あの日の記憶

 何をしてるんですか??

 敦の驚いた声が探偵社に響いたのはある日の終礼間近だった。隣には入水をしていた所を敦に見つかり連れ帰られた太宰がいる。その太宰も目を丸くして部屋のなかを見ていた。
 いつもならば皆がそれぞれの机で真面目に仕事をしているか、そろそろ帰り支度を始めているか。なのだが、今日は何故か皆、社長室の扉の前に集まって耳をそばだてていた。
 ええ、と戸惑う敦。彼に向けてしぃと一斉に立てられる人差し指。余計混乱する敦を脇に太宰が皆のもとへ近付いていく。慌てて敦も音を立てぬよう気をつけ後をついていた。
「何かあったのかい」
 潜めた声で問う。それがと皆、眉を潜め社長室の扉を眺める。
「社長の昔の知り合いが今、来ているんだよ」
「社長の? それでどうしてこんなことを……」
 敦が訪ねた。眉を潜めたままの皆は言いにくそう口ごもる。それがと誰かが言いかけたが、しぃと今度は太宰が唇の前に指を立てた。
「もうでてくるみたいだよ」
 太宰の言葉に皆はっとして社長室の中に意識を向ける。椅子から立ち上がる音が聞こえてきていた。慌てて自分達の机に戻ろうとする。戻りきる前にがちゃりと音を立てて扉が開いた。不自然な体制になりながらも聞き耳など立てていませんでしたと精一杯アピールする探偵社の皆。扉からでてきた男が彼らをちらりと見回していく。
「探偵社ってのはどうやらこそ泥みたいな奴らの集まりらしいな。福沢、お前もっと良い奴雇ったらどうだ」
 鼻を鳴らした男が嘲るような目をして吐き出していた。探偵社内の空気がざわりと動く。自分達の行動があまり誉められたものでないことは分かっていながら、男の姿に怒りが沸き上がる。睨み付けてしまいそうになるが、低い声が聞こえてそれどころではなくなっていた。声を聞いただけで背筋に冷たい汗が流れ落ちていく。
「余計なお世話だ。さっさと帰ったらどうだ」
 男の後ろから部屋をでてきた福沢からは全員分の怒りでも足りないほどの殺気が漏れていた。ぎろりと男を睨む瞳は何時にもまして鋭い。ひゅっと探偵社の者は息を飲み一歩も動けなくなる。男はへいへいと軽い声をあげるだけだった。
「そうさせていただくよ。こんなところ長くいたら気分悪くなるぜ」
 でていく男がもう一度だけ探偵社を見た。その目が一瞬丸く見開いたことを凍りついていた社員も、男から視線をそらしていた福沢も気付くことがなかった。
気付いたのはただ一人。
その人物が冷たい眼差しで男を見ていたことも誰も気付かない。


 ごろんと鈍い音を立てて畳の上に酒瓶が倒れた。倒れた酒瓶は転がりからんと他の酒瓶にぶつかる。少し残っていたのだろう。畳を瓶から漏れた酒が濡らしていく。その事を気にすること無く福沢は持っているジョッキの中身を一気に飲み干していた。机の上に置いてある瓶から酒を注ぎまた飲み干す。二杯目を入れたらもう空になった酒瓶を畳の上に乱暴に置く。倒れたそれはまた音を立てて転がっていた。
 ジョッキの中の酒を見下ろす。電灯の光を写した水面の中に微かに福沢の顔が写っていた。どう贔屓目に見ようとしても荒れているとしか思えない顔に舌打ちが落ちる。喉を鳴らし飲み干していく。机の上にまだまだある瓶に手を伸ばした。その手が瓶ではなく柔らかなものに触れる。
 見れば福沢の手を白い手が掴んでいた。腕に巻かれた包帯。見上げていけば癖毛の髪、そして褪赭の瞳が目にはいる。
太宰、と福沢がその人を呼んだ。来ていたのかと問う。太宰はゆったりと唇の端をあげた。
「何を、考えているんですか」
 褪せた目が福沢の瞳を覗き込む。薄く開いていた口がその問いに閉ざされた。探偵社の者、殆どが見たこと無いような暗い眼差しを福沢がしている。太宰がその目を見るのも始めてだった。そんな目をするのだと、顔にはださず驚いている。
「夕方の男の事ですか」
 深い皺を刻んだ眉間が小さく動いた。ますます強く閉ざされていく口に太宰はことりと首を傾ける仕草を作る。ふわりと浮かべた笑み。
「社長の昔の知り合いらしいですが……、どういう関係なんです」
 すぐには答えは返ってこなかった。引き結ばれた唇は何分経っても強く合わさったまま。問いに答える意思を見せなかったが、太宰はそんな福沢をずっと見続けていた。小首を傾けたまま見つめ続けられる。折れたのは福沢だ。
「元、仲間だった」
 言葉が小さく落ちていく。太宰はさらに問いを重ねる。
「と言うと政府に雇われていたときの?」
「ああ」
「仲悪そうでしたね」
 ぎしりと歯を強く噛み締めあっている音が閉ざされた口から聞こえてくる。ふわりと笑う姿に福沢の目元が少しだけ緩んだ。それは泣き出すような変化だった。
「奴とは昔から合わん」
 ぼそり。溢せばどうしてですと太宰は聞く。太宰。もう止めてくれそんな思いで福沢が名を呼ぶも太宰は笑っていた。にっこりと美しい笑み。柔らかで優しげにも見えるその奥に何かがあるのを感じ取ってしまう。
 福沢の重い口が開いた。
「奴は……人を楽しそうに斬るのだ。奴が人を斬るのは大義とか正義とかそんなもののためではなかった。人を斬ることが好きだから人を斬るのだ。私は、それが嫌いだった」
 昔のことを福沢は思い出す。
 政府の剣士として人を斬っていた頃、殆どは一人でやることが多かったが、時折誰かと行くこともあった。男とも何度かある。男が人を斬る姿は良いものではなかった。一太刀で殺した後に何度も切り刻むこともあればその逆もあり福沢は男が人を斬る姿を見るのが嫌いだった。何より人を斬るときに浮かぶ男の笑みが嫌いだった。
 人を斬ることを心の底から楽しんでいるものの笑み。男の事を異常者だとずっと思っていた。
「だが……」
 気付いてしまった。福沢の口許にも男と同じものが浮かんでいたことを。福沢も男と何の違いがないことを
「同族けん……、いや、すまない。やはり何もない。どうも今日は酔っているみたいだ」
 溢しかけた言葉の途中、目の前の太宰の笑みにほんの少しの陰りが見えた。それが僅かに残っていた福沢の理性を動かす。何とか全てを口にする前に言葉を止め福沢はそっと目を伏せた。こんな話をこの子の前ですべきではなかったと後悔する。
 空のジョッキが目にはいる。そこに太宰の手が入り込んできた。
「まだ四本しか空けていませんよ。貴方らしくもない」
「……」
 くすりと柔らかく笑う声。口を閉ざすと下から太宰の顔が覗き込んでくる。美しく笑う顔。冷たい手が福沢のほほを撫でていく。
「社長、あの男と貴方は似てなんていませんよ。同族だなんてとんでもない。私が保証いたしますよ」
 赤い唇が優しく音を紡ぐのに銀灰の目が太宰を捉える。
「太宰」
 聞いたこともないような弱々しい声が福沢から聞こえる。太宰がゆったりと笑いその首筋に腕を伸ばす。
「ねえ、嫌なことは良いことをして忘れてしまいましょう」
 赤い舌が囁く。アルコールの匂いがする冷たい唇が唇を塞いだ。背中に畳の感触を感じる。ああと、声を溢した太宰。その瞳が福沢ではなく電球を見上げた。
 人生、何が起こるか分からないものだ。
 ぼそりと口のなかだけで彼が呟いた言葉。それが福沢に聞こえることはなかった。


 
 翌日の夜、太宰はどこぞのホテルの一室にいた。ベッドの縁に腰掛けながら感情の一切を消し去ったかのような目で探偵社に来ていた男を見上げている。
「まさかお前が生きていたとはな」
 男が感慨深そうな素振りをして太宰に話しかけた。太宰は鼻をならした。
「それはこちらの台詞ですよ。とっくに殺されでもしているだろうと思っていました」
 はんと男が喉の奥から笑う。生憎だったな。俺はそんな弱くねえんだよ。口を釣り上げた男を見る目が嫌そうに歪んだ。次に何を言うかが分かってしまった。
「どこぞの臆病者と違ってな。一騒動起こす前に顔だけ拝んでやるかと思ってたが、まさかお前が彼奴の会社にいるとは思わなかったぜ。
 よくいれるもんだ」
 クックッと笑い声は太宰には聞こえていなかった。ただじっと男の次の言葉を待っている。歯が唇を噛み締めていた。皮膚を今にも突き破らんとするほどの力がそこには加わっている。
「やっぱお前は普通じゃねえよ」
 男が太宰を見る目は人を見る目ではなかった。
「両親を殺した男の元に平気な顔をしていられるんだからな」
 つうと赤い筋が太宰の唇から流れ出していく。睨むように見つめる太宰を男がニィと笑った。その事をと太宰の声が聞く。甘さのある高い声ではなく何処までも冷えきった低い声だった。
「あの男にはまだ言ってねえよ。安心しろ。だけど黙っていて欲しいならそれ相応の態度って奴があるんじゃないか?」
 太宰は何を言われるのかを分かっていたようにゆっくりと腰かけたベッドの上に倒れていく。男が太宰を見下ろす。何が望みだ。低い声が聞く。決まってんだろうと楽しげな声が返した。
「俺の望みは今も昔も変わらねえ、人を切り刻むことさ。その為にゃ今の世界は退屈だ。一人でやるつもりだったがおまえがありゃあこれほど楽なことはねえ」
 男の手が太宰の首に伸びていく。細い首を掴みゆっくりと締め上げ始める男の顔は愉悦に満ちていた。
「この横濱を戦場にしてやろうじゃないか」


 好きと言われた日の事は良く覚えている。
 良く晴れた日、縁側に二人で座っていた。ぼんやりと眺めていた福沢の家の庭。特に手入れはされておらずそこには何もない。ふてぶてしい猫たちがだけが居座っていた。我が家のように寛ぎ体を伸ばしている猫たち。身繕いしている者までいる。
 そんな猫たちをニ人無言で眺めていれば、一匹の猫が近付いてくる。体をしならせぴょんと高く飛んだ猫は見事、太宰の膝の上へと着地した。驚きながら受け入れた太宰は猫を乗せたまま庭を眺める。暖かな感触を感じていた。ごろごろと膝の上でなく猫。お腹をびろんと見せ付けている。庭を眺めながら太宰の手は柔らかなそこを撫でてた。ご機嫌な声が耳に届く。下を向いた。
 にゃんにゃんと嬉しげな猫に自然口許が綻ぶ。猫を撫でる手の動きが変わっていく。
 猫を見下ろしていた。その時にその声は聞こえた。
「……好きだ」
 ぼそりと落ちたその声。福沢をみる。驚いた顔をした福沢がそこにはいて。口元を抑え固まっている。
「可愛いですもんね」
 珍しい。思いながら再び猫を見下ろし太宰は肯定する。にゃあんとそんなつもりはないだろうが猫は可愛さを見せ付けていた。
「そう、だな」
 福沢から聞こえた声が揺れている。太宰が不思議に思い見上げ直すと、所在なさげに福沢の目が下を彷徨っていた。猫をみているようにも見えるが、見ていない。猫の話ではなかったのかと気付く。では、何の。一度辺りを見回したがそれらしいものはなかった。首を傾けそうになってしまう。俯いた福沢が腰を上げていた。サンダルを履き猫達のもとに向かう。その腕を太宰の手が取った。
「社長……」
 見上げれば福沢の耳元が赤くなっていた。
 褪赭の目がじっと福沢を見上げる。すまないと福沢の薄い口から声が聞こえる。
「言うつもりはなかったのだが……。忘れてくれて構わない。もしお前がそう見られるのが嫌ならば私もこの思いをなかったことにする……」
 ああ、やっぱりそうなのだ。太宰が思う。福沢の目をじっと見ていた。
「すまなかった」
 再度謝られる。太宰はなにも言わなかった。何も言わずに立ち上がり目蓋を閉じる。太宰と戸惑った声が聞こえてきた。そっと福沢の元に近付いてそして唇を重ねる。
 息を飲む音が聞こえた。
 何故あんな事をしたのか。単純でそして複雑だ。
 一つは何と言えば良いのか分からなかった。伝えるべき言葉を見つけられなかったから変わりに行動を移した。もう一つもまた分からなかったから。どうしたいのか分からなかった。
「太宰」
 どうしてと、聞いてくる声。唇を重ね、抱き付いていく。サンダルを履いていない足が地面につきそうになる。支えた福沢が困ったように太宰を見ていた。
「……好き、だ」
 別の言葉を言おうとして、飲み込んだ福沢。ふわりと柔らかな笑みを作りながら太宰は背に回した腕を強くする。
 好き、だなんて思ってもいないのに、それでも太宰は福沢と付き合うことになった。
 思い出して太宰は結局分からなかったなと思った。
 あの日から数年福沢と付き合ってきたが、太宰は今も福沢を好きとは言えない。なんであんな選択にでたのか。それも分からない。あの時沸いた安堵に似た何か。掴んでおかなければと思って手を伸ばしたけど、どうしてそんなことを思ったのか。
 付き合っていれば分かると思った。でも分からなかった。どうしてあの時、嘲笑を感じることがなかったのかすらも分からないまま。
 あの時まで確かに太宰は福沢を嘲笑って生きていた筈なのに……。
 ごそりと狭い布団のなかで寝返りを打った。とんとぶつかるのは布団ではない温もり。空気が動き、覚醒する気配がした。
「どうした……。眠れないのか」
 半分も開いていない目蓋。落ちそうになるのを何とか持ち上げながら福沢が問い掛けてくる。一緒の布団に入っている太宰の体を抱き寄せ強く抱き締める。腕のなかに閉じ込められいえと太宰は答えた。眠りたくないだけですよ。甘い声が囁く。ぴくりと福沢の目蓋が震える。
「話でもするか」
「福沢さんは眠いのでしょう。寝ていて良いですよ」
 眠たい者特有の少し舌足らずで熱っぽい声。そんな声で提案してくる福沢に太宰はくすりと笑った。重たい気持ちのなか一滴爽やかなものが垂れていく。
「だが」
「大丈夫ですよ。貴方が眠っている姿を見るだけでも充分楽しいですから」
 何もなかった目元に何時ものような皺がわずかにできる。むずる子供がごとく起きようとする福沢の頭を太宰は手を伸ばして撫でた。
 大丈夫ですよ。眠ってくださいと子守唄のように囁いていく。眉を寄せた福沢が小さな声で太宰に聞いた。
「一人で寂しくはないか」
 一瞬だけ息が詰まる。もう気にすることもなくなったのに昔の事を思い出してしまったからか、沸き上がる感情。それを圧し殺して太宰は頭を撫でる手を頬へと移動させた。
「大丈夫ですよ。貴方がここにいるから」
 口にしながらそうだ。ここに貴方がいると太宰は確認する。ちゃんとここにいると。なら、良かったと呟いた福沢の目蓋が完全に閉じた。程なく聞こえてくる寝息。昼間は滅多に消えることない眉間の皺が今はなくなっていた。見ているだけで眠気を誘うような穏やかな寝顔をさらしている。太宰の指先が頬から眉間を辿っていく。
「人生不思議なものですよね。貴方のこんな顔を見られる日がくるだなんて」
 福沢に届いていないことを知った上で太宰は独り言を溢す。
 誰にもいえない、きっと言う日が来ることもない独り言を。
 目の前の穏やかな寝顔にほぅと息が落ちていく。悲しいものなのか、幸せなものなのか。それすらも太宰にはずっと分からないでいる。
「貴方が私を一人にしたくせに、それなのに……」
 眉間に触れる指先に僅かに力がこもった。握りしめた手のひらが小さな痛み訴える。穏やかな福沢を見ながら、それとは真逆の顔をした福沢を思い出していた。
 血に濡れて鈍った刃のような険しい目をしていた。手に握りしめていた剥き出しの刃よりもその顔のほうがずっと誰かを切り刻むような恐ろしさがあった。赤に濡れた銀の髪。
 恐らく探偵社の誰も、あの乱歩ですらも見たことのない福沢の姿だ。
 太宰はその姿を見たことがある。太宰が探偵社に入るよりずっと前、マフィアにだってまだなってなかった。
 誰も、福沢すら知らない、覚えていない二人の真実。二人が出会ったのはもうずっと前の事。太宰がまだ十歳にも満たなかった頃だ。
 その頃、福沢は天下五剣と呼ばれ政府のもとで人を斬っていた。政府に仇なすもの、そして政府に巣食っていた負け戦を無理矢理続けようとしていた愚か者たち。そんな相手を福沢は斬り、そして今のこの平和の世界に貢献してきていた。彼はその時代の事を何より嫌っているが。
 太宰の両親を斬ったのもまた平和のためだった。
 太宰の両親は戦争を続けようとしていた派閥のなかでもかなりの過激派であり、そして中心的な人物だった。だから政府からの暗殺命令が福沢に下された。
 福沢はそれを完璧にこなした。太宰が三人のもとに辿り着いたとき既に両親は死に絶えていて生きていたのは福沢だけ。福沢は驚いた顔で幼い太宰を見た。
 お前はと呟いた声。その反応を見て太宰は己がどこにも存在していなかったことを知った。でも何も感じはしなかった。太宰の手が血に濡れた福沢に伸びる。刀に小さな手が触れるまで福沢は呆然と太宰を見ていた。握り締めれば皮膚が斬れ血が流れていく。
 それを太宰は首に当てていた。
「ぁ、こ、……ころ、ぉ……ころしてください」
 初めて口にした声。喉を上手に震わせることが出来ず歪な声になった。鋭かった銀灰が僅かに見開いてちょっとの丸みを帯びる。何をと問い掛けてきた声もまた震えていた。
「殺して」
 呟けばまた見開く目。
「お前は何を言っているのだ」
 福沢の問いに答えることなく太宰は首筋に当てていた刃を動かしていた。皮膚が切れ首筋からも血が流れていく。手に力を込める。だけどそれ以上動かすことは出来なかった。刀を持つ福沢が止めている。福沢の手が太宰の肩を押した。小さく細い体が床に強打される。すまぬと慌てて聞こえ声。起き上がる太宰は福沢を見上げる。
「殺して」
 願いを口にする。殺さぬと福沢からは返ってきた。
「お前を殺すことは私の仕事のなかにはいっていない」
「でもみた」
 太宰の言葉に福沢の呼吸が乱れる。早くなった動悸。息を飲み込むのをみながら殺してとまた呟く。殺さぬと福沢の声。私は殺さぬとそう言い終えて福沢は逃げるように屋敷からでていた。今思うにあの時には既に福沢は自分の有りように疑問を覚え始めていたのだろう。だから仕方のないことだったのだろう。
 でもその行為が太宰にとっては大きな絶望だった。
 太宰は両親を殺されたことについては今も昔もどうとも思っていなかった。両親に対する興味が欠片ほどもなかった。今となっては顔も名前覚えていない。覚えている姿があるとしたらそれは福沢の下、胴が斬られ首が跳ねられていたその姿だけだ。
 本当にどうでも良かった。
 それなのに忘れられなかったのはその時抱いた絶望のせい。
 福沢がいなくなった屋敷のなかで太宰は絶望した。死ねなかったことに。置いていかれ一人になったことに。
 それまでの太宰の世界は小さな世界だった。父と母、痛みと策略しかない世界。それ以外のものを知らない。だけど知っていることがあった。それは外の世界のほうが今生きている世界よりもずっと苦しい世界だと言うことだ。
 そんな外にでるぐらいなら太宰は死にたかった。消えてしまいたかった。だけど、太宰は生きてそしてその傍には誰もいなかった。
 嫌だと初めて沸いた思い。嫌だと叫びたかった。
 だから時がたって再び福沢を見た太宰が抱いたのは間違いなく嫌悪だった筈だ。嫌悪し探偵社の社長と言う肩書きを笑った。人を殺していた癖に今さら善き人の振りをするのかと。心ある男など嘘ではないか。あの日、私を見捨てたくせに。沸き上がった思いは鮮明で憎らしくさえ思った。
 それでももう過去の事だったから口にすることなく胸のなかに太宰はしまいこんだ。そして、探偵社の社員として生きだし……気づけば隣に福沢がいた。
 大丈夫かと産まれて初めて頭を撫でられ、お前はもっと気楽に生きて良いと優しい言葉を掛けられる。
 また怒りと憎しみが沸いた。
 両親を殺したくせに。そして私を一人置いていた癖に。あの後私がどんな目にあったのか知りもしない癖に。いっそ言ってやろうか。全部。思いもしてそれでも言わなかった。ただずっと心のなかで笑っていた。
 あの日までは……。
「どうして……」
 太宰から小さな声が溢れ落ちていく。
「あの日私は貴方の思いを受け入れたりしたんでしょうね……。貴方の傍にいたらその理由も分かると思っていたのに結局分からないまま……。分からないまま、もう」
 呟く太宰の手から力が抜けていた。力が抜け、布団の上にだらりと落ちる。少し動かせば福沢に触れられる距離。頬に指の先だけをつける。
「貴方はずっと思い出さないでくださいね。何があってもずっと」
 


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