夜、不審な物音の原因を探って欲しいという依頼の元、福沢は寂れた駅の中を歩いていた。
 建てたばかりの社はまだまだ軌道に乗っておらず、どうすればよいのか分からないことばかり。社長となった福沢も右も左もわからずに疲れる毎日。
 こうして時折仕事に出ては気分転換を図っていた。
 依頼は特別難しくないものの何か起こるかわからぬ暗闇。足をひそめ周囲の物音に耳をそばだて歩く。張り詰める緊張の糸。武人として鍛え上げてきた福沢にとってはそれが屋内で書類とにらめっこし、人と腹の探り合いをするよりも性に合っていた。
 けだるさを感じていた体の筋肉が伸び、異変を感知するため様々な部分が動き出す。それが言いたくはないが心地よい。そんな己に少々の嫌悪を抱きながらもそれでも福沢は一つ一つ慎重に歩んでいく。
 その時、ふっと足が一度止まっていた。
 福沢の耳に何かの音が聞こえてきたのだ。微かな音だ。だが自然のものではない。福沢の足は音が聞こえた方へ進んでいく。地図は頭の中にあった。その地図と照らし合わせながら音がどこから聞こえてきたものかを考える。少し早足になりつつも気付かれぬよう慎重に進む。
 その途中、もう一つの音が聞こえていた。
 それは最初の音と違って大きな音であった。赤子の泣き声のような音。眉を寄せながら進む。ふと福沢はこの先になるのがコインロッカーであることに気付いた。
 まさかとその目は寄りながら進んでいく。音はもう近くなっていた。あともう少しである。
 福沢の耳は人の声をとらえはじめる。その声は始終何かに向けられていた。女のものだ。
 おそらくはまだ幼い、泣いているかのようなか細い声。ますます眉が寄りながら前に進んでいく。息をひそめながら見つめた先、見えたのは一人の女がロッカーの中に何かを入れようとしているその姿であった。
 相手との距離を見定めてわざと音を立てる。
 入れようとしていた女が振り返っていた。夜目の聞く福沢はその顔が恐怖で引き攣っていくのがよく見えた。そしてすぐにその恐怖は消えてただの無になっていく。女の唇が震えて床に座り込んでいた。腕の中にはまだ何かがある。それは小さく幼い子供。
 先ほど聞いた泣き声の主。
  女の元まで近づいていく。
 女の目は細かく震えていて今にもその目から涙をこぼしそうだったが、零れることはなかった。ごめんなさいと赤子を腕の中に抱えながら謝罪の言葉を口にしている。女の前に来た。床に膝をついた女の視線に合わせながらその子はと福沢が問う。女の肩が震えた。その子は貴君の子でいいのだろうかと問いかける。女の目が福沢を見た。
 人の容姿に頓着のない福沢でもその女の容姿が整っておりとてもうつくしいことがわかる。多少隈ができて損なわれているように見受けられるが、それでもなお美しく、多くの人の心を虜にするような魅力があった。
 そんな女が抱えている赤子を見る。
 女はしばししてから頷いていた。子を抱きしめながら恐れるように福沢を見ている。
「……周りに助けてくれる人はおらぬのか」
 ちらりとだけ福沢の目は赤子を見ていた。コインロッカー。女が子供を入れようとしていた所はまだ空いている。その中は音が漏れぬよう防音シートであろうものが張り詰められながらも中にはやわらかいクッションが敷かれ、扉付近には空気清浄機がつけられていた。窒息死を防ぐ仕組みになっている。それを見れば大事にしていないわけではないのは分かる。
 ただそばで育てることはできないのだろう。
 最近は整備が行き届いてきているが、まだまだ女子の扱いが酷いところはごろごろある。その辺の子供か、それとも何かしら理由のあるのか。考えながら子供と女を見る。
 子を抱きしめた女は暫く福沢の問いに答えなかった。
「母子を支援する施設があるはずだし、遠くにまで行かなければ
 女に向けて声をかける。女の目は福沢を見ながら首を振る。無理ですよとその口は動く。その目はとても暗い色をしている。
「マフィアの闇は何処までも追ってくる。何処に逃げようが逃げ切れない」
 子供を抱えていた女の手が下に向かっていた。離れてしまいそうで、とっさに支えながら福沢は女を見た。その目は見開かれている。
 銀灰が揺れ、そして唇が噛みしめられていた。
「貴君はマフィアの関係者なのか」
「……そうですよ。だからこの子は育てられないの。森さんは許さないもの。もし見つかったらこの子は」
 福沢の目がまた見開いて静かに息を呑んだ。女は森といった。それはマフィアのボス、森鴎外のことだろう。その呼び方から女がただのマフィアの構成員などではなく、もっと闇に近い場所にいることが分かる。そんな女を見る。
「警察は。貴君は捕まるだろうがでも」
「ああ、それもいいですね。死刑なんて甘美な響き。でも、貴方は警察が本当に正しく綺麗な場所だとでも思っているのですか。だとしたらその考え方は気を付けていた方がいいですよ。
 いつか足をすくわれることになるかもしれません」
 ふっと女の口元が嘲笑する。その言葉を聞いて福沢は口を閉ざした。女の言う言葉は確かにその通り。たとえ一時はうまいことできたとしても何かしらに使おうと企み利用するものが政府から出てくるだろうし、子供を守るため警察に捕まったとしたらそれを見せしめのために子供ごと殺すことも十分考えられる。
 この二人がともに行ける場所などないのだ
「ではどうするつもりだ。この子をずっとこの中に入れて育てるか。まだ幼いうちはいいが大きくなればここに入れておくこともできなくなるだろう。それに子供の健康も損なている。今生きているのは運がいいからに過ぎない」
 赤子を見る。ちいさな子だ。産まれてからまだ日はたっていないのだろうか。何にしても今生きているのだって奇跡だ。毎日この場に来ているのだとしても栄養だって足りないだろう。女は感情を切り落とした顔で子供を見て、そして口元を歪めている。
「その時はその時でしょ。これは一時の夢なんですよ。こんな子がいたところで私とあの人の間には何もないけど、私ははただの使える駒でしかないけど、ただそれでもすがるための夢。愚かで滑稽。その為だけに利用している。いつか終わるのを何もせずただ待っている。
 母にも慣れぬただの畜生。
 まあ、まともな人にも慣れぬ私が母になるなど愚かなことなのですけどね」
 女の手の中で子供は安らかに寝ていた。女はそんな子を見ている。
 福沢はその姿をじっと見て、それから口を開いた。この二人は共には決して過ごせない。逃げる場所はない。でも
「では私がこの子を預かろう」
 二人でなければまだ打てる手はあった。女の目が福沢を見た。その口元が少し開く。驚愕に彩られた瞳。えと何とも間抜けな声が落ちていく。福沢はその変化にほっとしていた。
「子供は私が預かる。まだばれていないのだろう。それならば今預かればこの子供を守れるはずだ」
 もう一度同じことを今度は理由も付けてしっかりと話した。女の目が揺れる
「たった今あったばかりのものなど信用できぬかもしれぬ。だが私を今は信じてくれ。私はこの子を悪いようには決してしない。生憎妻もおらず男で一つとなってしまうが、この子供を大事な人としてまっとうな生活を過ごさせる。この子供が幸せになれるよう努める」
 赤子を見て言葉を紡いでいた。女の腕に腕を添えながら頼むとそう口にする。余計なことをしている。自分の身、拾ってしまった二人の子供、いまはそんなもので手いっぱいで余裕などもないくせしてまた一つ抱え込もうとしている。
 船が泥に落ちるのかもしれないというのに。
 それでも男は止められなかった。同情でも探偵社としての意地でもなかった。
 ただこの子供を助けたいとそう思ってしまった。だから手にしていく。女の目は福沢を写しては揺れ、そうしてはまた写した。どうしてとその口が言う
「貴方の得になることなどないでしょう。なのにどうして」
「分からぬ。でも今は見捨てたくないとそう思っている。貴君を救うことは私には無理でもこの子ならまだできることはある」
「目の前に映るすべてを助けようとするのは愚か者のやることです、本当に大切なものを失ってしまう」
「知っている。だから私も見捨てた命がある。それでも今は助けたいと思った。駄目か」
 女の言葉にただ答える。飾れる言葉はない。自分が言える事実だけを今は。
 女の目が揺れた。それは今までのものと違っていた。お願いしますとか細い声が聞こえる。女の手が子供を差し出していた。福沢の手が抱き留めている。小さな子供を抱くのは初めてのことであった。本当に骨があるのか疑わしくなるぐらい柔らかくてどう持てばいいのかがすぐには分からなかった。声は形になってしまっていた。
 安らかに眠っていた赤子が起きて口を大きく開ける。母でないと分かったのかその手足はバタバタと激しく動いていた。
 なんとか抱えなおしながら福沢はその口元にそっと笑みを浮かべていた。
「やはり母でないと安堵できないのだろうな。でも私が責任もって育てていく。だから安心してくれ」
 女の首は小さくだが縦に振られていた。その目は子供を見てはゆれている。泣き出しそうであるが泣くことはなくしばらく見つめてからもうと声をさまよわせていた
「そうか。もう時間か。これを」
「これは。いりません。少しでも危険はなくしておきたいんです」
 女に差し出したのは一枚の名刺であった。それがはらりと地面に落ちる。そうかと福沢は落ちた名刺を見た。腕の中では子供が泣いていた。
 ではと去ろうとする女に最後の問いをする。
「この子の名前を教えてくれぬか」
 暗い目が見開く。名前と呟いてから瞳をさまよわせる。俯く頭。暫くしてから女は答えた。
「りん。りんです」
「そうか。りん。善い名前だな。ではこの子は任せてくれ」




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