かつて昔、今は敵である男を抱いていた事がある。
その関係性に恋人と言うような甘い名前をつけることはなかったが、互いに互いのことを特別だと思っていたのは間違いなかった。そしてその感情は今も色濃く残っている。
 もう何年も会っていないのに、その男のことは忘れられないままわずかな仕草でさえも全て覚えていた。
 だから……、一瞬抵抗ができなかった。
 ソファの上に押し倒されても動けず、着物の裾に手を入れられて初めて止めろと声をあげることができた。上に乗る男を睨み付ける。
 男は妖艶に口の端をあげて笑う。ループタイをほどく手に怪しい色香が宿っている。その姿にまた愛しいものの事を思い出した。あの男もそんな風に笑った。私の上に股がり笑い、そして着物の下に手を入れる。素肌をまさぐり快楽をこじ開けてくる。
「止めろ」
 記憶のままの光景を目の前の男が繰り返そうとする。それに待ったの声をかける。もう一度男を睨んだ。
「どうぞ。私を森さんだと思ってください。貴方も愛おしい人をその腕に抱きたいでしょう。その願いを私が叶えて差し上げます。
 ねえ、福沢殿」
 ひゅっ飲み込んだ息の音が聞こえた。
 目の前にいるのは愛しい男そのものだった。その顔に浮かべる笑みも仕草も、その声音さえも、
 森鴎外
 彼の人そのもので……。
 目の前にいるのが誰か分からなくなる。
「太宰、止めろ」
 目の前に森の姿が見える。そんな幻を消そうと男の名を呼んだ。そこにいるのが森ではなく太宰治であると認識する。だけども森の影は消えなくて。駄目ですよと森の声が囁く。
「他の者の名前など呼ばないでください。今だけは私をみて。ここには誰もいないのですから」
 細い手が福沢の視界を覆い隠す。薬品と何か甘い花の匂いが漂う。白い肌を思い出した。その肌に手を這わせた感触が、無防備にさらけ出された首筋に噛み付いた歯応えが鮮やかに甦る。
「ねえ、これは夢ですよ。一時だけの幻。
 何も考えずこの夢の中に溺れてください。私を抱いて。夢を見てください。ねえ、福沢殿。全てを忘れてしまいたいのでしょう」
 愛しき者が己にすがり付いてくる。決して自分の弱さは口にせず全てを私に押し付けて縋る姿は森医師そのもので素肌をまさぐる手も聞こえてくる微かな息遣い何もかもが愛した男だった。
 溺れてしまう。

 目を覚ましたとき、葉巻の匂いが漂ってきた。
 ソファの横のテーブル、その灰皿に捨てられた一本の葉巻。存在を残すように漂うその甘い匂いとそして、僅かな薬品の匂い。
 先程までの事が夢か現か分からなくなる。
 私は誰を抱いていたのだったか。








 あの日から時おり、その日が訪れるようになった。
 気付けば誰もいない二人きりの空間。太宰が笑う。その笑みが私には別の者に見えてしまう。幾ら違うと思えども愛した男に勝手に変換される。忘れた筈の思いが甦る。そして男が手を引くのについていてしまう。白い肌をまさぐる。甘い声が聞こえる。漂ってくる匂いに目の前がくらくらとする。
 私は夢を見ていた。
 男によってもたらされる夢の中に男は何処にもいなかった。
 何故こんなことをするのか。こんなことに何の意味があるのか。知りたいと思いながらも私は聞けずにいる。
 夢が終わってしまうのが怖かった。
 いつの間にか夢を見ていたいとそう思ってしまっていたのだ。


 その夢が覚めたのは突然の事だった。
















「好きですよ」
 夢の中、甘い声が聞こえた。抱きついてくる細い腕。聞こえてくる声に甘い吐息。揺れる腰の動きに汗をかいた匂い。全て記憶のままなのにその言葉だけが違っていて、強烈な違和感に目覚めた。
「好きです。ねぇ、今だけこの時間だけ、私を許してください」
 耳元で囁く弱々しい声。後ろに回った手が強く握りしめられていた。縋ってくる日があったならきっとそう縋ってきたのだろう。容易く予想できる。あの時、道を違うことがなければいつの日かその言葉を彼の人の口から聞けたのだろう。
 想像に難くなくだからこそこれは夢であったのだと目を覚ます。
「福沢殿」
 甘い声が己を呼ぶ。何故こんなことをしているのだろうかと思った。
 どうして? これに何の意味がある?
 誰かのふりして抱かれてそこにある意味は。男は、太宰は何を求めている。下になり森医師の声で喘ぐ太宰を見て考えた。答えはでなかった。問おうとしても問うことはできなかった。
 そうしようとする度、太宰はほぼ無意識のうちにすべてかわしていた。
「好きですよ」
 抱かれながら他人の感情を口にする。
 太宰の真意が分かったのはそれから数ヵ月後の事だった。その日太宰は何時もと違う言葉を口にした。
「ねえ、私を愛してますか? 教えて」
 森医師の声、森医師の仕草。全てを演じながらだけど、一瞬見せた縋るような瞳だけは演技ではないように思えた。
 ああと、声が落ちそうになった。
 そうかと思ったのだ。
 そうか。お前もまた夢を見たいのかと。
 太宰の瞳のなかに私はいなかった。きっと誰か別の者を見ていた。その者が誰かは分からない。ただ分かった。この子はその誰かに愛を囁かれたいのだ。その言葉を求めているのだと。
 私はただの代わりにしか過ぎない。分かって私は太宰を抱き締めた。
「ああ、愛している」
 囁いた声が閨に静かに落ちていく。目を閉じた太宰は満たされたようだった。



「好きだ」
「愛している」
「ここにいてくれ」
「好き」
 一度も口にしたこともないような甘い言葉を囁く。嬉しそうに綻ぶ口元。何処か余裕をもって見つめてくる瞳。私もですよと返ってくる声。そこにいるのは森医師で、太宰がどう思っているのか。本当のところは分からない。ただ何処か安心したように見えた。


 太宰との奇妙な関係は未だに続いていた。
 もう私は太宰を森医師として見ていないが、それでも太宰を森医師として抱いた。そしてあの男に告げたかった思いを口にする。それを聞いた太宰は森医師のふりをしながら、その下で誰かの声に変換していた。
 この関係に意味があるのかと言われれば、そんなものは何処にもないだろう。愛もなにもない、無意味な関係だ。
 それでも私がこの関係を続けたのは、分かりたいと思ったからだった。
 酷く難解で分かることの出来ない男を分かりたいとそう思ったからだった。


 行為が終われば太宰は何時もすぐに起き上がっては用意していた煙草に火をつける。甘い匂いのする煙が部屋のなかを満たす。それはかつて森医師がやっていた行為とおなじだった。だけど、上着を羽織り、ポケットから煙草とライターを取り出す。そして煙草に火をつける仕草は森医師のものではなかった。そして恐らく太宰のものでもないだろう。
 私はそれを何時も眠りに落ちそうな意識の狭間で見つめていた。
 一度の行為で疲れることはないが、太宰は何時も行為の最後には歯の奥に仕込んでいたカプセルを飲み込ませてくる。それは睡眠薬の類いなのだろう。はじめのうちは終わればすぐ眠りに落ちてしまっていた。ただ軍時代少しであるが薬物耐性をつけていたのと、慣れのため今はすぐに落ちることなく暫くの間は意識を保つことが出来ている。
 その僅かな時間、太宰を観察する。
 一人きりの太宰は火をつけた煙草を口に含む。器用な男がいつも煙に噎せるのは何を思い出してのことなのだろうか。ゆっくりと吸い込んで、そして煙を吐き出す。
 甘い匂いが強くなる。
 恐らくこの匂いには何の意味もないのだろう。吸って吐き出す。そこに意味がある。
 ふぅと誰かの真似をして煙を吐き出した太宰は、灰皿に煙草をおくといつも何処か遠くを見だした。そこには誰の姿もなく、いるのは太宰だった。
 遠くを見る太宰の横顔はとても静かでさざ波一つたってはいなかった。美しい顏の男だ。そうしているとまるで人形のようにも見えた。血の通わない陶磁器の人形。その表面はつるりとすべやかで。
 暫くして太宰の指が煙草を灰皿から取り出す。握りつぶしポケットのなかに押し込む。じゅっと小さく肉が焼けるような嫌な音が聞こえる。もう一度太宰は煙草に火をつけた。
 今度はそれに口付けることなく灰皿の上に置く。そして去っていく背中は小さく寂しげだった。
 暫くして起き上がる私は太宰が置いていた煙草に手を伸ばす。落ちかける目蓋を堪えながら一口だけ吸った。煙の味が口のなかに広がる。あまりうまいとは言えない味にかつてのことをいつも思い出す。
「何故そんなものを吸えるのだ」
 自分では吸わない煙草を吸う男に問いかけた問い。森医師はさぁ? と薄く笑っていた。
「何故でしょうね。私も好きではありませんからよく分かりません」
 煙を吐き出しながら森医師が言う。
 吐き出された煙は毎度のごとく私のもとまで届いていた。では、なぜと聞けば何故でしょうかと森医師が口の端をあげた。煙を吸い、そして吐き出す。わざとらしく私に向けて吐き出された煙に噎せれば、あの男はうすく笑っていた。
 ふぅと煙を自分の体に向けて吐き出す。甘い匂いが私を包む。
 これと同じ匂いをあの背もしているのかとそんなことを思った。灰皿に火を押し付ければ眠気がやってくる。



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