ザァザァと雨が降る。
 雫に打たれて体は濡れる。でももう冷たいのかどうかすら分からなかった。
 何も感じない私は今、生きているのだろうか?



 全て終わった。
 これで横濱は守られた。

 荒れ果てた大地の上、私はその事実を噛み締める。この街を狙う最大の脅威だった魔人。そして天人五衰。彼らとの戦いは長く続き、最後には激しい戦闘となりながら何とか打ち倒すことができた。
 明日からはまた変わらない一日が動き出す筈。
 この街は守られた。
 これで私は……、善い人になれたのだ。

 ふっと体から力が抜けていく。茫然と周りを見渡す。怪我を負いながらもみなここにいる。生きていた。私も生きてここに立っている。だとしたら私はこれから何をして生きていけばいいのだろう。

 善い人になれ。

 それはかつて私が今となってはたった一人の友に言われた言葉だ。
 その方が幾分か素敵だ。そう死んだ友が残した。私はその言葉を信じてマフィアを抜け、探偵社に入った。善い人になろうとしてきた。それは私には酷く難しいことだった。探偵社で善い人たちに囲まれて過ごせば過ごすほど、その事はより鮮明になって私に圧しかかった。

 私は善い人になるには些か汚れすぎていた。

 その上善い人である彼らとは考え方が違いすぎていた。
 善い人になろうと足掻けば足掻くほど善い人から遠のいていく気すらした。
 どうしたらいいのか分からず、次第に私はその言葉を呪いの如く思うようになっていた。それでも友の残してくれた大切な言葉。胸に抱いて必死に足掻いた。

 その中で私は思ったのだ。この横濱を彼の愛したこの街を、そしてこの街に住む人々を守ることができたなら善い人になったと云えるのではないかと。この街を魔人が狙っていることには気付いていた。その手から守り通すことが出来たのなら……。

 それから私は奴がやってくる日に備え様々な布石を打っておくことに尽力した。
 使えそうな人材はさりげなく探偵社やマフィア、もしくは特務科に入るよう仕向け確保させ、それぞれの組織と繋ぎを作っておいた。もう許すことのできない相手とも手を組んだ

 すべてはこの街を魔人の手から守るため。
 何度も自殺未遂を繰り返しながらその日が来るまでは、善い人になるまではと後一歩の所で踏み留まった。そうでなければ私は友にすら会えないのだ。だから必死になって魔人を倒すために生き続けた。

 そして……この街は守られた。私が弄してきた策では後一歩足りなかったが、足りない分は他の皆が補ってくれて何とか守り通す事が出来た。私は善い人になれたのだ。

 その事実を噛み締めた後、ならばと次の疑問が巡った。

 私はこれからどうしていけばいい? 如何していけば善い人のままあり続けることが出来る?
 湧き上がったその問いに私は茫然と立ち竦んだ。

 やっとの思いで私はここまで来たと云うのに待っていたのは巨大な迷路だった。出口のない暗闇が大きく口を開いて私を待ち受けていた。足を竦ませた私は飲み込まれながらも笑みを作る。

 その場にはまだ皆がいた。長かった戦いを終えて疲れ切った体をゆっくりとやってくる歓喜に震わせる皆がこんな状況でへまして余計な心配をかけさせるわけにはいかない。何とか明るい声を上げた。






「……ざい!! 太宰!! 聞いているのかお前は!!」

 激しい怒り声が耳を打つ。その声が暗闇に沈んでいた私をハッと我に返した。
 急いで笑みが崩れていないか確認する。なんとかまだ貼り付けられたままですんでいた。それを維持するため気づかれないように表情筋を動かす。

「ごめんごめん。聞いてなかったーー」
「この唐変木が! 会議をなんだと思っているんだ」
「ごめんってばーー」
 明るい声を作ってふざける。国木田君の怒鳴り声に混じり周りからは呆れたようなため息が落ちた。それに良かったと胸を撫で下ろす。誰も不自然には思っていない。続行される会議に今度こそ耳を傾ける。

 あれから二週間たった。例のごとく燃え付き症候群に陥ったりもしたが、前と何一つ変わらない日常が探偵社に帰ってきている。みんなもう元通りの日々を過ごしていて。

 なのに私だけが元に戻れないでいる。
 どう過ごしていけばいいのか分からない。前と変わらない私を装いながら、ふっとした瞬間に大きな穴に飲み込まれ現実の中から消えてしまう。

 やっとのことで善い人になれた。それなのに、いや、なれてしまったから日々を生きていけない。

 善い人になろうと足掻いていた頃、私はそれがすべてだと思っていた。 
 善い人になれたら全て終わるのだと。だけどそうじゃなかったと今になって気づいた。善い人になれたら次は善い人で居続けなければならなかった。

 かつて黒が見た目だけでも白に変わったように、人のあり方は移ろい変わって行くもの。

 黒から白には困難だが、白から黒には容易く変わる。
 幾ら善い人になれても一歩間違えればその位置から容易に崩れ落ちていくのだ。私は辛うじてその上にたったに過ぎないのだと、あの日に気づいた。

 これからはあり続けるために生きていかねばならないのだ。
 でもその為に私はどうしたらいい?

 私のような人間失格者はただ生きるだけでは善い人であり続けることが出来ない。何かをしなければ。でも何をすればいい。
 もう魔人のような敵もいない。小悪党なら幾らでもいるが彼らごときから町を守ったところでそれは何にもならないだろう。私が居なくたって誰でもできることだ。ならどうしたら……。

 このままでは善い人ではなくなってしまう。折角ここまで来れたのに。幾ら考えても答えは出ない。考え続けるほど遠退いていく。いっそもう死んでもいいのではないかと何度も自殺未遂を繰り返すが今だ死ねぬ。


 私は取り残されてしまった。


 生きていく方法を見つけなければ日常に帰ることも出来ない。



「大丈夫ですか?」
 顔色悪いですよ太宰さん。心配をするように覗き込んできた敦君にひゅっと息を飲んでしまった。

 幸いなことに気付かれるほどのものではなかったが、やってしまった事に脳が警鐘を鳴らす。なんとか笑みを作って大丈夫だよと笑う。最近好みのお酒とつまみを見つけてね、酒盛り三昧なのだよ。昨日も夜遅くまで飲んで朝は二日酔いで起きられなかったぐらいさ。でもと続けられたのにあらかじめ用意していた言い訳を揚々と語る。
 
 敦君もどうだい? 何て付け加えればえ、と一歩引く敦君。近くにいた国木田君からは未成年に酒を飲まそうとするなと怒鳴られる。何時もなら来るはずの衝撃が来ないことに私は自分の失態を悟る。

 少し言い訳をするタイミングが早すぎたか。不自然さを与えてしまったようだ。訝しげな視線を受けながら私はさもだるそうに私は机の上に突っ伏す。

「あーあー、やる気がでなーーいーー。くっにきだくーんー、やってーー」
「自分でやれ!!」
「えーーいいじゃん。私と君のなかじゃないかーー。やってくれないと君のあーんなことやこーんなこと言い触らしちゃうからね」
「なんの事だ何の!!」
「そりゃあ、もう」
 声のトーンをあげて楽しげにからかう。国木田君が声を荒らげてしまうような、怒り出してしまうような話を口にして場を有耶無耶にしてしまう。
 探偵社内で怒鳴り声が響いた。
 自分でその状況を作り上げながら頭が痛くなって困った。



 目元には濃いを通り越しどす黒い色をした隈。ごっそりと痩せこけた頬。うちに血が通っているのが信じられないほど青白い肌。髪も艶を失い落武者のよう。
 鏡に写るありさまに私は自分の事であるが酷いなと他人事のように呟いた。数日後に栄養失調の死体が見つかったとなってもああ、やはりと思ってしまいそうだ。もっともその時には私はいないわけだが。
 探偵社のみんなに心配をかけないよう化粧で隈や肌の色を隠していく。痩けた頬は口の中に入れ物をすることで誤魔化す。髪には少量の油を塗りいつも通りの私を作る。完璧な仕上がりに何故だか笑みが込み上げる。
 ここ最近眠れないでいる。元々睡眠時間が多い方ではなかったが、人として必要最低限は眠っていた。それすらも今は出来なくなっている。眠ろうとしてもこれからどうしたらいいのか。その疑問が沸き上がって眠気を阻害してしまうのだ。疑問は日中すらも襲い呑み込もうとし続ける。それに対抗しようと、最近では横濱にある犯罪組織を根こそぎ洗い出して潰し回っている。作戦を練り実行している間だけは襲い来る暗闇も少しは薄くなるのだ。追い出すために次々と作戦を打ち立てていく。実行するのも私。誰にも言うことが出来ないので全て私一人でこなす。思考からは多少なりとも解放される。だけど、そのために絶えず脳を使い続けているので余計に眠れなくなった。
 磨耗して日中みんなの前で私を演じる事さえも難しくなり始めた。無理が生じはじめている。
 私はいま何処にいて目の前にいるのが誰なのか理解できなくなる。誰かに声をかけられて初めて自分の状況を認識する。ヤバイと思うのにどう改善していいのか分からない。


 ざぁざぁと雨が降る。
 冷たい雨は痛く重い。水に濡れる体は徐々に感覚をなくしていく。このままこの雨に流され溶けて消えてしまえばいい。そう愚かなことを思う。どうやっても私は変われないのだと思った。善い人になれたと思ったけれどそれすらも間違いだったと分かってしまう。私は私だった。
 人を損ない続けるだけの何か。
 敦君の姿が思い浮かぶ。血みどろになりながら大丈夫ですからと気丈に声をあげた彼の姿が。
 武装探偵社ともなれば怪我事態はいつもの事だ。身の危険に迫られることだって何時でもある。だけど今日のは違った。今日敦君が怪我をしたのは私のせいだ。私が読み間違えってしまった。きっと普段の状態でなら読み間違えることはなかっただろう。それなのに間違えてしまったのは私が普段とは違ったから。重ね続ける無茶のせいで正常な判断ができなくなっていた。そのせいでみんなを危険な目に巻き込んだ。敦君が途中で気づいてくれたお陰で作戦へ参加していた他のみんなが怪我をすることはなかった。だが、みんなを庇った敦君が重傷を追ってしまった。幾ら与謝野女医の異能で治るとはいえ痛くないわけではない。酷いことをしてしまった。
 私が自分のことばかりに気をとられてしまっていたせいで……。
 それなのに敦君な私に大丈夫ですから何て声を掛けてきて、他のみんなも失敗をなじればいいのに今日はどうしたんだ。何かあったんですか。体調が悪かったなら言ってください。休んでいても大丈夫だったなんて心配だけをして来る。
 それが余計につらかった。

 つくづく私とみんなは違うと思った。私にはそんなこと出来ない。失敗は失敗として詰るだろう。優しくなどなれない。
 みんなに謝って、それからみんなから逃げた。死にたいと思って川に身を投げたのけれど、また死ねずに助かる。呆然としていれば雨が降り始めた。ぽつぽつと降るだけだったのが次第に雨足を強くなっていく。バケツをひっくり返したかのような降り注ぐ雨。肌に痛いそれをうけながら立ち竦んでいればどんどん川の流れは強くなっていて。
 今なら死ねるだろうか。
 この川と雨で血のように流され消えてなくなったりしないだろうか。その思い付きに動かされて足を一歩川に……。
「  」
 雨音に紛れ人の声が聞こえた。飛び込もうとしていた動きが止まる。呼ばれたのは自分の名だったように思う。振り返らずにこのまま、そんな思いを片隅で考えながらも振り返ってしまう。声のした方を見た。
 雨粒に遮られる視界の中に人影が一つ。えっと目が見開くのを感じた。想像にもしなかった人で頭のなかが真っ白になる。
「社長」
 思わず呟いてしまったのを自分の声が聞こえたことで気付いた。どうしてここにと思ううち人影が近付いてきて、その姿がハッキリと、見えるようになる。何かの間違いかもと思っていたけどそうでないことが分かってますます混乱する。雨に遮られながらも浅葱色の着物が鮮やかに移った。
「太宰」
 再び聞こえた声は間違うことなく私の名を呼んでいた……。まっすぐ見つめてくる瞳の色がわかるようになり、私は目をそらしてしまった。濡れそぼった裾から雨に混じり雫がぼたぼたと落ちていく。遠退いていた感覚が戻ってきて肌に刺さる雨粒が痛い。冷たいと感じることがないのに末期だなと他人事のように思った。笑わなければと口角をあげる。目元を細めればいつもの笑顔を作れた。こんなところでどうしたんですか。当たり障りのない言葉でそう云おうとして、下げていた視線をあげれば思いもしなかった近さに社長がいた。
 社長の姿が雨に濡れている。何でと思ってから肌を突き刺すような痛みが病んでいた事に気付く。周りから雨が聞こえていた。目線をあげれば社長の指していた傘が目にはいる。濡れますよと一拍遅れて呟く。
「ああ、だから帰るぞ」
 捕まれた手。何をするにも億劫でただ立ち尽くしていればその手に傘の柄を押し付けられる。触れるものをつい緩く握れば離れる手。踵を返す社長は雨に濡れていて、そのなかで静かに歩いていく。
 慌てて名を呼んだ。立ち止まり振り替える社長に言葉を探してから濡れますよと口にした。返ってきたのはそうだなと云う声一つ。傘を差し出したけど風邪はひきたくないので急いでくれと社長は行ってしまう。
 社長が足早に歩いていく。だけど途中で立ち止まって私を見つめた。

  ●


 事務所につきコートを脱げば、後ろからはああと云う声が上がった。横目で見やればぼんやりとした顔をしながら、その目が歪んでいる。何か云いたそうなのを無視して奥に向かえば、入り口で止まってしまう男。そのままにして医務室に向かい、数枚のタオルを拝借した。その一枚で濡れた髪を乱暴に拭く。足早に戻った。入り口の前で立ち止まっているだろう子供の元に向かう。



 その姿を見たとき大きな衝撃に見回れた。すぐに覆い隠され、何時もの喰えない笑顔になったが、しばらくその姿が目に焼き付き離れなかった。
 行き場のない子供の顔をしていた。広い世界にたった一人取り残されて迷い子になってしまった子供。何処に行けばいいのかも分からずに一人不安で涙を流す。
 泣いてこそいないもののそんな顔だった。
 今がどんな状況だったのかすら忘れてその顔に見入った。もう写されてはいないのに、隠れてしまったそれを見続ける。
 誰かに声をかけられて我に返ったが、それが誰だったのかも後になると覚えていなかった。その顔を見たのはその時たった一度だけ。それ以外では見ることがない。だけどそれとは違うものなら幾度か見たことがあった。あの日から少しずつ太宰は可笑しくなっていて、ふっとした瞬間に真っ黒な闇を覗かせる。
 今まで笑みの中に覆い隠して決して見せることのなかったものを見せる。だけどそれはいつもすぐにまた隠される。ぶ厚い笑みの皮で。
 私だけでなく他の者たちも太宰の異変に気づき初めてあれを気にかけていたが、太宰は気づく様子がなかった。ヘラヘラと笑みを浮かべていつも通りを装い続ける。何かあったのかと此方が心配してもあっさりとかわされ、別の話題に移される。
 入社当初から人との間にぶ厚い壁を立てていた男であったが、それがここにきてなお一層のこと深い壁となった。
 どうにもできず見つめる中で日に日に太宰は崩れていた。それでも笑みを浮かべ続ける。
 無理矢理立ち入ってしまえば壊してしまいそうで何も出来ずにいた。だけどそろそろ踏み込まなければならない所まできてしまったのではないか。壊れてしまうのだとしても踏み込んで、太宰の内側を覗きこんで、何か言葉をかけてやらねばならないのではないか。でもなんとかければいい。一歩間違えばもう二度と治すこともできなくなってしまう。正解を選べる自信がなかった。それでもこのままにしておくこともできない。一体どうすれば。
 そうずっと悩んでいた。

 悩んでいたときに雨の中に佇む太宰を見つけた。
 強い雨だった。まるで叩きつけるように落ちる。傘の上ではドドドと激しい音をたてていた。破けてしまわないか不安になるような凄い音だ。そんな雨の中で太宰は傘も差さずに増水してぎりぎりまで水位の上がっている川の側に立ち竦んでいる。今にも川の中へ消えていきそうな姿だった。
 私はすぐさま川辺に降りて太宰の名を呼ぶ。雨に掻き消されて聞こえなかったのではと不安に思ったが、聞こえていたようで川に向かっていた足が途中で止まった。
 川を見つめる目がしばらくして私の方を見る。雨に隠されてその表情は見えない。だけど酷く苦しんでいるように思えた
「 ……う」
 雨に掻き消されながらも声が届いた。小さな声は普段の彼からは想像も出来ないほどに揺れていて。私は彼に近付いていく。
 太宰の姿がよく見えるようになってくる。そうなって私は思わず眉を顰めてしまった。
 今日太宰が仕事で失敗をしていたことは聞いていた。不真面目な勤務態度ながらも何だかんだで完璧にこなす太宰には珍しい事態。どうやら体調が優れなかったららしいとは聞いていた。だけど太宰の姿を見るとこれのどこがらしいのだと怒りを感じてしまう。目の前にいる太宰は頬も痩せこけ目元には濃い隈ができている。顔色は最悪だった。およそ生きているとは思えないほどの姿。こんなのでまともに仕事がこなせるわけがないだろうと思い、何故誰も休ませなかったのだと心の中で他のみんなに叱責をいれた。だが、ふっと気付く。一日やそこらでこんなにも変わるものかと。
 今日は私はまだ太宰には会っていなかったが、昨日は確かにその姿を見た。何時ものように過ごす太宰は普段とまるで顔色が変わらず、隈もなかったはずだ。大きく痩せこけている頬も普通で具合が悪いようには見えなかった。
 それが偽りだったのだと今の姿を見て分かった。
 一日でこんなに悪くなったと考えるよりも、ずっと前から体調を崩していたのを隠していたのだと考えた方が、ずっと理にかなっている。
 気づくと同時に怒りと悲しさが押し寄せてきた。
 何故こうなっても太宰は誰にも助けを求めないのか。こんな姿でいつも通りを装おうとするのか。またどうしてこんな姿にまでなっている太宰に気付いてあげられなかったのか。胸のうち渦巻くそれらを押し込めて彼の名前を呼ぶ。
 太宰は私を見ているのにまるで見ていないような目をしていた。どこかぼんやりとした表情。焦点の合わない目と目が合えば不意に反らされてしまう。俯いた瞳は今もぼんやりとしている。何時もならすぐにでも笑って取り繕うはずだが、今日はそうしてこなかった。
 その姿に今がチャンスなのではないかと思う。

 太宰の心のうちに触れるチャンス。

 だけども掛ける言葉を見つけることが出来ない。何かを目の前の存在に云わねばと思う。それなのに頭のなかが真っ白になって言葉が出ていくことはない。何をすればいいのか分からずただ私は雨に打たれ続ける太宰に傘を差し出した。太宰の周りの雨がなくなり、私の元に降ってくるようになる。突き刺すような雨は痛く、瞬く間に全身を濡らしてしまう。
 冷たい雨に打たれて体が冷えていくが、今はそんなことどうでも良かった。目の前にいる太宰がこれ以上濡れないのならそれで良かった。
 ぼんやりとした太宰は自らに当たる雨粒がなくなったことすら気づいたないようだった。しばらくして太宰の口角が持ち上がる。笑おうとしているのだと分かった。笑うなと云いたい。でも声がでない。歪に笑いながら私を見た太宰は数秒遅れて目を瞬かせる。
 緩慢な動きで上を見上げてそれから濡れますよとやや遅く呟く。いつになく力ない動き。

「ああ、帰るぞ」

 それ以上その体を冷やす前に。言葉をのみ込んで傘を太宰に持たせた。手を掴んでもぼんやりとしたまま。何をされるのか疑う様子もなくされるがままだった。傘の柄を握った太宰の手を離す。雨に濡れたまま帰り道を行く。
 社長と慌てた声が私を呼んだ。
 振り返れば迷うようしながらぬれますよともう一度云われる。そうだなと返す。傘を差し出してくるけれど身を翻す。
「風邪はひきたくないので急いでくれ」
 それだけを云って歩いていく。途中で立ち止まる。振り返りじっと見つめていると立ち竦む太宰がゆっくりと歩き出した。

 太宰より前を歩きながら途中で立ち止まっては太宰を待つ。その度に足が止まりそうになっていた太宰は再び歩き出す。
 そんな風にして太宰を促しながら探偵社に戻ってきた。

 家に帰る途中だったのだが、太宰のいた場所からはこちらの方が近かった。それに私の家となれば太宰はやってこなかっただろう。
 みんなが帰り閉まっている探偵社の鍵を開ける。誰もいない探偵社は静かで丁度良かった。

 入り口で立ち止まっている太宰へバスタオルを掛ける。それにも彼は動かない。今度こそと思っても言葉はでない。何とかけてやればいいのかが分からない。口下手な自分に嫌悪を覚えてしまいそうだ。
 言葉はでなくとも何かをしたくて濡れた太宰に手を伸ばした。
 両手で引き寄せればすっぽりと収まる体。私を見つめる目は変わらずぼんやりとしている。
 何をすればいいのか分からない。ただしたいと思うまま濡れた蓬髪に触れる。そのまま撫でていくとぼんやりとしていた顔が僅かに動いた。きょとんとした表情をみせて、褪赭色の瞳がゆっくりと歪んでいく。
 それは子供の表情だった。あの日私が見た迷い子の顔。自分が何処にいるのかすらも分かっていない子供のもの。
 ああ、と震えた息がでそうになった。
 太宰を抱き締める腕に力がこもる。

 腕の中にいる子供を救ってやりたいと強く思った。



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