猫の耳と尻尾が生えた治君を社長が拾う話

 月がまだ天高く上る丑三つの時刻、福沢は家の周りを歩いていた。彼が灯り一つついてない道を気配を断ち歩くのには当然のように理由がある。
 先刻家の中で寝ていた福沢は何かの物音で目覚めた。それはどさりと重い何かが落ちるような音ですぐに周りを警戒した彼が感じたのは殺気立った複数の人間の気配。襲撃かと身構えるのもつかの間、それがおのれの屋敷ではなくその周囲を慌ただしくかけているだけにすぎぬことに気付く。何が起きているのか確かめるべく物音をたてないように部屋を出て屋敷の外を伺う。塀の向こうでは大勢のものが走り回っている。開けた隙間からは見つかったかまだだ早くしろ今日こそ連れて帰らねばどうなるかくそあのくそ猫め足を撃ったからそう遠くにはいってないはずだなどという物騒な言葉が聞こえてくる。それに眉をしかめながらもしばらくは動かずに様子を伺っていた。
 やがて走り回っていた気配は別のところへと去っていく。
 目的のものを見つけられた様子はなくもっと遠くへと探しに行ったようだった。
 気配が完全になくなるのを待ってから福沢は屋敷を出た。気配を断ち気付かれないよう慎重に歩を進めながら最初に音が聞こえた方向に歩を進めた。人が隠れられそうな場所を探して歩いていると不意に何かの音を感じた。ざりりと何かが地面をかくような音。聞こえた前方へ目を向け注意深く見つめると道の端ゴミ置き場に捨てられたゴミ袋の合間。何か別のものが混じっていた。目を細めそれが何か確認しようとして福沢は首を傾げることとなる。
(猫?)
 丸い何かからぴょっこりと生えたそれはまちがいなく猫の耳であった。
(だがそれにしては幾分か大きいような、それにあれは……)
 小さく折りたたまって丸くなっているであろう体。その隙間からわずかに見えるのは人の腕のようにも見えた。確かめるべく一歩歩を進めると猫らしき何かの体が小さく跳ねる。福沢を警戒しているのが伝わり一旦は立ち止まるもののふっと風が吹きそれに乗って漂ってきた血の匂いにもう一度歩を進めた。近寄って来る福沢を威嚇するように猫らしき何かが唸る。顔を上げたそれに福沢は自分の目が見開くのを感じた。
 月の光が照らして何かの姿はよく見えた。
 ぴょっこんと頭の上に生えているのは猫の耳。最初見たときはぴんっと立っていたのに福沢が近づくにつれそれは後ろ方向へ垂れぴくぴくと小刻みに揺れだしていた。偽物と見るにはあまりに生々しい動き。だがそれが生えているのは猫の顔にではなかった。猫の耳の生えた頭から続くのは人間の顔だ。見るところまだ随分と幼い。ふっくらとした頬からも就学児前であることはうかがえた。
 驚きながらももしや異能者ではないかと検討をつける。脳裏に浮かんだのは社で働く虎の異能をもつ少年である。その少年と似たような異能の持ち主なのではと考えながら猫らしき何か幼子のもとに近づいていく。
「大丈夫だ。害を加える気はない」
 あと数歩の距離にまでなると立ち止まり福沢は潜めた声で隠れている幼子に声をかける。近づくほどに血の匂いはこくなり、その匂いに混じるように硝煙の匂いもしていた。
「怪我をしているのではないか? その手当をしたい」
 唸り声は止むどころか酷くなる。睨み付けてくる目に宿る怯え。どうにか警戒を解いてもらえないだろうかとできる限りやわらかい声を作る。がうまくいかなかったらしくより小さく丸まって警戒の目を向けてくる。
「いつまた追っていた奴らが戻って来るやも分からぬ。その前にせめて手当だけでもさせてほしい。私は貴殿の敵ではない。できれば貴殿を保護し護りたいと思っておる。分かってはくれぬか」
 言葉を重ねるものの警戒を解かれる気配はなく、そもそも言葉が通じているのかと言った疑問も湧き上がってくる。就学児前の子供であるならもう少し簡単な言い方をしたほうがいいのか。それ以前に幼子の様子は人と言うより猫そのものに近く言葉自体を分からないのではないか。疑問が巡る。その間にも大丈夫だと言った声を掛けるが反応は変わらずだ。それなりに分かりやすい言葉で話しても変わらない。
 幼子を見つけて十分近くたっていた。このままでは本当に戻ってきかねない。そうなれば厄介だと考え福沢は多少荒い手を使うことにした。
 数歩残っていた距離を一気に詰めると幼子に向かって手を伸ばす。激しい痛みが福沢を襲った。血がぽたぽたと流れ落ちる。 福沢の行動に毛を逆立ってた幼子が伸びてきた手にかみついたのだった。幼子の口には鋭い牙が生えているのか、それは簡単に薄い皮膚を突き破り、その下の肉に刺さる。例え幼子とはいえ渾身の力をいれて噛むのには骨が嫌な音を立てて軋んだ。
 痛みに顔は歪み脂汗が額を伝った。それでも福沢は無理にはがそうとはしなかった。懸命に歪む表情をこらえれば、噛みつかれていない方の手で幼子の頭をなでる。
「大丈夫だ。決して酷いことはせん」
 大丈夫。その言葉を何度か繰り返した。幼子は興奮しているのかしばらくは気付かなかった。やがて落ち着いて来れば頭をなでる手に気づき、噛みながらも呆然と見上げた。
「大丈夫だ」
 何度目かの言葉でようやっと幼子の口から力が抜ける。
「怪我の手当をさせてもらえるか」
「にゃあ」        



 それからすぐに福沢は大人しくなった幼子を抱え自宅へと戻った。屋敷の内、外からは灯をともしても気付かれない場所に子供を降ろす。
 幼子は酷いありさまだった。
 服は着ておらず、何処からか拝借したのかシーツ一枚を身に纏っているだけ。その隙間から見える細い足には、銃で撃たれた跡があり、化膿寸前にまでなっていた。傷はそれだけでなく、見える範囲全体におびただしいほどの傷の痕が。足裏などは靴も入っていなかったため、ピンクの肉が覗き、紫にまで変色している個所もあった。幼子に確認をとり、身に纏うシーツも取り除けば、その下の有様に目を疑う。思わず福沢は手当の事も忘れ、幼子を抱きしめていた。その身に宿る傷は、まだ就学児前の幼い子供が負っていいようなものではなかった。抱きしめられた幼子の肩がぴっくりと跳ねる。未だ警戒を解くことはないが、危害を加えないことは理解したのか幼子はされるままだった。そんな幼子の頭をなで、福沢は手当を始めた。
 一通りの手当が終わると、福沢はほっと息を吐き、幼子の頭をもう一度撫でた。手当をされる間、幼子は苦痛で顔を歪めながらも決して声を上げることはなかった。唇を噛み締め福沢を睨み付けていた。その目には妙なことをされたらすぐに反撃しよう。そう言った強い意志が宿っていて、それだけでも幼子がどんな環境にいたのかありありと想像でき苦しかった。頭を撫でられながら見上げてくる幼子からは、警戒心と人への怯えが見える。
 本来ならばすぐに女医である与謝野を呼びたいところである。だかその様子から福沢はそれをやめておいた。今しばらく、せめて幼子が福沢に慣れるまでの間は、二人きりの方がよいだろうと判断したのだ。



 幼児を拾ってから二週間近く。福沢への警戒はいまだなくならぬ。だが徐々に薄くなりつつあった。距離がだいぶ近付いてきている。最初の頃は部屋のすみから動かず、福沢が手当ての時以外に近付けば唸り声をあげ、御飯もちょっと離れた所においた後、福沢が部屋からでていかない限り食べなかったが、今は福沢が近付いても警戒はするが唸り声はあげない。御飯も持っていけば恐る恐る近付いてきて福沢がいる前でも食べ始める。
 ここまで来るのに二週間。
 先はまだまだ長く福沢の中には焦りが募り始めていた。気長に幼児が心許すのを待つつもりであったが、最近になって福沢の周りによくない輩がちらつくようになったのだ。武装探偵社の長である以上そういった輩に狙われることはよくあることではあったがタイミング的に福沢を狙ったものではない可能性も高い。幼児が外にでたことはないが拾った次の日幼児用の服などを買い集めたためそこから疑われることもあり得るのだ。幼児からの信頼を得られる前に襲撃にあうのは避けたいが、かっといって無理矢理距離を縮めようとすれば余計に悪くなるのは見えている。どうするべきかと悩む福沢だが妙案は一向にでてこなかった。
 その状況を一転させたのは驚くべきことに幼児の方からだった。
 不埒ものの気配を感じはじめて五日、その日家に帰った福沢が見たのはいつもの部屋ではなく居間にいる幼児の姿だった。幼児の姿をまず見に行こうとした福沢だが居間から物音がするのに気付き急ぎそちらに向かった。気配の感じから襲撃者などではないことは分かったがそれでも慎重に歩を進める。複数の声が聞こえるのに気を引き締めて開けたドア。見えたのは幼児が一人テレビに釘つけになっている姿であった。眼を丸くして立ち尽くす福沢に幼児が気付く。幼児は肩を震わせ身構えながらも福沢を見つめた。その姿に既視感を抱いたのはそれが昔乱歩が怒られる度にしたしぐさに似ていたからだった。圧が強いと言われる福沢はできる限り柔らかい雰囲気になるよう努めて幼児の元に近寄った。ますます縮こまる幼児の頭にてを起き安心させるように撫でつける。幼児が不思議そうに手を見てそれから口を開いた。
「……ごめんにゃさい」
 ぽかんと今度こそ大きく福沢の目は見開いた。それこそ取れるのではないのかと言うほど大きく見開いて福沢は幼児を凝視した。幼児が話したのは初めての事だった。何度か声は聞いたことのあるもののそれはすべて猫の鳴き声で福沢は言葉はでないものなのだと思っていた。
「喋れたのか」
「うん。……ちょっとしかことばわかんにゃい。にゃから」
 驚きのあまり口から飛び出した問いに頷きながら幼児が答える。その声はたどたどしくちらちらとテレビに視線をやるのになるほどと福沢もまた頷いた。幼児がテレビを見ていたのに納得した。言葉を知るために見ていたのだろう。だが、だとしたらこの子は。
「あにょ」
 思考を遮って辿々しい声が音を紡ぐ。紡がれるそれに福沢の目はまたもや見開くことになる。そしてすぐに険しく細められる。
「にゃんでおいださにゃいの。
 にゃ、……にゃっと、わたしおってたやつりゃ……いえのまわり……にゃ、めいわくでしょ。けがすりゅかも」
 福沢を見つめる幼児の目。警戒の色は勿論ある。だが今一番強く感じるのは不安の色だった。幼児の頭に触れる手に力がこもった。ピクリと肩がはねあがるため何とか堪えるが福沢は今怒りが沸いて仕方なかった。勿論幼児に対するものではない。幼児にこんなことを言わせてしまう、言わせるようにしてしまった何かにたいしてである。その怒りを必死にこらえ福沢は幼児の頭を撫でる。そうしていなければ落ちつかなった。
「そんな心配をする必要はない」
「んにゃ?」
「あ、いや気にするな。き……お前を追い出すつもりはない。狙われているのをしょう、理解して、わかって家にあげたのだ。今更迷惑だと思うようなことはない。そのようなことを幼い子供が気にする……気にしなくてもいいのだ。
 私はお前の味方だ。……傷付けようなことはしない。むしろ、守りたいと思っている。私にお前を守らせてくれぬか」
 できる限り分かりやすく噛み砕き、所々幼児が分からぬのか首や眼を動かすのに言葉を変えながら福沢は話した。子供の相手などそうしたことのない福沢には随分難しい問題であったが幼児に伝わるよう心を込めた。幼児は眼を瞬く。大きなチョコレート色の目が不安げに揺れる。
「わたしへんだよ。きしょくわりゅくにゃいにょ? ……ばけもにょっていたいにょ」
 幼児はまだ何かを告げようとしていた。だが福沢はそれ以上は言わせなかった。幼児を抱き締めてその頭を何度も優しくなでる。
「お前を変などは思わない。他がどう言おうと気色悪くなどない。とても愛らしい可愛い子供だ」
 幼児の手が福沢を掴んだ。躊躇うように着物の布をほんのちょっとだけ。それは子供が初めて伸ばした手だった。
「わたしここにいていいにょ」
「ああ。むしろどうかここにいてはくれまいか? 
お前が望む、いたいと思う限りずっとここに。その間私がお前を守る」
 こくんと子供の頭が動いた。まだ恐る恐るだが力を抜いた体が福沢の胸に寄り掛かる。



 それから三週間後。幼児は大きな帽子を被り福沢の足元に隠れて一つの扉の前にたっていた。
 あの日を境に福沢への警戒心はだいぶなくなったがそれでも完全にとけるには三週間近くかかった。だがその三週間の間で幼児は福沢へ信頼の念を送るようにもなっていた。今では福沢が帰れば自分から近寄ってくるし、食事も共にとる。頭を撫でられるのが癖になったのかまだおずおずとではあるが擦り寄せてもくるようになった。最近では眠った後にこっそりと布団の中に忍び込むこともある。それで朝方これまたこっそりとでていこうとするのだが、それは寝返りをうつ振りをして幼児を抱き締めて阻止していた。朝になればごめんにゃさいと叱られた子供のような顔で謝るのに頭を撫でて共に寝たいのなら寝てくれていい。言ってくれたら添い寝などいくらでもすると告げ続けている所だ。
 そんな風に福沢との距離は縮まり、ならばと連れてきたのは武装探偵社だ。
 福沢のみならず多くのものと接することのできるようになってほしいと外にでるのを嫌がる幼児を何とか説得して連れてきた。それにここ一ヶ月は回避してきたものの仕事の都合などで二三日家を空けることも多い福沢だ。幼児の預け先も作りたかった。
 開けるぞと声をかけてドアノブに手をかける。幼児の体が緊張で強ばった。帽子の下に隠れた耳もぴんと伸ばされて、帽子の生地がもぞりと動く。そんな幼児の頭をなで大丈夫だと囁いて扉を開く。中ではさきに幼児のことを告げてある探偵社員たちが今か今かとその扉が開くのを待ち構え、そして扉が開き幼児の姿が現れると笑顔で歓迎する。

『初めまして治くん。武装探偵社にようこそ』









 私が産まれたのは何処かの研究所だった。そこには私と同じような存在がたくさんいて、そしてたくさん廃棄されては産まれていた。もしかしたら産まれたという表現は間違いかもしれない。作られたと言ったほうが正しいのかも。
 私は人の中でも偉い人達、その人達のための娯楽用品として作られた猫と人間の遺伝子を組み合わされた何か。見目麗しく作られて偉い人達を悦ばせるのが役割。
 他にも戦闘用とかにも作られている子達がいるらしいが詳しくは知らない。私は娯楽用だから。いまだ試作品段階で不備もたくさんあるらしい。だが気の早い偉い人達の相手を私はたくさんさせられた。他にも娯楽用の子達はいたけど何故か私が相手をさせられる回数が多かった。私は他の子達とは違うって。
 自分の意思がありもしかしたら私は成功品になるかもなんて私を作った人たちが言ってた。だからか私は他の子達よりも一杯検査もされた。
 多くの人たちが私を見ては嬉しそうに笑う。

 やっと完成するかもしれない。意思がある子をもっと作っていければ。やっぱり反応があるほうが面白い。抱くなら反応がなければな。意思がなくてはつまらない。

 そんなことを言ってた。
 だけど私はその意味がちっとも分からなかった。彼らがよくいう私が他の子達とは違う意思とは何なのか理解できなかった。確かに私と他の子達は違った。他の子達はみんな同じ顔。毎日毎時間ずっと同じ顔。誰を相手にしても同じで言葉も発さない。
 それでも違うようには思えなかった。私も他の子達と同じ心の中は何も変わらない。何も感じない。ただ、そうただ学習してるだけ。
 どうしたら相手が喜ぶのか。相手が喜ぶ反応は何なのかを学習してそれを反映してるだけ。そうしたら少しでも早く終わるって学習したから。だけど何でかな。せっかく学習したのにそのせいで痛い思いをする機会が増えた。
 別に痛くてもどうでもいいけど早く終わらせるに越したことはないでしょ?
 よくわかんないけどこれも学習したこと。痛いことや面倒ことは短いほどいいって誰か言ってた。だからどうにか終わらそうと表情を作るのをやめたけどそしたらたくさん殴られて怒られた。いろんな人に代わる代わる。あんまり長いから終わらせるために学習してきたことを反映させる。そしたらみんな喜んですぐに終わって検査された。やっぱりこっちの方が良いのかって学習して続けてる。
 それをみんな意思だというけどそれって意思なのかな? 意思って何なのかな?
 私には分からなくて……。
 それが何なのか知りたくなったの。でもきっと研究所にいたままだと分からない。だから逃げ出した。
 意思が何か分かれば私が何か分かる気がしたんだ。

 逃げ出してすぐに研究所の追っ手がきた。逃亡生活は大変だった。研究所の追ってはしつこいし、初めて会う研究所の外の人達はみんな私を見ては驚いた顔をして悲鳴をあげたり化け物だと罵ってきたり。後犬とかって言う奴にも追い掛けられて噛みつかれたりもした。
 散々でそれでも意思が何か知りたくて必死に逃げてたけど終わりかもなんてその時思った。体が動かなかったから。でも諦めきれず最後の力を振り絞って何かの袋の山に体を押し込んだ。すごい臭いがしたけどそんなの気にしてられなかった。その後すぐに追っ手がやってきた。私は必死に息を殺した。追手の何人かは私のいる場所を怪しんで足で蹴ったり銃を撃ってきたけどその度に体を抑えて耐えた。しばらくするとみんながその場を離れて誰も来なくなった。何処かにいった隙に逃げなければと体を動かし山から体を出すがそこまででもう動けなかった。逃げなければと思うのに体が言うことを聞かず本当に終わりだと思った。そこにあの人がやってきたの。
 不思議な人で私が思わす噛みついても怒らなかった。前に誤って偉い人を噛んでしまった時はその偉い人や作った人達に一日近く殴られ三日も餌を与えられなかったからそれにまずビックリした。その上の怪我の手当てをしたいなんて言ってくるから……。信じられなかったけど怪我したままじゃ逃げられないから手当てはしてもらうことにした。そうして連れていかれたあの人の家。そこで手当てされた。何度か頭にあの人は手をおくけどそれが何でなのか初めてのことで分からなかった。そうされる度に何だか胸のあたりがほんわかしてそれも初めての感覚だった。
 手当てをされてあの人の家に置かれるようになった。もしかしたら怪我がある程度治ったら偉い人達みたいに色んなことをしてくるのかなと思ったけどそんなこともなく戸惑った。最初のうちは近づいてくる度に何かされるのではないかと思ったが次第にそんなこともないと分かっていた。
 そんなある日、追っ手があの人の家の近くに潜んでいるのに気付いた。あの人もその事に気付いているようだった。だから追い出されるのかなと思ったけどそれもなくて……何でか聞こうと思った。だけど私はそんなに言葉を知らなくて聞こうとしても何も言えなかった。知ってるのなんて精々偉い人達を喜ばせるための誘い文句とか卑猥な言葉?とか言うやつだけ。何か言葉を覚えられるような奴と家の中を探して黒い箱を見付けた。それと似たようなものを研究所でも見たことがあった。何か変な棒のような奴を操作すれば画面がついて人が一杯写って話すのだ。丁度いいかもと思ってそれをつける。何とか言いたいことは言えるようになってあの人に伝えた。
 あの人は凄く優しい手で私の頭に触れてくれた。それから気にしなくていいって。私が言葉が分からないから多分凄く噛み砕きながら私でも分かるように必死に伝えてくれた。それからぎゅうとされた。何度か偉い人達にもされたことあるけどそれとは違った。何だか暖かかった。ここにいていいって守るとかってよくわかんないけど怪我とか痛い思いとかしないしようにてくれるとかそんな意味だよね。そうしてくれるって……。
 あの人は研究所や私が出会った人達とは全然違うんだってやっと分かった。
 最近あの人の側に居たいってよく思う。頭を触れてもらいたいし、ぎゅってしてたいって。そうしたら胸のあたりがほかほかするの。それは学習して得たことじゃないんだけど、これが意思とかって奴なのかな?
 まだ意思についてはよく分からない。いつか知りたいと思う。でも今はいいや。あの人の側にいる方がずっと重要だから。
 こないだあの人が名前をつけてくれた。つけてくれたのとはちょっと違うのかな。研究所では036という番号がついててそれでみんな私をおさむと呼んでた。その話をするとあの人は少し苦い顔をしたけど、それで呼ばれてたなら変えない方が良いかと言った。でもその変わりに漢字という奴をつけてくれた。
『治』
 これでおさむ。今までと呼ばれかたは変わらないのに全く違う何かになった。呼ばれる度に胸がぶわってなる。一杯呼んでほしいと思う。
 あの人の名前は福沢諭吉。私もこの名前を一杯呼ぶの。それであの人もぶわって感じてくれたらいいな

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