福沢諭吉。四十二歳。未婚。
 人を好きになったことはこれまでの人生のなか何度かある。と言ってもその全てが十八歳迄のまだ大人とも言い切れない時で、告白等もしたことはなかった。あの娘、好きかもしれぬと言ったそんな曖昧なもの。
 十八の頃に政府に引き抜かれ、剣客となってからは人に好意をよせる暇もなく、それを止めてから暫くはそんなことをする心の余裕がなかった。探偵社になってからはそう言う事にも目を向ける時間はでき始めたがその頃既に三十後半。最早興味がなくなっていた。
 それから数年仕事に追われる日々。余暇は乱歩や与謝野と共に過ごしたり、猫を構ったりとして過ごしてきて色気と言うものとは皆無だった。
 つまり福沢にはちゃんとした恋愛経験がないのだ。
 だから勿論デートなどと言うものもしたことはない。
 さあ、どうしたら良いのだろうかと上を見上げため息をついた。
 いつもの着物、そしていつも羽織を羽織って駅前に立つ。今日はデートの約束の日であった。
 相手は太宰。
 本当にデートと言って良いのかは不安であるが形だけとは言え付き合うことになったのだからそう呼ぶ何かだろう。そして付き合った経緯を考えると福沢がエスコートをする方が良いのだろう。だがどうすれば良いか分からなかった。社員の何人かに聞き、デートで喜ばれそうな場所は調べてきているが、それで果たして良いのか。
 太宰に何か違う。もっと別の方が良いと思われるのは今の状況では困る。どうにか成功で終わらせたいのだが。
 考え込む福沢。
 良い案が浮かばず悩むなか、ん、と福沢は辺りを見回した。誰かに見られているようなそんな気配を感じたのだった。だがそれらしい人物はおらず気のせいかと考え事に戻ろうとした。だが、何か引っ掛かりを覚えて辺りをもう一度見渡す。遠くはなれた場所にいる一人の女性が目につく。
 俯いて何事かを考え込んでいるような女性。白いブラウスに赤いワンピース。裾がふわりと膨らんでいる。既視感のあるような姿に見つめてしまえば、はらりと長い髪が揺れる。そこから覗く横顔。赤い唇。長い睫。ほんのりピンクに染まった頬。
 何処からどう見ても可愛らしい女性でしかない。
 ないのだが、福沢は一歩女性に向かって歩を進めていた。ちらりと女性が福沢の方を向いてそれから慌てたように背を向ける。さらに俯く姿に一度立ち止まりながら、進んでいく。確信が持てた。
「太宰、おはよう」 
 大きく跳ねた肩。振り向いた女性。真正面から見ても女性にしか見えなかった。こないだと同じように大きく見える目。どうやっているのかいつもより頬に丸みがあるようにも感じる。あっと開いた小さな口。閉じてからおはようございますと羽虫のような声が答えた。
 もじりとゆれる体を見つめる。ん、と首を傾けそうになったのは見下ろす背がいつもよりも小さく見えたからだった。目線が五センチは下になっている気がする。
 疑問に感じるが、それよりは別の事をしたほうが。考え太宰を見下ろす。太宰は視線から隠れるようにどんどん身を小さくしていた。これは、不味いと慌てながら言葉を探す。
 出てくる言葉はない。言うべき言葉は最初から分かっていた。ぐっと唇を噛んでから福沢は口を開く。その耳元が赤く染まっていた。
「今日も、その、可愛いな」
 ぱっと太宰の顔が上がり福沢を見る。褪赭の瞳が大きくなりながらじっと見つめてくる。喉の奥、鉛がつまったかのように重く感じながら福沢は口を動かす。
「服似合っているぞ。髪も何時もと違っていて、また可愛らしい」
 ほぅと太宰の口から吐息がこぼれていた。本当ですかと太宰がとう。こくりと福沢は頷いた。
「本当だ。とても愛らしい」
 じっと褪赭の見つめ返し、口にする。強くなった声。
「良かった」
 太宰の口から溢れた言葉。口元が綻ぶのにほっと福沢は胸を撫で下ろした。一先ずは良かったと太宰の隣に並ぶ。さて、ここからどう声をかければ良いのか。見下ろしながらまた悩んだ。太宰が福沢をちらりと見上げる。やはりここは福沢がエスコートした方が良いのだろう。だがそれにはどうするべきか。考える福沢は太宰が何か言いたげにしていることに気づいた。見上げてはそらし、でもまた暫くしたら見上げてくる。そしてその口は開いたり閉じたりを繰り返していて。
「どうかしたか」
 聞けば大袈裟なほど震える肩。じっと見上げてから恐る恐る口を開く。
「あの、手をその、繋いで欲しくて……」
 俯きながら言われるのに目を見開いた福沢。さっと辺りを見回していた。二人がいるのは待ち合わせ場所として良く使われる駅。待ち合わせ時刻にも最適な時刻なのもあり辺りには福沢たち以外にも数組のカップルがいた。手を繋いでいる者たちもいる。
 デートとはそう言うものだったかと納得し福沢は首をたてに振る。ああ、と答えた声が少し震えていた。
 そっと伸ばす手。その指先が震える。掴んだ太宰の手は冷たかった。繋いでその手も震えていることに気づく。ぎゅっと握りしめた。太宰を見やれば安心したように息をついていた。
「行こうか」
 自然に言うことができた。こくりと太宰が頷く。考えてきたデートプランを思い浮かべる。ありきたりなもの。太宰が喜ぶか分からない。失敗するかもしれない。不安は沢山だが兎に角太宰を不安にさせることだけはないように。心に決めるのにあのと太宰が声を上げる。あのと言って、下を見た太宰は福沢の裾を掴む。上目遣いで見つめられ福沢は固まりかけた。
「私、行きたいところがあるんです。今日はそこに行って貰えませんか」
 おずおずと言われた言葉に何とでかけただけだった福沢が固まる。計画が壊れてどうすれば言いか一瞬分からなくなった。なんとか立ち直って太宰にいいぞと答えていた。何処でも行きたい所に行こう。そう言えば太宰はまたほっとした様子を見せる。
 何処かぎこちない二人が訪れたのは日本庭園だった。
 横浜にある施設で歴史的建造物が移築されているとかで県が管理している場所。美しく心休まる景色をゆっくりと歩きながら見ていく。緑の中に時折猫の姿が見える。まるで我が棲家だと言わんように闊歩する猫にしばし福沢の視線は奪われた。小一時間ほど日本庭園の中にいただろうか。
 その次に向かったのは甘味処だった。
 旨いと評判の店らしくそこで食べたあんみつは確かにとても美味しかった。それからぶらりと横濱の町を歩く。猫が戯れている公園で時間を潰せば程よい時間帯。
 楽しかったですと笑う太宰を見下ろす。福沢はふぅと一つ吐息を吐き出した。このままではダメだと太宰の名を呼ぶ。どうしましたと見上げる太宰は不安そうだ。
「楽しくありませんでしたか」
 上目遣いで問われるのに福沢は首を振る。じっと太宰を見下ろして、そしてその口を開いた。
「そんなことはない。楽しかった。ただお前は楽しくはなかったのではないか」
「え」
 問いかけは問いかけでありながらも、ほぼ断定されていた。太宰の口が小さく開いて惚けた顔を見せる。どうしてそんなことを。戸惑うように見上げてくる瞳を見つめた。口を一度閉ざしながら福沢は頭のなかでたくさんのことを考えていた。どういうべきか。どう説得するか。考え、ある程度まとまった所で口を開く。
「今日は私の為に考えてくれたコースだっただろう。だからお前には楽しくなかっただろう」
「そんなことはないですよ」
 問えば太宰は完璧な笑顔で言葉を紡ぐ。とてもたのしかったです。そう心底楽しかったと言うような顔を作って笑う。それに福沢は顔の筋肉を僅かに動かした。眉を落とし少し悲しそうな顔になるように意識する。この方が太宰には通じる。そう思ってのことだった。
「私は今日のデートはお前に一番に楽しんで貰いたかった。だから少し残念だ」
 声を潜め悲しげな雰囲気を少しでもだしてみれば、太宰は予想通りに萎れ困ったように辺りに視線をさ迷わせる。申し訳なさそうな声を太宰がだす。迷子のように下を向く太宰に福沢は声をかけていく。
「お前がいやと言うことではない。私が私をふがいないと思っているだけだ。恋人なのだから私を楽しませることを一番に考えてくれなくとも良い。それよりお前が楽しんでくれた方が嬉しい」
「……」
 福沢の思いを一番にのせて告げた言葉に太宰は困ったようにしていた。口を閉ざしてどうすればよいのか分からないと言うように目が辺りを見回す。
「やはり、駄目か」
 その様子を見て福沢からはため息のような声がでていた。かなしそうに見つめるのに太宰が少しだけ上を向いて福沢をみた。えっとでていく戸惑った言葉
「今日ずっと緊張しているみたいだった。私が恋人と言うのはやはり受け入れがたいか」
「……」
 問うのに答えはかえってこなかった。瞳があちこちに揺れる。それが答えのようなもので。
「だが私は本気でお前と付き合う気がある。お前を大切にしていくつもりだ。今日のお前も凄くかわいかった。お前は本当に可愛い」
 少し照れながらも福沢は言葉を口にする。赤くなった頬。太宰の頬もまたほんのり色付いていた。可愛いと言われるのは嬉しいのだろう。固まっていた口元がほんのすこしだけど弛んでいる。
「社長とぶかと言うことは付き合う上では忘れて欲しい。なにも気にせずにくれると嬉しい。駄目か」
 太宰の目を覗き込むように問う。
「だ、めではないんですけど、でも、」
「意識してしまうか。それなら、そうだな。……呼び方を変えてみるのはどうだろうか。呼び方が同じでは仕事の事を意識してしまいやすいだろう。その……わたしのことを社長ではなく名前で呼んではくれないだろうか」
 歯切れの悪い声が太宰からでていく。それにそれもそうだろうと福沢は頷いた。すぐに出来ることだとも思わず何かいい方法はないかと考える。でてきたのはそれなりに名案だと思えることであった。
「名前で、」
 太宰の目が瞬く。口元が絡まりながらも福沢は話していく。
「私はお前の事を治と呼んでもよいか」
「良いですけど、その、名前でと言うことは諭吉さんと呼んだ方が良いのでしょうか」
「そこは別にどちらでも良い。お前の呼びやすい方で」
「では福沢さんとお呼びしますね」
小さく頷き、戸惑いながら太宰は聞いてきた。それに福沢が答えれば少しだけ安心したように太宰が福沢の名を口にした。
「少しずつでいい。少しずつ私を上司ではなく恋人として見てくれ」
 他の、誰か。お前を傷付ける相手のもとにいかないですむように。そんな思いを乗せて口にすれば太宰はこくりと頷いた。
「またデートしてくれるか。次は私がお前に喜んでもらえるよう行くところを考えてくる」
「はい。……楽しみにしています」
 次の約束を取り付けられたことに福沢はほっと笑った。所在なさげに立つ太宰の手を強く握る



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