犬神福沢さんの話


………

「ストーーーーープ!!  それ以上は来るな! くるんじゃないよ!!」
 夕暮れ時、震えた怒鳴り声が響いた。その声に被せるようにバゥバゥと無数の鳴き声がする。ひぃと情けない声が上がった。道行く人が煩わしげに見つめるなか、長身の男が両腕を前に広げて後退っていた。腰が下がり足がブルブルと震えている。その前方には犬が何頭も存在してた。
 バゥバゥ、ガゥガゥと今にも飛び付き噛みつきそうな程に強く吠える。
 うぅと男は唸った。その顔は酷く歪んでいる。「もぅ、いやぁああ」
 泣き声じみた声が男から漏れた。バゥと一斉に犬がなく。ひぃと悲鳴をあげた男がバランスを崩した。背中から倒れていく男の視界には飛び掛かる犬の姿が見えた。絶望にその顔を染め上げる。

 数秒後。男は恐る恐るその目を開いた。予想していたような衝撃は一つもやってこない。地面に倒れていなければ犬にも襲われていなかった。何故だと思考する前に耳元へ低い声が掛けられる。
「大丈夫か」
 聞き覚えのある声に男は急いで振り替える。そこには壮年の男がいた。社長と男が呼んだ。
「大丈夫です。助けていただきありがとうございました。お陰で怪我をしなくてすみました」
「そうか。それにしても……」
 社長と呼ばれた男は言葉だけでなく実際に男の体をみて無事かどうか確認する。納得したその後に犬の方へと視線を向けた。男も嫌々ながらその方を見る。
「また随分な数に囲まれていたな」
「そうなんですよね。……別になにもしてないと思うのですが」
 うんざりとした口調で男は云う。その体はしっかりと壮年の男の影に隠れていた。犬たちはうぅぅと唸った。どうしたことか先程までの勢いはない。犬たちを見つめていた壮年の男の目が剣呑に細められる。殺気のような気配が立ち上ぼる。唸り声がなくなる。それと共に足を振るわせる犬。一秒後には脱兎のごとく逃げ去っていく。ぉおと男から歓声が上がった。
「相変わらず凄いですね、社長! 是非とも私を寮まで送ってくれませんか?」
「断る。寮は家とは反対方向だ」
「えぇ。そう言わずにまた犬に追いかけられたらと思うと恐いんですよ。社長なら追い払えるでしょう」
 ねえ、お願いですよと、男は壮年の男にすがる。だが壮年の男はそれを無視して自らが帰る方向へと足を進めていく。暫くはお願いします。お礼は必ずしますからと頼み込んでいた男が足を止めた。仕方ないと来た道を戻ろうとする男の名が呼ばれた。
「太宰」
 男が何だと見つめる。
「寮までお前を送るのは面倒だ。だから私の家に来い。それならば犬に遭遇しても大丈夫だろう」
 ぱちぱちと男の目が瞬いた。何を云われたのか理解できないと云うように首を傾げる。
「え……。いや、でも…、それは迷惑がかかるのでは」
「私が自分で云い出したのだ。気にせん」
「いや、それでも、そこまで「太宰」
 男の声が遮られた。銀灰の目が真っ直ぐに男を射ぬく。
「来い」
 一言告げて壮年の男は歩き出す。たった二文字大きな声で云われた訳でもないのにそこには強い力が潜み、抗えないまま男は颯爽と歩く背を追った。



 ふぅと男、太宰は心のなかで息を吐き出した。気まずいと声には出さずに思う。上司である男、福沢の家にお邪魔してしまい晩飯までいただいてしまった。しかも今日は泊まっていくことに……。やはり良いですから、怖くありませんからと何度も云ったのだが聞き入れては貰えなかった。
 そして今、太宰は福沢と同じ部屋で寝ようとしていた。夕食も終え片付け風呂にも入った後、少しの間共に酒を呑んでから寝るかとなったのであるが告げられたのは客間を片付けてなく使える部屋がないので福沢の部屋で共にと言う事実であった。布団は二組あるとは云えさすがに上司と同じ部屋に泊まるなどはと遠慮し、埃が多少被っていても気にしませんからと別部屋を希望したがそれもすげなく却下。なすすべもなく同じ部屋で寝ることに。
 布団に横になりながらも太宰は寝付けないでいた。福沢が起きているのも気配でわかり余計に気まずく感じる。
「どうした。眠れぬのか」
 どうしたらと悩んでいれば、福沢の方から声をかけられた。息を小さく飲む。
「少し、目がさえてしまいまして……。心配なさらなくてもすぐに眠ります」
「そうか……、なら、良いのだが」
 福沢からでた言葉にほっと太宰は肩を撫で下ろす。良かったと思った所に後ろから手が伸ばされた。えっと思う間にも抱き締められ布団のなかに福沢が入り込んでくる。己よりも高い体温が包み込んだ。
「眠れないのならこうしたほうが眠れることもある」
 耳元で福沢が囁く。混乱した声がでもと声をあげるのに大人しくしなさいと低い声が告げる。今日はこうやって寝よう。きっとよく眠れる筈だからと声にされて太宰は押し黙った。その肩が僅かに揺れる。慢性的に眠れていないことがばれていることに気付き心のなかで唸る。
 どうしようと思い悩むのに、暫くしてから福沢がそういえばと問い掛けた。
「お前はどうして犬を嫌うのだ」
 その声は柔らかく疑問の色はない。思うに寝物語の一つとして聞いているだけであろう。聞かれても特に理由など分かりませんがと太宰は返す
「ああ、でも一つ理由があるとするなら目かもしれませんね」
 目? と福沢が不思議そうな声を出した。犬の目が恐いのかととう。
「恐いですね。と言うより奇妙? 私に向けて吠えながら犬の目は何処か別の場所を向いてる気がして、まるで私の近くに見えない何かがいるようで気味が悪いです」
 云いながら太宰の肩は震えた。おぞましいとその口が云う。そうかと云って福沢は抱き締める腕に力を込めた。嫌な事を思い出させて悪かったと云われるのに震えるのをやめた太宰が云えと云う。それはいいのですが本当にこの体勢で寝るのですか。往生際が悪くも再度聞けば帰ってくるのはああと云う決意の籠った声だけだ。目を閉じれば眠れるから閉じてみなさい。声が告げるのにそんなわけないだろうと思いながらも目を閉ざした。


「案外分かるものなのだな」
 それも太宰だからかと福沢が声を出す。帰ってくる声はない。腕の中では安らかな寝息が聞こえていた。さてと福沢は呟く。銀灰の瞳が細く細められた。周りの空気が変わるように感じられぶわりと風が起こる。
 ぐぅるるると犬の唸り声のようなものが部屋の中を満たした。太宰を腕に抱く福沢の頭から大きな獣の耳が生えていた。
「消えろ」
 ドスの効いた声で福沢が何もない空間に呟く。太宰を抱えながら上にしていた手を大きく振りかぶった。ぎぃゃあああと断末魔のような音が響く。形容しがたい音と共に何かが部屋の中を駆け抜けていく。
 ふぅと息をはいた。
 部屋の中には今も前も何もなかった。だが福沢には見えていた。太宰の傍に絡み付くように存在する黒く赤い塊が。今はもうない。福沢が追い払った。これで暫くは太宰も眠れるだろうし、犬に襲われることもないだろう。少しは楽に日々を過ごせるはずだと福沢はもう一度抱き締め直す。獣の耳は消えていた。




[ 29/312 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -