなくなっているので来られるのは困った。それ以上にもう一か月近く帰っていない寮の部屋はいかな太宰と言えど暮らせない部屋になっていた。
 口を閉ざして固まったままなのに福沢はすでに歩き出していて、自身の家に向かっていた。落とさぬようしっかりと抱え込まれた太宰は福沢の胸の中からその顔を見つめた。少しだけ険しい顔をしている。
 何処か怒っているようにも見えるのに太宰はゆっくりと首を傾ける。何を怒っているのだろうか。考えたのは一瞬で私の事かと答えは出ていく。これからどうにか逃げなければと思うものの福沢の腕の中は心地よくて、塵の中で寝ていた時よりもずっと何かをする気になれなかった。
 もうどうでもいいやと思って目を閉ざす。体を預けると福沢の鼓動の音が聞こえてきた。

 太宰が次に目を開けたのは横たえられる感触に気付いたからであった。目を開けたのに起きたのかと福沢は聞く。固いその声は何処か悔しそうで太宰はほっと安心した。
 目を覚まさなければきっと服を脱がされて怪我をしていないか確認されただろう。怪我はしていないもののそれ以上に大きな問題があった。
「……何か食べるか。随分細くなっていた。栄養があるものを食べた方がいい」
 太宰が頷いている合間にも福沢は新たに問いかけてきた。ふるりと首を振るのにそうか。それなら明日食べようと福沢は言ってくる。食べないという選択肢ははなからないのかと知っていることを思った。
 細いと言われたがそれはきっと女になってしまったからだろう。骨格から変わってしまったから細く思えてしまっただけ。でもそれを言うことはできず。ちゃんと食べねば倒れてしまう。明日はお前の好物を用意するから夜も食べに来いという福沢を見つめる。
 見つめてくる目が鋭いのに太宰はこくりと頷いていた。
 もっとずっといてもらいたいと思うのに、早く去ってもらわなければと思っていた。
 馬鹿なことを口にしてしまいそうだから、さっさといなくなってもらいたいのに、福沢はでていくことなく太宰を見ている。福沢の言葉に頷いたのにその顔は不安そうだった。
 太宰と福沢が太宰を呼ぶ。何ですかと言った。口の中の渇きがひどかった。舌が絡んでうまく回らなかったが言葉はちゃんとでた。
 銀灰の目が見つめてくるのが、何となくだが分かっている。
「私はお前に何か知ってしまったか」
 暫くしてから福沢はそんなことを言ってきた。はいと太宰から奇妙な声が出る。小さく首が傾くのに違うのならいいのだが、どうにもお前に避けられている気がしてなと福沢は言っていた。
 あっと太宰は息を飲んでしまい、その後慌ててそんなことはないですよと口にしていた。
 どうにもなんていうのは馬鹿らしいほどに盛大に失敗してしまっていた。やはりそうかと福沢が少し悲しそうに笑う。太宰から目をそらしながら、やはり気持ち悪かったかと福沢は告げた。
 何のことだろうと太宰は思ったけれど声が零れることはなかった。喉の奥に異物が押し寄せてそれを飲み込むために消えてしまった。目の前がぐらぐらとするのに太宰は福沢を見る。何の話ですかと聞きたかったけれど、まだ冷静な部分は聞くべきでないと伝えていた。何か分からないが福沢が私に嫌われたと判断してくれたならその方がいい。
 社員思いのとても優しい人だから嫌われたと分かったのなら自然と距離を置いてくれるはずだ。本人から距離を置かれたのならそれがたとえ自分が原因でもこの気持ちもなくなるかも。
 考え口を閉ざすのに福沢はすまぬなと何度も口していた。すまぬ。申し訳ない。ごめんなと形を変えて謝りながら、最後には太宰を見てくる。
「それでも私はこれから先も貴殿に手を伸ばしていくだろう。本当にすまぬ。だけどそうすべきだと私がそう思っているのだ」
 太宰の目が大きく見開かれるのに、福沢は柔らかく微笑んでいた。


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