三十代の頃、福沢はある日唐突に奇妙な記憶を思い出した。己が生きてきた時間と同じ時間、そしてそれから先の時間をいきる己の姿。それが前世と呼ばれるものの記憶だと何故かすぐに理解してしまった。到底信じられないような荒唐無稽な話でありながらもそうなのだとすんなりと受け入れる。かつての己が生きた頃に感じてきた様々な思いが福沢のなかを溢れていた。
そのなかに一つ一等強く浮かんだものがある。
何でもないですよと笑った顔。大丈夫ですと微笑む。さよならと呟いた後ろ姿。それが最後になるなど考えたこともなかった。ただ胸騒ぎだけは感じていた。
あの時何故追いかけなかったのか後悔し、そして己を救ってくれた養い子さえも恨みかけた。何故幸せにしてやらなかったのかと。福沢はそれだけを求めていたから。
ふわりと笑う姿を思い出す。何もかもを隠す笑み。本心は決して見せなかった。仲間でありながら何処か遠い場所にいて一人抱え込んでいた。彼が幸せになってくれるのが望みで、それが叶うのであれば福沢が抱いた淡い思いなど叶わなくとも良かった。
きっと養い子が望みを叶えてくれるのだと思っていた。だけどそれは間違いだった。
記憶を思い出して福沢は一度目を閉じた。思い出す姿。今だあの頃抱いた思いはすべて己の中に。幸せにしてやりたかった。ずっと笑っていてほしかった。そして……。
目を開いた。やることは決まっていた。
それからすぐ福沢は横濱の街をくまなく探し回った。特に貧困層が集まる治安の悪い路地裏などを徹底的に探し、そして一ヶ月かけてその子供を探し当てた。男に抱かれ、人に言われるままに人を殺してそうやって食べ物を手に入れているまだ小さな子供。路地裏に意味もなく座り込む彼は何も写さぬ虚無の目で福沢を見上げた。
「何をすればいい」
掠れた声がとう。
「何もしなくていい」
福沢の返しに子供からの返答はなかった。福沢を見上げたまま固まりそれから動かない。福沢の返しは子供の空きだらけの辞書にはない言葉だった。
「もう何もしなくていい。これからは私がお前を育てて行く。
お前はまだ幼く小さい。今はまだ私の保護下でただ生きてくれたらいい」
おいで。
福沢が差し出した手を子供の目が捉える。ぼんやりとした目で眺めながらゆっくりとその手が伸びた。小さな手が福沢の手に重なる。何を言われたのか何て欠片も理解はしていないだろう。それでも福沢はよかった。
子供をひろってからも暫く福沢は人斬りを止めなかった。止めたいと思うこともあったがまだ己が切る必要がある相手がいることを知っていた。この国を火の海に変えようとする愚か者がいて、それを斬らないことには戦が終わらないことを。だから前の時止めた時までは続けた。頭のいい子供は福沢が何をしているのかを知って手伝いを申し込んでくることもあったがその申し出を受け入れたことはない。人斬りを止めてから以前歩んだ通りに護衛の仕事を受けるようになった。以前よりは頻繁でもなく子供との時間を一番に大切にしながら細々と生計を立てる。最低限にしか仕事をしないためあまり贅沢をできる生活ではなかったが福沢も子供もそれで充分だった。
そんな日々を続けて数年。ある依頼が一件福沢のもとに舞い込んできた。それはとても思い入れの深い事件。前の人生ではその依頼の日に養い子と出会い、そしてそれが福沢の人生を大きく変えた。もうそんなときかとため息がでる。幼い子供を見る。十になった子供は福沢のもとで健やかに育ち、その顔には愛らしい笑みを浮かべる。どうかしたのと覗きこんでくる褪赭の目。小さな手が福沢の頬に触れ大丈夫と首を傾ける。
随分と福沢になついた子供。
福沢にとって子供は宝物だった。前世では手に入れられなかった。誰にも渡したくないと思う。ずっと傍に。
だけど……。
自分を救ってくれた養い子を一人にする道もまたどうしても選べなかった。
「お帰り」
福沢が帰ってきたのに気付いてがらりとドアを開けた子供がびくりと固まる。
「何、この子」
「子供がいたのか」
福沢の両隣からはそれぞれ声が聞こえる。養い子との出会いの日。福沢は前の時よりもずっと早く養い子と出会ったビルに赴き、そこで行われるはずだった殺人を食い止めた。そして前にそこで出会った赤髪の暗殺者も捕まえた。詳しくは素性を知らぬ相手だが彼が子供にとって大切な相手であることは知っていたのだ。そして養い子に出会う。前の時と同じではないが似たような道を辿りながら養い子を拾い、三人で家に帰った。
初めて出会う二人に子供は戸惑う様子を見せる。福沢を見上げて泣き出しそうな顔をした。福沢は二人の子供を一旦おいて子供のもとに近付く。不安げな子供のまえで両腕を広げれば子供は勢いよく抱きついてきた。ぎゅっと胸元にしがみついて福沢に隠れ二人を見つめる。
「誰?」
「今日からともに暮らす者達だ。お前の兄さんだとでも思え」
「にいさん」
不思議そうに呟く顔はまるで見知らぬ言葉を聞いたようだった。
「治。ほら、挨拶をしなさい」
「……」
福沢を見上げる子供はまだ少し不安の残る顔をしながらそれでも二人を腕の中から真っ直ぐに見つめる。
「治。……福沢治。よろしく」
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