「好きな人ができたんだ」
  静かな時間が流れる落ち着いた店内。その中でぽつぽつと話していた会話が突如落とされた爆弾で止まった。呼吸すらも止まったのではないか。そう思うほど坂口の耳からはすべての音が消え去っている。
 あるのは落とされた爆弾一つ。それだけが壊れたレコーダーのように何度も坂口の脳を回り続ていた。 
 その言葉の意味を理解したくなかった脳が拒否反応を起こしているのだ。
「好きな人ができたんだ」
「そうか。おめでとう」 
 数分の間、反応がないのに不満を覚えたのだろう。もう一度言われる言葉。それに答えたのは坂口ではなく反対にいる織田だった。淡々と言われた言葉に爆弾を落とした人物は嬉しそうに笑う。
「うっふふ。ありがとう。私の初恋なのだよ」 
「それはよかったな。どんな人なんだ」
「とっても素敵な人」 
 うっとりとした目で呟く。その頬は赤く染まり恥ずかしそうにくねくねと体を動かしている。両手を頬に当てて凄く強くてカッコいい上に優しくて骨抜きなのだよ。とか言っている姿はまさに恋する乙女。何も知らぬ人が見たら思わず応援したくなるような素振りではあるが、坂口は未だ現状が理解できぬままだった。 
 ほう。いい人なんだな。なんて簡単に呟ける織田の神経すらも疑ってしまう所だった。いや、こういう人なのだとは分かっているのだがそれでも落とされた爆弾の威力は大きすぎた。
 何せその発言をした人物。今も恍惚とした表情でその好きになった人の事を語る人物はあの太宰治なのだから。 

 太宰治。坂口と織田の飲み仲間にして、弱冠十六にして横浜を牛耳るポートマフィアの五大幹部にまで上り詰めた少女。「太宰の敵の不幸は、敵が太宰であること」などという言い回しさえも存在するほどの恐ろしい存在だった。だがそうでありながら自殺癖などと一般には理解できない趣味を持ち、生きていることに執着するどころか辟易している。そんな素振りすらある少女だった。 
 ようするに恋なんていうものからは遠くかけ離れた、むしろ無縁とも言っていいほどの位置にいる少女から突然好きな人がいると言われたのだ。
 驚かないはずがない。太宰の事をよく知っていればいるほど彼女が正気なのか疑う所である。 
 我に返った坂口も真っ先に太宰の正気を疑ったが悲しきかな。今までの会話の受け答えもしっかりしており特にこれと言った変わった仕草は見られなかった。いつも通り正常。まあそのいつも通りでさえ多少怪しい所はあるもののそれでも薬でも飲んでおかしくなっているわけではなさそうだった。 
 まさか本気なのかと疑いのまなざしで坂口は太宰を見やる。いまだ恍惚の表情で好きな人のことについて語り続けている彼女。その持前の美貌のこともありよく見知っている坂口でさえ可愛いと思いかけるほどのものであった。
  そしてそれゆえにあ、これは本気だときづいてしまった。 
 本気で恋をしているのだと。頭を抱えそうになるのをこらえて右から左にと聞き流していた太宰の話を聞く。とはいっても特に意味のあるような話ではなかった。ただただカッコいいを繰り返し言い続けている。そのほかにも猫好きでかわいいとか、添い寝して貰ったのだけど暖かくて熟睡してしまったとか撫でるのがうまいとかそんな話も間にちらほら入っているが概ねはカッコいいだ。最初のうちに骨抜きなのだよとか言っていたがまさしくその通り。骨抜きにされているようだった。語る目がハートだ。
「もう大好き。好き」
  声も蕩けきっていてとてつもなく甘い。ここに自分たち以外がいなくてよかったと坂口は心から思った。もしいでもしたら今の声やら表情やらで太宰に岡惚れする輩がでてきたことだろう。付き合いもあり太宰の事をよく知る坂口でさえもちょっと惚れかけたぐらいだ。いつも太宰の突拍子もない発言をクールに受け流しているマスターもちょっぴり顔を赤らめている。この場でいつも通りを保っているのは織田ぐらいだろう。つくづくこの男は凄い男だと坂口は関心すらする。それとあの太宰をここまで骨抜きにした男というのにも興味を抱いた。どんな人物か詳しく知りたいところだが太宰の話からでは要領を得ることができなかった。何せカッコいいしか言わない。初恋だという話だし相当舞い上がっているようだった。
 「で、どうやってその人と出会ったんです」 
 好奇心を抑えられなかった坂口は仕方ないのでこちらから話を聞き出すことにした。使いたくない手ではあった。何せ延々と同じことを話し続けるその様子を見る限り、出会いなど語らせようものならそれこそ二三時間はかかることになるのだろう。だがそうなったとしても太宰を落とした相手の事を聞いておきたい気持ちを抑えることはできなかった。一体どんな人物であれば太宰を落とすことができるのか。 
「ええ、聞きたいの。もうそれ聞いちゃう。でも織田作に安吾の二人になら特別に話しちゃおうかな。あーー恥ずかしいのだよ」 
  聞いたことを少し後悔しながらも話し始めた太宰に坂口だけでなく織田も熱心に聞き始めた。密かにマスターも聞き耳を立てているのが分かる。無口でこういった無粋なことはしない男であるが、さすがにあの太宰の初恋には興味を惹かれるようだった。       


 始まりは雨の日だった。いつもと同じように川を流れてずぶ濡れのまま雨に打たれた。どうせ濡れていたから今さら傘をさしても無駄だと思ったのもあるが、何より冷たい雨に打たれていたかった。
そんな気分の日だった。
 容赦なく体温を奪う雨に打たれ続けて体は極限まで冷え切っていく。指先一本動かすのが億劫で足の力もいつの間にか抜けて夜の闇の中に座り込んでいた。 
 小さな公園だった。帰り道の途中目に入り何気なく中に入った。入ってすぐ思ったのは自分には似つかわしくない場所である。そんなことだった。子供たちが遊ぶ遊具が並ぶそこは夜の中で見ても自分のいる世界とは違っていた。早くこんな場所から立ち去らなければと思いながらも足は動かなかった。 
 雨音だけが耳奥に響く。 
 随分長いことそこにいるうちに地面に直接座り込んでしまい下からも熱を奪われていた。帰らなければと何度も思いながら動けないまま、そうしているうちに意識だけでなく体すらも動けなくなっていた。明日部屋に帰ってない自分を誰かが探しに来るまでこのままだなと冷静に判断しながら雨に打たれる。 
 冷え切った体。 
 このまま凍死なんてできたら幸せなのになんて考えた。
  手をおいた腹がどくどくと脈打った気がした。
  思考すらももうしていなかった。ただ静かに何も見えない聞こえない中で命の灯火が消えるのを待っていた。目も閉じてないのにすべてが真っ暗だった。 
 唯一分かるのは肌をうつ水の感覚、奪われていく体温だけ。
  なのに不意にそれすらも止んだ。服に染み込み纏わりつく水は体温を奪っていくけれど、痛いほどに肌を叩いていた水の感覚は途切れた。
 ああ、雨が止んでしまった。暗闇の世界でそれを残念に思った。失っていた音が色が徐々に戻り始めて、首を傾げることになる。
 まだ雨の音がしていた。ざあざあとざあざあと降り注ぐ雨の音が。ならなぜと自分が今いる世界をみた太宰はその理由に気づく。傘が自分から雨を奪っていた。 
 目に入る落ち着いたグレーの色をした大きめの傘。そしてそれを差し出す見知らぬ誰か。その誰かを視界に収め、口を開こうとして閉じた。何かを言うのが億劫だった。
「何をしている。傘は持っておらぬのか」 
 代わりに見知らぬ誰かが問いかけてきた。それにも口を開かなかった。何をするのも億劫でこのまま死にたかった。明日の朝になれば死んでいるのではないかそんな淡い夢を見ていたかった。答えぬのに見知らぬ誰かの顔が少し歪んだ。だがそれに不快さは感じず妙な男だとぼんやりと思う。 
「このままでは風邪をひく。近くに私の家がある。来るとよい」 
 手を差し伸べて告げる誰かをただ見つめる。口を開きも腕を動かしもしなかった。妙な男だとだけ思った。見ず知らずのどう見ても厄介そうな女を拾おうなど妙な男だと。もしかしたら自分の体が目当てなのかもしれないと考えた。今日はいつもと違い露出の多い格好をしているうえ、水に濡れて張り付いている。さぞ男好みの下品な格好になっているのだろうと思いながら酷くされるならそれもそれでいいのかもしれないと思った。 
 壊れるぐらいに乱暴にされるならそれでも。今の自分の体調ではそれで死ぬかもしれないがそれはそれで素敵だと。 
 差し出された手を取ってもいいかなと思いながらでも体は動かなかった。腕一本動かす体力すら奪われてしまっていた。ぴくぴくと指が痙攣するように動くぐらいだ。座っている体力すらもうなくなりつつあった。
  差し出されていた手が目の前から消えた。誰かが去っていこうとしていると思って残念だと感じた。だが、まあどっちでもいいかと思いなおす。ここでこのまま体温を奪われ続けようが、酷くされようが行き着く場所が同じならどっちでも同じことだ。 
 また世界が真黒になろうとしていた。 
 だけど太宰が考えていたようにはならなかった。去っていくと思っていた誰かは去っていかず雨は戻ってこない。冷えた体を守るように羽織がかけられた。誰かが羽織っていたものだ。黒色のそれからわずかにぬくもりが伝わる。だがすぐに水に奪われ消えていく。何のつもりだとゆるく誰かを見上げるのとすまぬという声がかけられたのは同時だった。 
 温かな何かが触れたと感じた時には視界が回った。じかに感じていた地面の冷たさがなくなり変わりに感じるのは暖かさだった。誰かに抱えあげられていた。器用にも太宰を抱えながら傘をさす。だがやはり持ちにくいのかほんの少し誰かの肩が傘からはみ出していた。びしょ濡れだったこともあり濡れていなかった誰かの着物まで濡れていく。ギュッと力強く抱えられて誰かのぬくもりを強く感じる。そしてその分だけ誰かは体温を奪われていく。
  妙な男がだとまた思った。 
 足早に男は歩いた。近くに家があるといっていたそこに行くのだろう。考えるのも億劫で好きなようにさせた。どうなろうとよかった。 
 誰かは家につくと抱えた状況で器用に鍵を開け引き戸を開くと傘を放り捨て下駄を荒々しく脱いだ。戸も開けたまま家の中に入っていく。随分とせっかちな男だと思った。
  一つの部屋に入ると抱えていた太宰を降ろし、棚に置いてあった毛布を掛ける。七輪に手早く火をつければ湯を沸かしてくるといいおいて出ていてしまう。ああ、なんだすぐにするのではないのかと思うと少しばかり気分が落ち込む。戻ってきた男は両手にバスタオルなどを抱えておりそれらすべてを太宰に被せた。直に湯が沸くそれまではそれで我慢してくれと誰かが言うのを訳も分からずに聞いた。じっとしている太宰に誰かの手が伸びる。温かな感触が頬を包んだ。節くれだった温かな手は熱を分け与えるように太宰の頬に触れると次は冷え切った手を握った。感覚すらわからなくなっていたが触れるぬくもりは感じ取れた。 
 すまぬなといいながら誰かは強くその手を握り締める。自分の熱をもみ込むような握り方だった。冷えた手が温まりほぅと息を吐いた。目の前の誰かが目元を緩める。少し待っていろそう言い終えて手を放す誰かぬくもりが消えていくのがほんの少し寒く感じた。誰かはすぐに帰ってきた。手元に湯気の立つ茶飲みを持っておりそれを渡される。飲めということだろう一瞬毒の可能性も考えたが躊躇わずにそれを飲む。何がどうなろうがよかった。暖かい液体が喉を通過して胃へ落ちていく。ただのお湯のようにも思えたがどうやら砂糖が入れられていたようで甘い味が広がった。体の中が温まっていく。
  しばらくそうしていると誰かは唐突に立ち上がりまた抱えられた。その状態で浴室にまで連れていかれもうもうと湯気の上がる湯の中に入れられてしまう。温まり始めていた体は熱い湯に入れられたことで体温を取り戻す。動けなかった指が腕がいう事を聞いて動き出すようになっていた。 
 ほうと誰かが息を吐いた。安堵したのが伝わる。立ち上がった誰かはゆっくりとつかれといい出ていく。服は隣に籠があるから後でそこに入れておいてくれと閉まったドアの向こうから聞こえてああ、そういえばまだ脱いでいなかったことを思い出した。 普通なら真っ先に脱がすものだろうにどうしてだろうかと考えたのは少しの間だった。視線を動かして自らの状態に気付いてしまえばああとなっとくのと息を落とす。張り付いた服の隙間からつけられたばかりの痕が覗いていた。
  ここまできて太宰は抱かれることはなさそうだと漸くまともな判断ができた。抱くにしては接し方がおかしい。まるで欲を感じない。病人を看病しているだけという感じだ。 
 妙な男だと思考が回りだした頭で思う。それまではぼんやりと回らない頭の中思っていただけだが今は違う。はっきりと思う。傘を差し出したところからすでにおかしかった。抱くためかと判断したもののそれでも普通あんなところで座り込んだ訳ありそうな女に声をかけたりはしない。その上太宰のほうに傘を差し出したせいで誰かの体の半分はあの時すでに濡れていた。その後触れてきた手はどれも優しくて乱暴にする素振りも見せない。どこぞの誰かもわからないのに伝わってくるのは心配の色だけだった。 
 かなりのお人よしと見るにも行き過ぎだろうと思うほどだった。少なくとも自分には決してできない。
妙な男……。そう呟いた
 


 その後風呂から上がると扉の外には男のものではあるが寝巻き用の着物が一つ置かれていた。それを着込んで部屋に戻れば誰かは暖まったかと確認をとる。すまないと言いながら頬に触れ、手を握る。十分だなと目尻を下げた誰かが言い座って待っていろと言い残してまた何処かに行ってしまう。見ず知らずの他人を簡単に放置して無用心だと考える。きっと自分とは違う世界の人間なのだと。早く帰ろうとようやっと思えたところで誰かが盆をもって戻ってきた。その上には二人分のお膳。湯気のたつ暖かな夕餉が乗っていた。それを卓上に並べながら誰かは話す。
「服を洗濯にかけた。乾燥機を使うが乾くまでに時間がかかるだろう。今日は泊まってゆけ」
 呆然とそれを聞いて言葉をなくす。どうしようもないほどのお人好しだと。
 断るのも面倒になってそれに頷いた。
 
 暖かな所かまともな食事は久しぶりにとった。その後案内されたのは客室だった。夜誰かがやって来ることもなかった。柔らかな布団に包まれてただ眠った
 不思議な夜だった。
 


 ニ度めの出会いも同じ公園だった。何時ものように入水をして死にぞこなった帰り何故かそこにいた。ブランコに座ってぶらぶらって揺れる。夕暮れ時の時間帯人の姿は欠片もなくて公園は相変わらず似つかわしくない場所だった。
 日がくれるのがどんどん早くなっていくこの時期雨は降ってないのに前回よりも体は冷えていた。早く帰らなければヤバイなと分かりながら帰らなかった。帰るきにならなかった。そしてそのまま一刻近くいて……お腹に当てた手が冷たかった。その冷たい手で触るその場所も冷たかった。
 ぶらぶらと足が動くのが奇跡のようなものだった。感覚はとっくの昔に消えていた。日の光すらも暖めてくれなかった。
 このままなんて願いながら目を閉じた。寄りかかった鎖からも何の温度も感じなかった。
 何だかとても眠かった。目を閉じてすぐにやって来るのは眠気だった。こんなにもすぐに眠れるのは随分久しぶりのことでやっと眠れると思った。
 世界には何もなかった。
 なのにそんな世界で不意に訪れたのはぬくもりだった。ごつごつとした固いなにかが頬に触れてそこからじんわりと熱が伝わっていく
 ゆっくりと目を開けて……見えたのは誰かの顔だった。銀灰の瞳がじっと見つめていた。
「何をしている」
 誰かの固い声が耳を打つ。答えることなく誰かを見つめる。誰かが細い息をつく。白く立ち昇るそれを見つめて太宰もまた息を吐き出した。白くなることなく消えていた見えない息を見つめた。
「来い」
 頬に触れた手が離れて変わりに目の前に差し出される。ほほが冷たくなっていくのに何故か心が小さく動いた。目の前にある手。指先だけがぴくりと揺れた。
 誰かの目が細められた。
 差し出されていた手が投げ出されていた手を掴む。火傷しそうな程の熱をそこから感じた。
 熱いと思うよりも前に男のもう一つの腕が背に回る。引き寄せられ離れた手が膝裏に回って抱えあげられてしまう。そしてそのまま誰かの家に連れていかれる。
 以前の時と同じように暖められて夕餉まで与えられて前にもまして妙な男だと思った。一度そうして良いことなどないことがよく分かっただろうにそれなのに何でまたと。
 夕餉を共に食べながら何を考えているのかが分からぬ誰かを見つめる。仏頂面と言うほどでもないが表情の乏しい険しい顔付きの男で体つきこそ細いものの存外鍛え抜かれた体をしていることは何度か抱えられた故に分かっている。無意識にだろうが気配をたっているところからもかなりの武術の達人だろう。年の頃は四十前後。玄関の感じをみると一人暮らしをしているようだが、定期的に誰かは来ているようなので子でもいるのかもしれない。読み取れるのはその程度。
 考えていることはさっぱり分からない。何故見ず知らずの者をニ度にも渡り助けるのか。暖をとらせただけでなくまたも服を洗濯し泊まってゆけと言う。そこに下心でもあるのなら理解できるのだが、生憎誰かからは下心を見つけることができない。会話もないまま黙々と夕餉をとった。数週間ぶりに食べるまともな食事は少し胃にきて前回同様かなり残してしまう。
 箸を置いた太宰にもういいのかと誰かが問い掛ける。頷けば僅かに眉がひそめられるが、嫌悪は見えず密かに首をかしげる。膳をさげる誰かに立ち上がろうとすればそこにいろと制される。言われるままにそこにいれば戻ってきた誰かが少し良いかと言ってから隣に座ってくる。夕餉の時は向かい合うように座っていて変わった並びに疑問の目をぶつける。誰かは声なきそれに答えることなく変わりに腕を持ち上げる。
 近づいてくる手と誰かをぼんやりと見つめる。相も変わらず欲の色は見えない。何をするのか分からずかっといて警戒するきもなかった。どうなろうとどうでもいいと思いながら、……
 誰かの手が至近距離に近付いて触れる。
 頭にかかる僅かな重み。髪の流れにそうように動く指先。髪の上からもじんわりとした熱が染み込んできて。
 ぼんやりと見つめるめは何一つかわらない。ただ見上げるように誰かを見つめ続ける。誰かの表情の乏しい顔は今もなお仏頂面のような顔でだけどその目は柔らかさを帯びている。何かを憂いるようなだが暖かな。
 何度も頭を撫でる手は確りとした重みと熱を感じるのに不快感は欠片も沸くことがない。ぽんぽんと跳ねるようなリズムで触られるのにも僅かな痛みもなかった。引き寄せられた胸もと囲うように回される腕からも感じるのは心地よさだけだった。
 誰かの鼓動が震えるように届いた。目頭が何故か熱をもつ。
「今日はよく眠るとよい」
 低い声が溶けるように響いた。


 三度めの出会いは別の場所。正直太宰自身何処であったか覚えてない。ただあの公園近くの何処かだったのは確かだ。
 目を開けたときそこに誰かがいた。
 今まで見てきた表情の乏しさはどうしたことかというほど目を吊り上げて顔を一面に怒りいや焦りを露にしていた。ぽたぽたと水滴が誰かから落ちて顔に当たる。ずぶ濡れの誰かを見上げて自分が入水をしていたことを思い出した。
 いつもとは違う荒々しい手が太宰を無理矢理にお越し抱えあげる。骨が軋む音がして誰かが触れる箇所が痛んだ。いつも暖かな手が今日ばかりは冷たく、だがそれでもほんのりと感じるのはぬくもりだった。
 揺れで頭がくらくらするほどの速さで誰かは町のなかを走る。連れていかれるのは誰かの家。音を立てるほど乱暴に玄関をそして襖を開いて誰かは部屋にはいる。痛みこそ感じなかったものの荒い所作で床におろされてしまう。毛布やタオルを頭からかけられて誰かは湯を沸かしにいってしまう
 何だかちょっと勿体なかった。
 湯に入れられ夕餉をともにし、前二回と同様のパターン。だが誰かはずっと険しい仏頂面のままで一言も話さなかった。
 夕餉をさげ戻ってきた誰かを見上げる。誰かがこの一刻ほどで定着してしまったのかと思うほどの険しい目元をほんの少し弛めた。誰かが太宰の隣に膝をたてて座り、頭を撫でる。頭の形髪にそうようにそっと、そして子にするようにぽんぽんと。それから頭を抱き締められる。
 鼓動の音が耳に届いた。息が震えた。



 四度目はまた雨の日。あの公園の入り口付近で太宰はしゃがみこんでいた。今日はダメだと思った。帰りたくないながらもそこにもいたくなかった。三度めの公園は相変わらず違和感でしかなく、痛む腹部がそれを助長した。
 ぎゅうぎゅうと何かを絞り出すかのように痛み続ける痛みに早く逃げたくて必死に地面をかいた。這いつくばってでもその場から逃げたかった。
 降り続ける雨により体力を奪われながらそれでも……。
 公園の外に手が出てその瞬間痛みを感じ続けていたのとはまた別の場所が何かに握り潰されたように痛んだ。止まるて。だがそれも一瞬だけ。すぐに外に出ようと足は足掻く。
 貼り付く雨水以外のなにかが額から流れ落ちていた。荒い息が雨音に掻き消されることなく響いている。
 はやくはやくと心は焦りながらも体は追い付かない。前につきだした手から力が抜けて崩れ落ちてしまう。それでも立ち上がろうと力をこめるなかで水音が聞こえた。
 降りしきる雨の音ではない水音。踏まれ跳ねる水音は雨の音に負けぬぐらい盛大にたち次第に大きくなっていく。
 ああと細い声が漏れた。崩れながらも見上げた先には傘すらも放り捨てるようにしながら走り来る誰かの姿があった。
 体から全ての力が抜けていく。
 辿り着くなり抱えあげる誰かはいつもとは違う方向に歩を進めようとする。それを止めたのは太宰だ。力の入らぬ手で誰かの濡れた衣をつかんで抵抗にもならぬ抵抗をした。足を止めた誰かが顔を歪めて見下ろす。医者にという誰かの言葉を首を降り遮る。なんどもなんども振っては言葉を言わせない。
 誰かの腕の力が強くなった。骨が軋み体が痛み。だがそれよりも下腹部が激しくいたんだ。
 一際激しい痛みに大きく顔は歪み、息すらも止まりかけた。それでもふるりと横に振る。
 誰かから歯軋りの音が聞こえた。
 再び歩をすすめだした誰かはいつも通りの道を選んだ。辿り着くのは誰かの家、荒々しく戸をあけて家のなかにはいった誰かは真っ先に風呂場に向かった。灯りもつけずに浴室に入り、誰かはコックを回す。冷たい水が二人にかかった。暗い室内、だが太宰の目には水に溶けながら流れ落ちていく赤い色が確かに見えていた。誰かにも見えたのか歯軋りの音が強く鼓膜を叩いた。
 いつしか水が湯に変わっても冷たい感覚が消えることはなかった。


 気付けばそこは浴室ではなかった。意識を失っていたらしい。全体を暖かなもので包まれながらだが顔だけはほんのりと冷たかった。頭がもやがかりながらも必死に状況を整理しようとして最初に気付いたのは背中に感じる鼓動だった。どくどくと強く脈打つそれに顔を動かせば見えたのは誰かの横顔だった。目覚めたかと問い掛ける誰かは太宰を膝に座らせ抱えるようにして抱き締めていた。感じる温もりの多くは誰かのものだった。
 誰かの腕がすっと持ち上がり、指先がまっすぐと何かを指す。
 何故だか今いる場所は部屋のなかではなく縁側だった。その理由はすぐにわかる。節榑立った指が指し示したのはこんもりと盛り上がった土にその上におかれた小さな石。
 嗚咽が漏れる。


 最初にそれに気づいた時もはや手遅れだった。相棒である男が何気なく口にしたお前最近ちょっと太ってねえかが気付くきっかけだった。食事は前と変わらないむしろ前より食べなくなっていたぐらいで太る理由が分からず嫌がらせか何かかとその時は流したが何故か妙に気になった。試しにじっくりと自分の体を見てみると確かにお腹回りが少し目立つように太っていた。自分の体型など興味もなかったから気付かなかった。
 その時にまさかと思った。
 調べてみて案の定。どうしようと途方にくれたのは久方ぶりというか初めてのことだったかもしれない。詳しいことは医者でない太宰には分からなかったが今さらどこの病院に行こうが無駄だということは分かっていた。何時からなどと正確なところ言えないが気付くのが遅すぎたことは膨らんだ腹の状況で察しがついた。
 そもそもまともな病院にかかれるはずもないのだけど……それでもどうしようと思った。
 森さんにだけは知られたくなかった。首領であり、育ての親のようなものでもあるがだからこそ知られたくなかった。おろすか産むかどっちの判断をするにしても最悪の状況になることだけは分かっていたから。
 急に重くなったように感じるお腹を抱え一人途方にくれた。真っ先に浮かんだのは産んではいけないという言葉だったのにいざ実行にうつそうとしたら腕が震えた。刃物の使い方も銃の使い方も厭というほど理解して慣れ親しんでいるのにその時ばかりは知らない何かのようだった。
 それから誰にもばれないように入念に隠しながら日々を過ごした。これでもかというほど包帯でお腹を締め付けて大きくなったそこを服のしたに隠した。
 困ったのは色の任務の時だった。幼少期からずっと与えられ続ける色の任務は幹部になった後すらもなくなることがなくそのせいでこんなことになった。腹に宿ったのは何処の誰のこかすらも分からない子。醜い血により醜い化け物の血が宿ってきっと生まれてくる子は……。
 恐ろしくてならなかった。自分の血をついだ何かが腹のなかにいることが。
だから色の任務の時も必死に服を脱がされないように振る舞った。体にある全てのものを使って男たちを籠絡させた。それでも服を脱がせようとするものは数多くいてせめて包帯だけは死守した。薄い包帯だけが身を守る術でいつの時も恐怖を覚え続けた。
 何かをこんなに怖いと思うこともまた初めてのことであった
 怖くて厭で消してしまいたくて仕方なくだが消せなかった。だから共に消そうと何度も川を流れて入水未遂を繰り返す。
 それでも自分ににて悪運強いのかなかなか消えなかった。日に日に弱っていく心と体。
 どうしようもなかった時、立ち入った公園。こんな公園で自分と子供が遊ぶ姿を想像しようとしてできなかった。似合わないなんて言葉じゃすまないほどにそれはあり得ないことで早く消えろと強く念じた。そしてそこで出会ったのが誰かだった


 誰かはなにも言わない。抱き締めてくる腕が強く暖かい。嗚咽を溢す頭を撫でる手は震えながらも暖かい。
 感情はぐちゃぐちゃに入り交じって判断できないのに、脳は冷静に事態を見ていた。そして気付いたのは誰かはずっと知っていたのだと言うことだった。それこそニ度めの頃にはすでに太宰の身に宿っている命にも、太宰の思いにも。そしてきっと太宰を取り巻く環境のことも。全てではなくても大まかに把握していたのだ。
 していたからこそ何も言わず、していながらもずっと受け入れいや手を差し出し続けた。僅かでも安らげる時を与え続けてくれたのだ。
 涙はでない。そんなものはとうの昔に枯れてしまった。それこそ生まれたその時に母親の胎内に棄ててきたようなものだ。だけど嗚咽だけは止まらずに感情だけは抑えきれずに暴れ続けた。
 誰かはなにも言わない。それなのに耳は人の声を拾う。何を言ってるのか解らない人の声を……。


 次に目を開けたときはもう朝だった。布団の中、誰かに包まれるように抱き締められて眠っていた。昨夜のことはぼんやりと覚えている。感情の奔流が収まっても動くことはできなかった。喉元は震え嗚咽をこぼし続け、掴んだ誰かの胸元から手を離すこともできなかった。
 ずっと抱き締め続けてくれた腕はこの段階になっても力強く、頭を撫でる手も変わらずに優しかった。
 落ち着いたか問いかける誰かに頷いて、ゆっくりと顔をあげた。視界にはいるのはあの墓石で思わず顔を誰かの胸元に押し付けた。優しく撫でる手。
 誰かが抱えあげて立ち上がる。部屋の中に入り戸を閉める。そして誰かは敷いてあった布団の中に太宰事入り込んだ。
 それになにも言わずただ縋った。手が痛いほどに着物を握りしめればそっと触れるのは誰かの熱い手だ。背後に回された腕はより強く引き寄せる。大丈夫だど誰かの声が聞こえた。傍にいると。
 それに安心するように気付けば意識は遠くなっていた。
 そして目を開けた今も誰かは共にいた。起きたかと誰かが問う。頷くのにでは朝餉をともにしようと誰かがいう。起き上がり、寝転んだままの太宰に手を差し出す。手を重ねれば強く握り締められた。

 その後朝餉を共にした後、太宰は帰るために玄関にたつ。その時太宰が感じたのは胸に大きな穴があくような思いだった。ここをでたらもうニ度とここには来ることはないだろう。あの公園にはもういけない。その事を思うと胸が悲鳴をあげるように痛んで真っ暗な世界に落ちていくような感覚が広がる。それが寂しさであったと理解したのは後になってだ。
 立ち去ろうと思いながら体が動かなかった。昨日とは違う感情が嗚咽となって漏れそうだった。
 それを抑えたのは誰かだった。
 誰かはたったままの太宰の手を掴む。そしてその手に掴ませたのは一つの鍵だった。
「また何時でも来ればいい。何かあっても何もなくても来たくなれば来れば良い。もうあの場で待たなくて良い」
 嗚咽が漏れた。漏れそうになっていたものとは違う何か。
 知りながらもまた来て良いという。何を言ったか覚えてないどころか知りもしないけど自分の全てを吐露したような言葉を聞きながらもまた来て良いという。手は優しいままだ。来て良いと委ねてくれる。それに対する思い、そして初めて気付いた己の気持ち。そうだ。太宰は待っていたのだ。初めて出会ったあの日偶然出会った公園でそこならまた会えるのではないかと待っていたのだ。三度めの時だってそこへ行こうとして川に流れたのだ。
 初めて触れた人の温もり。打算もなく与えられる優しさ。そう云ったものに惹かれてもう一度与えてほしくて何度も待ってしまったのだ。その度に求めた以上に与えられて満たされて心は揺れる。
 好きだとこの人が好きだと溢れた。
「また、また来ても良いの」
「ああ。いつでも好きなときに来れば良い」




 と言うのが出会いなのだよね〜〜
 甘く熱く蕩けそうな声が響く。ほぅと熱を宿した声が格好良いよねと続けて、夢見心地の顔で少女は太宰は微笑むがその周りは氷点下以下だった。あの織田ですら白い顔をして机の上の一点を凝視している。何かを言わなければと思いながら言葉は出ていかない。手にしたグラスがみっしりと音を立てるが太宰は気付かず夢の中。あれから何度かお邪魔してるのだけどいつも優しくて頭をたくさん撫でてくれるしご飯も作ってくれるのだよ。最近はあの人が作ってくれるものなら残さず全部食べれるようになってね。ちょっと肉ついてきちゃったかも。可愛くなくなってたらどうしよう。何て話を続けている。
 はぁーと息が自然と出ていくがそれにすら気付かない。みしっと一段と音がたつのと好きという蕩けた声が聞こえるのは同時だった。ぽわぽわーんといった顔をした太宰の姿は二人が見たこともない姿。 溢れそうになる息を皹のはいったグラスから酒を煽りのむことで抑えた。その時に言葉も全て飲み込めば、太宰の向こう側にいた坂口もまたそうしていた。
「そうか」
「太宰君が幸せならそれでいいですよ」
 二人の様子にも気付かなかったがその声は聞こえたらしい、夢の中から戻ってきた太宰は笑みを浮かべる。
「幸せだよ」


 そう言えばと太宰ののろけを右から左に聞き流していた坂口が声をあげた。ん?と話す事に夢中になっていた太宰も坂口を見つめ何と問い掛ける。
「いえ、出会いはよくわかったのですが、まだ相手の方の名前を聞いてないなと思いまして……何という方なんです」
「ああ、それね」
 何気なしに聞いた問いだった。ただ友の片思いの名前を知りたいというそれだけの問い。だがその問いによりその場の温度が変わった。ピンクのオーラが漂っていたのが霧散する。弛く口元をゆがませた太宰は恋する乙女ではなくいつもの太宰だ。
「知らない。知る必要がないからね」
 えっと二人から声が漏れるのに太宰は目を細める。そこにはいつもは見ることのできない太宰の感情が少しだけ読み取れた。一欠片にすぎないそれは寂しさだった。
「だって今だけだよ。こんなに恋していられるの。もう少し年を取ればいつか私は首領が決めた相手に嫁ぐ日がくるさ。それを拒否することなどできない。許されない。
 それにあの人は真っ黒な私とは違う。昼の世界で生きる人だよ。本来は私となど関わってはいけない人。でも抑えられないから今だけ……。今だけの恋。
 こんな私が普通の女の子みたいに恋ができる。それだけで私は幸せなのだよ」
 だからあの人の名前は知らなくて良い




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