「天狗ですか」
 陰陽寮、その中で福沢はその眉を潜めていた。そうだと目の前にいる種田が頷いて、頼んるかと問うてくる。その言葉に福沢は険しい表情を浮かべながらも答えていた。頼んだぞと種田が福沢に告げる。


 平安の世、人々が平和に暮らすその裏側では物の怪と呼ばれる人ならざるものが闊歩していた。彼らは夜な夜な街を歩き、そして時には人々に悪さしては人を困らせる。中には人を殺めることがあり、そんな物の怪と人との秩序を守るのが陰陽師と呼ばれる術者たちであった。
 福沢は陰陽師であった。
 なんていうことはない。その家系が長く続く陰陽師を排出する家系であり、福沢も血から逃れることができなかったのだ。
 かといって他に何かやりたことがあるわけでもなかったのでそれでいいと思っていた。否、思うおうとしていた。
 前までは。最近の福沢はどうにも陰陽師を続けることへ嫌気を感じていた。世のためだというのなら物の怪を斬ることもやぶさかではなかったが、少しずつ己がしていることに疑問を感じ始めてしまったのだ。
 これは本当に人のためで、そして正しいことなのかと。だから今回の仕事もあまり気は乗らなかったもののそれでも今はまだ、陰陽師であり、そうである以上は己の勝手で嫌だなどと言うことはできなかった。
 だから受け入れて福沢は天狗の出るという山の中に来ていた。
 重い足取りで山を歩く。
 そこは種田に言われた天狗の住まう山であった。人に仇なす天狗がすむと言われ、誰一人踏み込まないでいるという山は、けもの道しかなく、歩くのも難であったが何とか山頂にたどり着いて周りを見渡していた。
 山の上は空気が薄く呼吸がうまくできない中、ゆっくりとならして誰かおらぬかと声を張り上げた。山の麓から誰とも会うことはなかった。それどころか獣一匹見つからなかった。物の怪の気配も感じることはない。
 この山の中に本当に天狗がいるのか疑わしく思い始めていた。
 声をかけても誰かの気配はなかった。
 一つ二つと周囲を確認しながら進んでいく。山の中には福沢の声だけがこだましていた。やはり物の怪の気配の一つもなく静けさだけが支配していて……。
 天狗などいなかったか。
 もうしばらくだけ探して何もなければ山を下り、一旦日を開けてからまた来ようと考え始めた。そうして歩き回っても結局何も見つからなかった。もう諦めようと決め福沢は踵を返した。そして山の麓まで降りたところで突然感じたのは物の怪の気配、妖気であった。
 福沢の足が止まり、山を見上げる。
 うっふふ
 笑い声が聞こえる。
 それはすぐ傍からであった。さらに真上を福沢が見上げる。一本の大きな木がそこに立っていた。そしてその上に一つの影がある。
 うっふふ、ふふ、うっふふふふ
 笑い声はやむことなく山の中に響く。札に手を伸ばしながら福沢は誰だと問いかけていた。睨みつける先、翼のような影が大きく開いてそれから黒い羽がひらりひらりと落ちていく。
「誰だなんて酷い人。私を探しに来たんじゃないんですか」
 ふわりと人影が落ちてくる。大きな翼をはやした男はその顔に柔らかな笑みを浮かべながら福沢を見た。その姿はまごうことなく天狗のものであった。
「人如きが私を退治しにこようだなんて馬鹿らしい話だけども、でもいいですよ。乗ってあげますよ。もう二度とそんな愚かなことを考えぬよう貴方のその心を粉々に砕き、貴方のその体を動くこともできぬ見るも無残な形にして都に贈って差し上げます。
 さあ、どうぞ。どこからでもお好きなようにかかってきてください。捻りつぶしてあげますよ」
 天狗が笑う。おぞけのするような美しい笑みだ。その笑みを睨みつけて、福沢は天狗に向かいかけ出していた。

「どうしたのですか。私を殺さないのですか」
 ふふと天狗が美しく笑っていた。それは死を目前としたものの笑みとは思えなかった。その笑みを見下ろし福沢は何故とそう聞いていた。何故なのだとそう天狗に問いかける。天狗の髪が揺れた。そして変わらず微笑んでいた。何がですかとそう問う。
「何故私の前に姿を現した。貴君ならば最後まで見つからずにいることもできただろう」
「行ったでしょう。もう二度と愚か者が現れないようにしてやると」
「……ではなぜ。本気を出さなかった。今の戦い貴君の力の半分も出していないだろう。最初からこうなることが望みだったのか」
 天狗を見下ろす。天狗はやはり静かな顔をして笑っていた。死など恐れていないような顔であった。
「それを知って貴方はどうすると言うのですか。結局何も変わらないでしょう」
 札を持つ手にわずかに力がこもってしまった。天狗の言うとおりである。どうであれ福沢するべきことは、しなくてはいけないことは変わらない。それはこの天狗を滅することだ。それでも福沢は何故だと天狗に聞いた。
 天狗の口から笑みがこぼれていく。
「だってこの世はつまらないじゃないですか。
 私はもともと物の怪になどなりたいわけでもなかった。都の親に捨てられ僧侶に拾われ、僧侶となったもののもとより生きる気などさらさらなく堕落して暮らせばこのありさま。この世への恨みつらみが知らぬ間に溜まった結果か、それとも堕ちた結果かはさておいて物の怪として生きるもこの世は結局つまらない。何をしようとも思えずにただただ時だけが過ぎていく退屈な日々。
 そんなつまらぬ世で命すら狙われる。ならばいっそ死んでしまった方が楽と言うものではありませんか。
 どうぞ、その手にするその札で私と言うつまらぬ存在を滅ぼしてください。さすれば私もこの世から救われる
 貴方は人の世と、そして何にもならない存在を救えるのですよ」
 易いことでしょう。
 天狗は動くこともなくただ静かにその言葉を吐いては福沢を見上げる。褪せた色の瞳の中に福沢の姿が映っている。札を構える手がかすかにふるえた。
 逃げようとすることもなき天狗を滅するのは容易いことだった。
 だけど福沢は
「都の親に捨てられたといったな。それ誰のことだ」
 それができなかった。突きつけていた札が手のひらから零れていく。笑っていた天狗がその笑みを消して福沢を見上げる。
「なぜそのようなことを聞くのですか」
「聞かねばならぬからだ。もしやそれは貴族、もしくはそれ以上の地位のものか。貴殿のその顔立ち思い浮かぶ者たちがいる」
 言葉を重ねていく。天狗は福沢も見るもその言葉に答えることはなかった。口を閉ざして落ちた札を拾うていた。そして福沢の手元に寄せてきている。
「ずっと不思議だった。この山に住まう天狗が毎夜の如く人の世に悪さをするとそう聞かされたが、私はそのような話を聞いたことはなかった。町の噂にもなっておらぬ。被害が出ているというが、他の物の怪の被害は確認できるものの、貴君がやったとされることで確認できることは何もない。ではなぜそんな話が出てきた。それにこの山には確かに人が分け入っている形跡もないが、獣や虫までおらぬは些か不自然過ぎる。妖気も漂うことなく正常であるにもかかわらずこうも生物が見えぬということは何かをしているのだろう。
 この山から生きとし生きるもの全て追い出した貴君が何故外に出、人を襲う。その理由がわからぬ。生き物を追い出すことができるのなら呼びよせることもできるだろう。そしてその方が手っ取り早い。
 貴君は何もしていないのではないか。何もしておらず、だが貴君の存在を疎ましく思う者たちがいる。私はそんな者たちに都合よく利用されているだけと言うことか」
 天狗は福沢の言葉の合間、何一つ言わなかった。ただ握らせようとしてきた札がもう一度地面に落ちている。札は汚れていた。
 天狗を見る。
 口元に微笑みを浮かべる天狗はふっとその肩から力を抜いてそれの何が悪いのですかと福沢に言っていた。
「昔から陰陽師とはそういうものでしょう。人に仇をなすかどうかを決めるは人。罪もない物の怪とて人から指さされれば弁明の余地もなく命を狙われ、そしてあなた方陰陽師に滅される。物の怪の言葉に耳を貸すような人などいないのですから」
 天狗の言葉が胸を刺す。それはずっと福沢が感じていた疑念に違いなかった。だからねと天狗が笑うのを見届けて福沢は天狗から離れていた。
「やめた。私は貴君を滅さぬ。
 貴君のおかげで答えが出た。私がやっていることは正しいことなどではなかった。ただ人に都合よくつかわれてそこにあるだけのものを滅ぼしてしまっていただけだ。もうそのようなことはしたくない。すべてここで終わりにする」
 天狗の大きな目が見開いて福沢を映す。
 そこに映るは物の怪の血で汚れた福沢だ。もう遅いのかもしれない。それでもこれ以上己が納得できぬことをしたくはなかった。


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