天人五衰の起こしたテロ事件から数ヶ月後、福沢は夜の浜辺で立ち尽くしていた。
その目の前には太宰がいて、夜の海の中で音を歌っていた。それは外国の歌であるのか、福沢には何の歌であるのかも分からなかった。
太宰の歌声は綺麗だが抑揚がなくのっぺりとしたもので、透き通っているのか、濁っているのかすらも判別できない。
冷たい海の中、腰まで浸かりながら歌う太宰は取り憑かれたかのようにもう数十分の間そうしていて、呼び出されていた福沢は何と声をかけていいかも分からなかった。
その姿をただ見つめている。
太宰が振り向いたのは福沢が来てから時計の針が一つ回った頃だった。
海の中から太宰は砂浜に立つ福沢を見つめた。社長と名前を呼ぶ声は小さくて波の音に攫われていく。
「社長は不老不死なんでしょうか」
だが不思議とその問いは福沢の耳に辿り着き体温を奪っていた。鼓動が止まり、手の指先から足先までも感覚をなくし凍り付いていく。
褪せた目は夜の海のように深い。
何を……
口にした声は震えて波の音がなくとも届くことはなかっただろう。
「戦いの最中、私には貴方が死んだように見えました。でも貴方は生きて、与謝野さんの治療を受けていないにも関わらず怪我一つ残っていない。
それは貴方が不老不死だからなのではないでしょうか」
荒唐無稽なことを口にしている。でもそうは思えなくなるほどその目は真っ直ぐに福沢を見る。
冷たくなっていた指先が痙攣した。喉が勝手に鳴っていく。
「そんな事あるはず」
「私には教えられぬことですか。
伝えてはなにかまずいのですか」
太宰の身体が後ろへと下がっていた。待てと追いかける。夜の海は何が起きるか分からない。それにそれ以上、深くは……
だが福沢の足は止まる。
波が冷たく絡みついていた。
褪せた目と銀の目が合う。
海は全てを飲み干そうとしている。
「そうだ。私は不死だ。
でも不老ではない。数百年かけて少しずつだが成長はしている。
いずれは老いるだろう」
風が吹いていく。
強くもないが弱くもない。草葉を揺らすような風。波打つ月の表面がわずかに変わる。
太宰の膝が崩れてその身体が波の中、呑まれていく。
銀の中、映った時には地面を蹴った。
冷たい海の中で太宰の体を支える。それは前に触れた時より痩せ細り軽くなっていた。大丈夫かとそう声をかける前に顔が上がり褪せた目が見てきた。
綺麗な目だ。
でもその目には憎悪や嫌悪そして涙が浮かんでいた。
長い付き合いの中、初めて見る涙だった。
その涙に驚く前に太宰の手が襟を掴み引き寄せられていた。太宰の口が開き、福沢の鼻を狙う。でも噛みついてくることはなく形の良い口の中が見えている。口
蓋垂までもはっきりと銀の目の中映り込んでいる。
止まったまましばらく動かなかった。
こんな状況だと言うのに口の中をじっと見つめ、その形一つ一つ覚えていく。
ゆっくりと太宰の口が閉じていく。
褪せた目の中には光などない。暗い色をしている。そんな目で見られるのは随分と久しぶりのことであった。何も見たくないとそんな目を見ることは幾度もあったが福沢には柔らかな目を向けるのだ。
ほっとし、安堵する目。
そうしてそっと隣によりそってくる。
その色が影も形もない。時間を掛けて築いてきたものが、音を立てて壊れていこうとしているようだ。
「何故、何故不死になったのですか。
どうして貴方なのですか」
光ない目は福沢を見る。でも逃がれるようその目はそむけられていく。
忘れられていた忌まわしい気憶が蘇る。
毎夜のように聞こえた悍ましく美しい歌声。夥しい赤い血。一人立ちつくした夜。
ふっと下を見ると波に浮かび、そして乗みこまれていく白い珠が月の光を反射している。
海の中、あふれでて沈む白き珠は太宰の目元からこぼれ、頬をつたう涙が海へと落ちるその時姿をかえていた。
白き味が波にまた飲まれる。
薄く開いた口はでも音をこぼす前に閉じている。
あの頃が先程より克明に思い起こされていく。
それは今より数百年以上前の話となる。
その頃の福沢は体が弱く十になることすら出来ないと言われていた。福沢の両新は子を思い病を治す方法を探がし駆け回った。疲弊し自分達が死にそうになりながら床にふす子のことを一心に思った。
そんな親はある時、遠く離れた漁村に人魚が現れたと聞きつけた。あらゆる手をうちつくした両親は人魚の肉を喰えば不死になると言う言い伝えを信じ、藁にもすがる思いで八つの福沢を連れ漁村に向かった。
その時にはもう福沢は半時程も起き上がれないありさまであった。
その村に着き、福沢が見たのは見るに無様な光景であった。
砂場の上はりつけにされた人魚が血に塗れ、その周りには死体がごろごろとおちていた。
母の腕の中、抱かれていた福沢は恐怖でふるえながら人魚の口元に浮かんだ笑みにひきつけられた。
その日の夜、福沢は人魚の肉を食べた。
それが人魚の肉であるとは両親は教えてはくれなかった。
三日三晩高熱にうなされた。
四日目には嘘のように元気になった。
その間、夜になると人魚の歌が聞こえていた。
美しいが聞いていると肝から体の全てが冷えていくような悍ましい歌。
村の人達はもう何日も眠れていないと言う話で両親も辟易としていた。福沢の体調も良くなったのだから、明日にでも出ていこうと話していた。
はりつけの人魚も見せたくないそうだった。
でも福沢は歌を聞く度、人魚の笑みが浮かんでは消えなかった。福沢には人魚が悲しんでいるように思え、解放してあげたかった。
そうだ。夜のうちにあの縄を解いてあげようと決め
そして……、
四日目の晩、突然村人が殺し合った。
狂ったように笑い粂や包丁を振り回し誰彼かまわず殺していく。最後まで残ったのは不死となった福沢一人で血の海の中で五日目の夜明けをむかえた。
そしてそのまま立ち尽くし七日目の朝ようやく動けるようになった。力の入らない体を無理矢理動かし、はいずって砂浜に向かう。
はりつけ場に人魚はいなかった。
残っていたのは腐り落ちた死体にその下に大量にはがれていた鱗。
海まで続くひきずられた跡。
その時福沢は悟った。
故郷を思い悲しんでるのだと思ったあの歌は、人を呪い歌っていたのだと。村は人魚の呪いで滅んだのだ。
その日二つの墓を作った。母と父のもの。
村人のものを作る気にはならず、死体もそのままに福沢は漁村を後にしたのだった。
思い出していく気憶に福沢は太宰を見る。
人魚のことを福沢はほとんど知らない。見えたのははりつけをされた姿とあの口元。悍ましい声だけ。
「太宰、私はお前の歌を昔聞いたことがある」
褪せた目の中、絶忙が宿る。
太宰の口が開いて舌がのぞく。でもただ閉じていく。
太宰の目の中、怒りが宿り、かと思えは涙だけが流れ海の上落ちたものは波にさらわれ海の底へと向かう。
「.....どうして、どうして貴方なのですか。いつか呪い殺すのだと決めていた相手がどうして。
どうして不死になどなったのです」
答えは言えなかった。流れ落ちていく涙はとても綺麗で、その目に宿るものは暗闇で、だからこそ言えなかった。
怒りの形に歪んでいた目元が少しだけ笑った。
「何で何にも言ってくれないのです。そうでないと分かってしまうではないですか。貴方が決して自分の意志で食べたわけじゃないことが。
そう言えば昔、貴方は病弱だったらしいと聞いたことがあります。誰も信じていなかったのですが、本当だったのですね。そして病を治す為両親か誰かに食べさせられた。
そうでしょう」
問いかける声はだけどもう答えなんて望んでいなかった。
「おかしいと思ったのです。後で村に戻った時、二人の墓が建てられていたけど、他の死体はそのままだった。その中で唯一私の鱗だけが集められ丁寧に祀られていた。
誰か。村人でなない人がやったのではないかって。
生き残った誰かは、もしかしたら復讐していい相手ではないんじゃないかって。
それでも私には復讐しかなかったから。
だからいつかきっと呪い殺してやると決めていたのに」
腕の中で太宰の体が変形していた。すらりとした二本の足が一つとなり、大きな尾となる。水面の上わずかにはみでた部分は月の光を受け淡く輝やく。
投げだされていた太宰の手が福沢の首に回る。その親指は気道をちゃんと取らえていて。
「……いい。お前には私を殺す権利がある。
そうでなくともお前になら殺されていい」
太宰の手に力がこもることはない。
深い海から真珠がこぼれる。
「海に帰れなかったのです。
私達の鱗は魚の鱗と同じ。深い海の中で体から水分が抜けおちないよう防ぐ役割があった。鱗のなくした私は海の中、暮らせなかった。怪我は再成してもはがれた鱗の再成は難しいのです。魚の鱗には栄養があります。万が一飢えた時に魚は己の鱗を食べやり過すのです。それとは少し違いましたが、私達の鱗には魔力がつまっていたのです。
魔力のつまった鱗は簡単には再成しない。長い時間をかけて戻していくしかない。
だから私は最後の力をふりしぼって人になり、何とか静かに暮らせる場所を手に入れました。そのままでしたらすぐに人に見つかってしまいますからね。
おかげでしばらくは声が出なくなりもしましたが、時間だけはあったから元に戻すことは出来ましたよ。
話せた方が色々便利ですから。
そして何百年もかけて鱗が戻り帰れるようになった。けど遅かったのです。
産業革命で海は汚ごされ、戦争で海は荒され、急激な環境変化に耐えられなかった同胞はみな死、私の故郷は滅びて帰る場所もなくなっていました。陸も海も退屈なのはどちらも変わらなかったけど、少なくとも海には私と同じ時を生きる者が居たはずなのに……、
私は一人になってしまった。
何故その恨みを晴らす相手が貴方なのですか。
どうして!!
例え一時でも、いつか失ってしまうものだとしても、私の還る場所は貴方のそばだったのに。
初めて、長い年月の中、初めて還る場所を手に入れたのに」
太宰の手はもう福沢の首を掴んでていなかった。その手は福沢の胸元を掴み、縋りついている。
あふれる涙は胸元を濡らし、こぼれた分が海におちては一つ二つと真珠となる。
月の光でキラキラ輝き海に沈む。
言葉も何も出ていかず、福沢はただその体を抱きしめ続けた。
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